犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

石原環境相の「金目」発言 その2

2014-06-27 23:51:45 | 国家・政治・刑罰

(その1からの続きです。)

 国民の代表である政治家や大臣が「結局は金目である」という本音をうっかりこぼしたことについて、この不道徳性への怒りの世論を喚起しようとする心情に対しては、私自身は何とも言えない偽善臭を感じます。権力者の言葉を一般庶民のそれと異なる地位に置き、これに本気で怒る絶対的な正義は、純粋な社会的弱者を装い、あるいはこれを利用し、本物の絶望を直視していないと感じるからです。

 あまり大きな声では言えませんが、「最後は金目である」という言い回しは、法律問題を処理する場所では日常的に飛び交っています。事故や事件の賠償の案件において、大前提として、加害者側の弁護士と被害者側の弁護士が純粋な意味で相互に戦うことはありません。代理人はあくまで代理人であり、本人ではないからです。すなわち、「お金に換算することなど不可能な気持ち」は持ち合わせていません。

 交渉事の現場では、対案のない要求はルール違反であり、「具体的な金額の話が出てきたらゴールは近い」と言われます。金額のすり合わせの話は、その即物的な性質ゆえに汚い大人の交渉とならざるを得ません。最大限に自分の立場を主張しつつ、落としどころを探りながら、いきなり譲歩するという変わり身の早さです。そこでは、有利な証言や証拠を得るために、更にお金が動くことになります。

 ある種の問題発言について、一方では純粋な怒りが政治的意見として声高に叫ばれ、他方では社会の垢で真っ黒になった実務的な理論が制度を動かすとき、いずれにしても「お金を払ったら終わり」であり、終わったことは過去のことになります。あくまでも金銭賠償は作り話であり、過去は戻らず、金銭による修復はあり得ず、この答えのない問いの前で苦しむ姿勢の共有だけが可能なのだと思います。

石原環境相の「金目」発言 その1

2014-06-24 21:43:39 | 国家・政治・刑罰

平成26年6月23日 MSN産経ニュースより

 石原伸晃環境相は6月23日午前、東京電力福島第1原発事故で出た除染廃棄物を保管する中間貯蔵施設の候補地、福島県大熊町の渡辺利綱町長に会い、施設をめぐる交渉について「最後は金目でしょ」と述べた発言を謝罪する。

 石原氏は会津若松市内に移転している大熊町の役場を訪問。午後には、同じく候補地である双葉町の伊沢史朗町長に役場移転先のいわき市で、夕方には福島県庁で佐藤雄平知事に会う。石原氏は16日、中間貯蔵施設に関する住民説明会が15日に終了したことなどを、官邸で菅義偉官房長官に報告。その後の記者団の取材に対し「最後は金目」と発言した。

 佐藤知事が「住民のふるさとを思う気持ちを踏みにじる」と述べるなど、福島県側から批判が高まり、石原氏は17日の記者会見で陳謝。19日の参院環境委員会で「品位を欠いた発言で誤解を招いた。おわびして撤回する」と述べた。


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 貨幣とは価値の尺度であること、そして貨幣は価値を媒介する交換手段であることの残酷さについて、いくら机上で理屈を学んだところで、その本当のところはわからないものと思います。「お金に色を付けても色は付かない」という事実について、私が身に染みて理解させられたのは、精神的苦痛の慰謝料の支払いの現場での受け渡しや振り込みの業務に日常的に従事するようになってからのことでした。

 「最後は金目である」という論理の破壊力は、お金の獲得を目的にする意思が毛頭なく、その何かを金銭に換算する思考を唾棄すべき時に、否応なく入り込んで来るものと思います。お金を支払う側は、その損失ないし苦痛の負担が制度趣旨である以上、「払えばいいんだろう」という精神の動きを免れません。そして、経済は議論の過程ではなく結果によって動き、世の中のシステムが回り始めます。

