※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書
(55)「心に銃を持った若者たちが暴走する」:中村文則(フミノリ)『銃』(2003)心の中に「銃」を持ってしまった者の悲劇!
G 中村文則(フミノリ)(1977-)『銃』(2003、26歳)は、退屈な大学生活を送っていた「私」が拳銃を拾ったところから話が始まる。「私」の意識は銃から離れられなくなり、外に銃を向けるようになる。心の中に「銃」を持ってしまった若者の悲劇。(191頁)
《書評1》「銃を所持する」という非日常感が、思春期の退屈・憂鬱を暴走させてしまう話。 銃のメリットは、ナイフと違って「殺す時の人間の感触を味わわずに済むこと」としておきながら、最後は銃で存分にそれを味わうところに主人公の闇の深さを感じる。
《書評2》「銃を所有するアメリカ市民」として、読後感は複雑。「市民が銃を持つことが違法である日本」では、銃を持つと、いきなり力強い気持ちになる。ところで米国では、なぜこれほど多くの「平和を愛する人々」が最終的に銃を所有することを選択するのか?「殺したくないが、殺されたくない」という「自己防衛」だ。
《書評3》犯罪をするまでの心理描写がリアルで実体験のようだ。拳銃を手にしたことで、「主人公の内なる凶暴性」がその姿を現し狂っていく姿は、「私が拳銃に使われている」という文そのものだ。
G-2 Cf. 中村文則『土の中の子供』(2005、28歳)(芥川賞受賞)もまた、緊迫した雰囲気を持つ。(191頁)
《書評1》暗い、ひたすらに暗い。虐待描写がきつい。危険な状態に陥ると分かっていて、わざわざその状況を作ってしまう主人公。それは子供の頃に受けた壮絶な虐待のせいなのか、それとも恐怖や痛みが快感になってしまっているのか。
《書評2》引き取られた遠い親戚の家から日常的な虐待を受け、山中の土の中に埋められるが、そこから這い出る幼い私。「集団自殺するネズミの様に日本中の若者がダメになっていったら素敵」と語る白湯子。「恐怖」に感情が乱され続け、「恐怖」が身体に血肉のように染み付き、自ら「恐怖」を求めるほど病に蝕まれた幼い私。だが今や私は「恐怖を克服するために恐怖を作り出し、それを乗り越えようとした」と自己分析する。
(55)-2 「ネット上の情報で育まれた妄想」にかられる戯画化されたテロリスト:阿部和重『ニッポニアニッポン』(2001)!
G-3 阿部和重(1968-)『ニッポニアニッポン』(2001、33歳)は10代のテロリストを出現させる。主人公の鴇谷春生(トウヤハルオ)は17歳の高校生。彼が心を奪われたのは、鴇(トキ)だった。(自分の名前に「鴇」が含まれるため。)「日本産のトキの復活のため、中国産のトキを繁殖させるのはおかしい、トキは放すか殺すかだ」と考えた彼は、トキの情報をネットで集めまくり、18歳になると佐渡のトキ保護センターに乗り込む。(192頁)
G-3-2 春生(ハルオ)は妄想にかられる戯画化されたテロリストであり、妄想はネット上の情報で育まれた。(192頁)
《書評1》妄想からの暴走と破滅。恋慕する同級生へのストーカー行為により、地元に居られなくなった鴇谷春生。高校中退し、東京で知人の菓子店に勤務するもすぐに欠勤し退職。大検を受ける言いながら、自身の名字にある鴇にのめり込む。人間の都合で絶滅危惧種となった鴇を繁殖させる国の事業に憤慨し、トキ保護センターに乗り込む
《書評2》引きこもりの少年ハルオが、佐渡で保護されているトキ(鳥)を殺しに行く。ハルオの性格が暗いので読んでいると陰鬱な気分になる。野生絶滅したにも関わらず「ニッポニアニッポン」という学名ゆえに中国から持ち込まれ無理やり繁殖させられているトキと、自分自身を重ねる。
(55)-3 「リアルな社会を生きる自分」と「ネット上のバーチャルな自分」の分裂がもたらす凶悪な物語:平野啓一郎『決壊』(2008)!