 貨幣は価値の尺度であるが故に、大金を手にする者に対しては、それがいかなる名目であっても、必ず羨望の視線は向けられるものと思います。「焼け太り」なる概念は、嫉妬心以外の感情が生み出すものではありません。そして、「誠意がない」との直観が「金額が安すぎる」という実利的な形を強いられた瞬間、あらゆる観念はこの色のない構造の中に入れられ、出られなくなるものと思います。

 何物かの補填として高い賠償金を得ることは、社会的には「金銭欲が満たされて満足だろう」という判断を向けられざるを得ません。他方で、低い賠償金しか得られないとなれば、人生をお金に換算される惨めさを強いられることになり、いずれにしても損失の修復は不可能です。紛争解決の落としどころが「最後は金目である」ということは、いかなる意味でも正しく、そして残酷なことだと思います。

(続きます。)

韓国旅客船沈没事故について その2

2014-04-22 23:21:39 | 国家・政治・刑罰

 国レベルの外交問題について、その国家に守られた一般庶民が自分の意見を持ったところで、ほとんどの場合は的を外すことになると思います。マスコミの断片的な情報だけを元にして、外交交渉の複雑な裏側や汚い駆け引きも知らず、現場の切迫した状況とは無縁の場所で頭をひねったとしても、単なる評論家気取りの域を出ないからです。今回の事故が何らかの外交カードとして利用されるのか、思わぬ形で韓国の反日世論の高揚に結び付けられてしまうのか、私にはよくわかりません。

 ただ、私が一般庶民として肌で感じたことは、今回の大事故によって、竹島の領有権、従軍慰安婦問題、歴史認識、靖国参拝といった数々の議論が一瞬飛んでしまい、韓国のほうが一方的に休戦状態に入らざるを得なくなったということです。しばらくすれば元に戻るのでしょうが、この長年の問題が一瞬でも中断したということは、目の前で起きた大事件のほうが強い力を持つ事実を表していたものと思います。国内の厳しい問題は、国外に敵を作って批判したところで解決しないからです。

 今回の有事に直面して私が感じたことは、ここ数年来の反日と嫌韓によるギクシャクした状況は、ある種の平和な状態の具現化であったということです。およそ平和という話になれば、日本が過去を反省し、平和憲法を守り、軍国主義の復活を防止するという論理の流れがあまり強力だと思います。しかしながら、過去から現在に至る正しい歴史認識を有しているというならば、現在の有事に直面して歴史認識を論じる余裕がなくなるはずもなく、歴史に足を掬われることもあり得ないと思います。

 歴史とは何かという点について、小林秀雄は「歴史とは子を失った母親の悲しみである」と述べていたと思います。今回の事故も人類の歴史に組み込まれることを想起するとき、この言葉は歴史について非常に当を得た指摘であると再認識させられます。また、国家間の歴史認識なるものは永久に決着が付かない種類の話ですが、「何か突然の事態が起きた時に備えて隣の国とは仲良くしておいたほうがいい」という認識については、日韓の庶民レベルで広く共有されたことは確かだと思います。

韓国旅客船沈没事故について その1

2014-04-21 23:27:00 | 国家・政治・刑罰

 子を思う親の気持ちは万国共通であり、このような事故状況で人間の焦燥感やもどかしさが頂点に達することについては、日本と韓国の間に寸分の違いもないと思います。「必ず生きて帰って来ると信じている」という親の信念が純粋に否定できない点も全く同じです。また、人は死者となった瞬間にその内心が想像されなくなることや、必死の捜索に従事する者の使命感にはスポットが当たらないこと、行き場を失った数々の思いは責任者探しや美談に飛びつきやすいことなど、両国の間に差は全く存しないとの感を持ちます。

 ここ数年の日韓関係については周知のとおりですが、今回の厳しい事故に接して1人の人間として心を痛めない日本人がいるならば、それは正当な愛国者でも保守派でもないと思います。嫌韓の流れで韓国政府や船長のみを非難し、修学旅行生を被害者の地位に置くことは簡単ですが、この事故についてのみ善悪の線を引き直すことは、あまりにご都合主義だと感じます。現に、亡くなった修学旅行生の中にも反日の生徒は多くいたでしょうし、逆に嫌韓の感情は韓国国民に一人残らず向けられるはずのものだからです。

 日本で愛国心を語ればあらぬ議論に引っ張られますが、人が自らの国に対する親近感を持つことは至極自然のことと思います。人は誰しも生まれる国を選べない以上、あえて愛国心なるものを持つ必要もありませんが、逆に自分の帰属する国を嫌悪して批判を浴びせることは、相当にひねくれた心情だと思うからです。日本と韓国を論じる場合にも、「A国」「B国」という匿名に置き換えて互換性がなければ、普遍性を欠くことは当然です。「ある国が一方的に別の国の右傾化を懸念する」という理屈の筋が通ることもないと思います。

 国は人間の集まりの別名にすぎず、人は極限の状態に置かれた時ほど普遍的な論理を自身の中に求める結果、国の違いなど無意味になるのだと思います。これは、「宇宙からは国境は見えない」「人類皆兄弟」といった面倒な話でもなく、理想の世界の建設に向けた希望でもなく、現に「国家」なるものは個人の脳内にしか存在しないという事実の表れだと思います。私は、「仲良くしようぜ」というプラカードからは偽善臭しか感じない者ですが、今回の事故の報に接して直観的に心が痛まない日本人は言語道断だと感じる者です。

(続きます。)

東日本大震災の保育所の裁判について その9

2014-04-01 23:39:46 | 国家・政治・刑罰

 今回のような訴訟が提起され、かつ原告側の敗訴となった件について、当事者の関係者以外の法律家は基本的に無関心だと思います。これは、全国の弁護士会が熱くなって会長声明を出すような裁判とは非常に対照的です。証拠から事実を推論する民事訴訟の構造からは、恐らく原告の敗訴になるだろうという予想を有しつつ、そのようなシステムを主宰していることに心を痛めることがありません。そして、これを期待しても虚しいことは、私が自分自身の心情を観察して深く知り抜いていることでもあります。

 法律家の得意分野は、ロゴスではなくロジックです。重箱の隅を突いて揚げ足を取ることは得意ですが、天災の論理の前では肩書きなどは役に立たず、狼狽するのみだと思います。「社会に問題提起したい」と言っても敗訴すれば逆効果となる危険があり、勝訴の先には「裁判に勝っても死者は帰らない」という絶望がある以上、従来の法律の理論とはポイントが合いません。逆に、双方に訴訟代理人が就くが故の容赦ない人格の非難合戦を生じさせ、争いを泥沼に陥らせるのが法律の常態であるとも感じます。

 最後は私自身の無責任な願望ですが、このような訴訟では双方の弁護士が通常の論理を切り替えて、天災を前にすれば法律は所詮はこの世のルールに過ぎず、法律の白黒を超えた「謎」「真実」が存在し、被害者の死ではなく自らの死を捉えつつ普遍的な論理を語る契機があれば、死者の上に敗訴判決が上乗せされる絶望は避けられたものと思います。「千年後の未来の子供達」どころか僅か3年で風化が指摘される社会状況において、このような決裂を避けるべきことが法律家の役割であると思うからです。

東日本大震災の保育所の裁判について その8

2014-03-31 22:14:08 | 国家・政治・刑罰

 裁判は所詮は人間のやることですので、白と黒は時と場所次第で逆になりますし、法的正義の所在も全く変わります。裁判所に「何か」を訴えるそれが何であるのか、世間の一般常識で問い詰めるならば、その先は「誰かを悪者にして叩きたい」「過去をいつまで引きずる」「長々と争って更に苦しむ」という安易な解釈に流れがちだと思います。解釈する側の立ち位置の投影にすぎないと理解していても、やはり話があまりに通じないのは情けなく、私も仕事の過程でがっかりさせられることが多くあります。