G-4 平野啓一郎(1975-)『決壊』(2008、33歳)は「リアルな社会を生きる自分」と「ネット上のバーチャルな自分」の分裂がもたらす凶悪な物語だ。(192頁)
G-4-2 舞台は2002年、小泉訪朝、9・11後のアメリカが遠景をなす。一方で、兄・澤野崇(タカシ)は東大出のエリート公務員、弟・澤野良介(リョウスケ)は平凡な会社員。弟の良介はブログ(日記サイト)を持つ。他方で、中2生・北崎友哉は「孤独な殺人者の夢想」という妄想だらけの日記を公開している。そして事件が起きる。弟・良介が残酷に殺害され、犯行声明文が発表され、兄・崇が容疑者として浮上する。(192頁)
G-4-3 やがて「悪魔」を名乗る人物が先導する何件もの事件が起きる。(192-193頁)
《書評1》罪は「遺伝」と「環境」からもたらされる。平野氏は述べる。「圧倒的に多様な個体が、それぞれに、ありとあらゆる環境の中に投げ込まれる。そうした中で、一個の犯罪が起こったとして、当人の責任なんて、どこにあるんだい?殺された人間は、せいぜいのところ、環境汚染か、システム・クラッシュの被害の産物程度にしかみなされないよ。犯罪者なんて存在しない。」
《書評2》三島由紀夫『美しい星』で、「人類滅亡」を望む宇宙人と「人類救済」を願う宇宙人の間で激論が交わされる。この本で「悪魔」と「北崎少年」の間で交わされる会話もどこかそんな三島の意識みたいなものを感じた。
《書評3》猟奇的なバラバラ殺人事件。狂気と悪意と噂を増幅させていくインターネット。理知的ながらもあまり感情を吐露しないため、周りからどこか厭まわれて、冤罪すらかけられそうになる「崇」。あまりにも陰鬱な作品。
《書評4》ネット社会に潜む「社会に対する憎悪」や「理不尽な正義感」が交錯しながら物語が展開。「真犯人、篠原勇治(悪魔)」と「悪魔の囁きに導かれた中学生、北崎友哉」。
《書評5》「救いのない物語」だ。被害者(良介)は何の関係もないのに残忍な殺され方をした挙げ句、家族も自殺したり病んだりする…。「崇」のような聡明な人や、「良介」のようなもがき苦しみながらも前に進もうとする人が、いきなり理不尽なやり方で人生を奪われるって、やりきれない。「酒鬼薔薇」に憧れるような若い人がこれ読めばいいと思う。
《書評6》意外な所から判明する真犯人と黒幕。犯行を写したDVDで語られる「遺伝と環境が人間を選り分ける。現代社会のファシズムを破壊する」とのメッセージ。「崇」はそれに共感を覚え「自分が弟を殺した共犯者」だと考え、絶望し自殺する。匿名性の高いネットの怖さ、大衆の迎合性、親子、夫婦、兄弟等家族の弱さ等現代社会の持つ問題点を指摘する。秀作。
《書評7》「悪魔」と称する男がカラオケボックスで中学生の北崎友哉をそそのかす。「悪魔」は「純化された殺意」として、つまり「まったく無私の匿名の観念」として殺人を奨励し、「殺人者は存在せず、ただ、殺意だけが黙々と、まるでシステム障害のように止める術なく殺人を繰り返す」世の中を希求する。北崎少年は「悪魔」の指示通りに動く。「悪魔」すなわち篠原勇治を生んだのは悲惨な生い立ちだ。(「荒んだ家庭環境のせいで悪魔的人間になった」という短絡性あり。)
《書評7-2》だが真の首謀者は沢野崇だと思わせる余地もある。Ex. バラバラ殺人事件のニュースを「瞳に異様な耀きを灯しながら画面に見入っている」崇の反応。Ex. 崇の口から放たれる意味深長なモノローグ。「俺は、取り返しのつかないことをしてしまった」(5章)。Ex. 「あいつが死んだのは、単なる偶然じゃない! 適当に選ばれたなんて、俺はこの期に及んで、自分を庇い立ててる! 分かってるんだって、それは! 俺にも責任がある!」と6章で崇が言う。Ex.、崇と篠原が国会図書館で接触していた可能性が8章で示唆される。
(55)-4 閉じた地域社会(地方都市)の息苦しさ:重松清『疾走』(2003)!