 法律実務家は、概して実際のコストや経営を度外視した理想論を嫌いますので、「真実を知りたい」「社会に問題提起したい」という要求を受け止めることは非常に苦手だと思います。そして、「人の命に値段はつけられない」という正論は、多くの法律実務家に反感を生じさせるばかりか、自分の仕事の意義を否定されたような不快感をも生じさせるものと思います。「お金じゃなければ毎週毎週土下座しに来てもらえれば気が済むのか、そんな子供のような理屈は社会では通用しない」という話です。

 また、金銭の支払いが訴訟の目的となると、それに合った立証が求められるため、全ては所定の型にはめられます。特に、精神的苦痛の慰謝料請求においては、苦痛が体の異変として表れないと外部から見えないため、とにかく心ではなく身体の痛みを主張することが重要とされます。すなわち、本人の手記よりも医師の診断書が重要です。逆に、自分の心を見つめて哀しみを綴り続けたような手記は、「本人の元からの悲観的な性格に問題あり」として、相手方から揚げ足を取られる危険を負わされます。

(続きます。)

東日本大震災の保育所の裁判について その7

2014-03-30 22:20:26 | 国家・政治・刑罰

 死を無駄にしないために「何か」をしなければならないとき、確かに金銭の請求は確かにこれに含まれます。但し、これは時間を元に戻すことができず、原状回復がどうしてもできない苦悩に自ら直面して、その末の最終手段としてせめて金銭で償うという共通の理解と絶望が大前提です。「いくら札束を積まれても納得できない」という論理は、逆の入口から入って来てしまった者に対して、正しい入口を指し示す真実であろうと思います。

 現に人が食べて寝て生活するためには、交換価値である貨幣が必要であり、「お金が欲しくない」と言う論理は資本主義では嘘になります。そして、「人の生死に比べればお金などに価値はない」という抽象的な真実と向き合い続けつつ、日々の具体的な現実の中を生き続けることは、生身の人間の精神にとってあまりに苦しすぎ、事実上不可能と思います。かような状況であっても、お金に価値を認めていたほうが確かに楽であると思います。

 「お金など欲しくない」という大原則を前提としつつ多額の賠償金を請求するという内心の矛盾は、本来は個人の内心のこじれの話であり、これは双方の話し合いがこじれるという場面に先立つものと思います。ところが、具体的に「安い見舞金で片をつける」「1円も払わない」という金銭の話は、不満に秩序をもたらし、外部から解釈しやすい形を生じさせます。「双方の話し合いがこじれる」というのは、この部分の観察に過ぎません。

(続きます。)

東日本大震災の保育所の裁判について その6

2014-03-29 22:31:15 | 国家・政治・刑罰

 人は誰しも、本当の絶望のときには一切の言葉もなく、涙も出ず、一切の感情が表に出ず、心が空洞化した状態になるのが必定と思います。ここから「裁判を起こさなければならない」という結論が出ることを了解するためには、そのような心の空洞化状態であるということが共通了解事項となっていなければなりません。しかし、法律の理論に精通している優秀な方々ほど、このような必然性を政治的な主張として捉えることが多く、私は返ってくる答えに落胆させられることがよくありました。

 人生の最大の問題として、その「何か」をする以上に重要なことはないとき、それは自分の人生だけでなく、全ての人の人生において重要です。これは、中身の詰まった人間は自己に執着するのに対し、人間の形をした抜け殻となることを強いられた者は普遍しか思考できないという逆説だと思います。論理的に、その「何か」をしないでは先に進めないとき、その他の些事に時間を費やす意味はありません。これは、いわゆる「戦い」ではなく、戦う相手などわからないものだと思います。

 私が経験した範囲内での結論ですが、一切の言葉を失った中から拾い集めた結果として形になった言葉は、「真実を知りたい」「社会に問題提起したい」という部分に集約されるものと思います。これは、「腹いせに怒りをぶつけたい」「お金がほしい」という要求とは対極的であり、「なぜ人生にはこのような出来事が起きるのか」「人はなぜ苦しくても生きなければならないのか」という哲学的な問いそのものであり、特定の人の死ではなく、普遍的な人の生死が問題とされていると思います。

 「死を無駄にしたくない」というのは、人の生命が何かの手段とされてはならないという当たり前の原則の各論であり、ここでは真実のみが求められ、嘘を知っても意味がありません。無駄にできないのは死の事実だけではなく、生まれて生きて存在したというその一生の明確な形のことであり、生きている者は死者には絶対に敵わないものと思います。本来、法律家にできることは、その「何か」をしなければならないという言葉を「何か」で止め、その先を問わないことだと感じています。

(続きます。)

東日本大震災の保育所の裁判について その5

2014-03-28 22:17:59 | 国家・政治・刑罰

 現代社会で子供1人を育て上げるのには、約3000万円はかかると言われています。何よりもお金に価値を置く被災者遺族であれば、子供が亡くなれば現実に莫大なお金と時間が浮きますので、心置きなく投資や起業による金儲けに専念できるはずだと思います。被災地は折から復興に向けた建築や発電のビジネスチャンスであり、生産性がない裁判などにお金と時間を費やすのは全くの損という話になるからです。そして、実際にこのような話になっては世も末です。

 被災地で提起される民事訴訟について、「怒りの矛先の向け方が釈然としない」という意見に関し、それではどうすれば釈然とするのかと言えば、条件を満たすに最適の状況は明らかです。すなわち、子供を虐待していた親が、邪魔者が消えればいいと思っていた時に、ちょうど大震災が起きてくれたというような場合です。裁判を起こすよりも起こさないほうが絶対的に正しいのなら、この論理が肯定されなければ筋が通りません。そして、通ってしまっては世も末です。

 私は自分の裁判の仕事を通じ、「恨みつらみの腹いせで訴えているのではない」という考えが本当に他者に伝わらないことや、「生きている人が優先に決まっている」という理屈の強さに絶望的な思いをさせられてきました。他方で、「子供が消えたことを前向きに捉えて自分の人生を楽しみたい」「過去は綺麗さっぱり忘れて裁判など起こさない」などという論理が正面から語られれば、「子供が浮かばれない」「親として失格だ」という厳しい評価を受けることも明らかです。

(続きます。)

東日本大震災の保育所の裁判について その4

2014-03-27 22:25:38 | 国家・政治・刑罰

 被災地における一連の民事訴訟に対して、被災地の外の平均的な国民の目はあまり好意的ではないと感じます。「人の命をお金に変えるのか」「裁判沙汰にしても死んだ人が喜ばない」「死者でなく遺族のための裁判ではないか」といった感想を耳にすることもありますが、そのすべてが的を全く外しているとも思いません。もともと裁判のニュースは気分のよいものではなく、多くの人間の平衡感覚による心の動きはこんなものではないかと、私の心には一種の諦めがあります。

 法制度が用意する民事訴訟のシステムに最も親和性があるのは、富と名誉と成功をめぐる仁義なき争いの場面であり、金銭欲や物欲の調整の機能だと思います。裁判所は、いかなる種類の訴訟が提起された場合であっても、システムが予定する争いの形に当事者を引き込みます。その結果として、千差万別であるはずの当事者の行動は、ステレオタイプのそれに押し込まれます。いつの間にか「原告」は「原告」らしく、テンプレート通りの行動を取っているということです。

 この種の訴訟に対する評価として、現場を見てきた者として完全に的を外していると感じるのが、「お金が欲しくて訴えるクレーマー」というものです。お金が目的なのであれば、このような訴訟を起こすことはあり得ません。絶対に勝てる保証がないどころか、負ける確率が高いと説明され、勝っても負けても失われた命は戻らず、しかも負ければさらに絶望を深めるような裁判を、高い弁護士費用を支払って進めることはありません。損得の経済の論理で言えば、損ばかりです。

(続きます。)