G-5 重松清(1963-)は『ナイフ』(1997、34歳)、『エイジ』(2000、37歳)など、1990年代からさまざまな家族や少年少女を描いてきた。(193頁)
★重松清(1963-)『ナイフ』(1997)
《書評1》いじめられながら誰にも助けを求めることができない「被害者」、被害者の近くにいながら「止められない者」、「見て見ぬふりをする者」、「被害者の家族」・・・・と、様々な人々の心理が描かれ、どの人物にも感情移入できてしまい、しんどい。
《書評2》「学校での理不尽ないじめと闘う子ども」や、「現実から逃げてしまう弱い自分と闘う親」など、共通しているテーマは「闘い」だ。「いじめを受けている子ども」が先生や親に相談せず、気丈に振る舞う姿が特に印象的だった。
《書評3》「弱い者、違う者を差別し痛めつける事で自分の存在を肯定する」という人の性がある限り、いじめを完全に無くすのは難しい。理不尽ないじめの中で被害者は自分の尊厳を守るため戦う。
★重松清(1963-)『エイジ』(2000)
《書評1》中2のエイジの住む町で起こった「連続通り魔事件」の犯人は、クラスメイトだった。ごく普通の目立たない少年が、なぜ「向こう側」へ行ってしまったのか?「犯人の少年の心情」は描かず、エイジを含む「周りのクラスメイト」のもがき苦しむ様子で、少年たちの葛藤を描き切る。
《書評2》「通り魔」という社会的な事件が身近に起こること、そして14歳「思春期」の変化が起こること。2つの揺さぶりによってエイジ達に変化が表れる。彼らは自分と周囲が「分からない」事に葛藤する。「自と他」、「子供と大人」、「男と女」、「A級とB級」、「先輩と後輩」、「善意と悪意」、そして「犯罪者と普通の人」。曖昧で中途半端な自分に苛立ちながら、自分なりの受け取り方を探す。やがて確かに自分の考えと位置があることに気付き、成長する。一歩大人になった彼らの姿はお日さまのように清々しい。
G-5-2 重松清(1963-)『疾走』(2003、40歳)のキーワードは「地方都市」だ。閉じた地域社会(地方都市)の息苦しさをあますところなく伝える。優秀な兄・シュウイチは高校でカンニングを疑われ停学処分、そのショックで放火事件を起こし少年院送りとなる。4歳年下の弟・シュウジは「赤犬(放火犯)」の身内として激しいいじめにあう。大工だった父は行方不明、化粧品販売で生計を支える母はギャンブルに逃避。中学卒業を前にしてシュウジは家出し、大阪、さらに東京で忌まわしい事件の当事者となる。(193頁)
《書評1》もう「これでもか」っていうくらい不幸が続いて、その度に手を差し伸べてくれる存在がいるのが救いではあるが、全体的に「いじめや暴力」の場面が多く、暗く気が滅入る。
《書評2》暗い話ばかりが続く。そして暗さも重さも増していく。でも、物語に引き込まれ一気に読んだ。シャッターに「私を殺してください」と書く「ひとり」と、「だれか一緒に生きてください」と書く「ひとり」。シュウジとエリ、それぞれが背負わされた、強烈な孤独と底知れぬ寂しさ。
《書評3》救いのない話。15歳の少年が駆け抜けた人生の話で、読めば読むほど重くなる。「どこかに救いがあるかも?」と思い、気になって数時間で読み終えたけど、結局どこにも救いはなかった。
(55)-5 地方都市の閉塞感、出会いの場さえない若者たちのあきらめにも似た気分:吉田修一『悪人』(2007)!
G-6 吉田修一(1968-)は『パーク・ライフ』(2002、34歳)(芥川賞受賞)など、それまでポヨヨンとした人間関係を描いてきた。(193頁)
《書評1》電車の中で知り合いと間違え話しかけたら普通に答えてくれた彼女。毎日のように行く日比谷公園で彼女と再会、名前も知らないのに少し会話をするようになる。淡々とした日常とちょっとした出来事が描かれる。
《書評2》ストーリーが存在せず、ただシーンが次から次へと流れていくだけのようだ。
《書評3》なんて初々しいのだろう!ちょっと背伸びするような、いっぱいのおしゃれで飾られた、日比谷公園を中心に展開される、都会生活の日々の情景。
G-6-2 これに対し吉田修一『悪人』(2007、39歳)は、吉田のブレイクポイントになった作品であり、そのキーワードは「地方都市」だ。(193頁)
G-6-3 主人公の清水祐一(ユウイチ)(27歳)は長崎の工業高校を出た後、健康食品会社に就職するが、すぐ辞め、カラオケボックス、コンビニでバイト、今は親戚が営む土建屋で日雇労働だ。すでに4年。その彼が福岡の生保会社に勤める石橋佳乃(ヨシノ)を図らずも殺す。その直後、祐一は、同い年の馬込光代(ミツヨ)を呼び出し、2人は、自動車で絶望的な逃避行をする。(光代は佐賀県の高校を出て食品工場に就職したが、人員削減で失職、今は国道沿いの紳士服量販店に勤める。)(194頁)
G-6-3-2 祐一と佳乃が出会ったのも、祐一と光代が知り合ったのも「出会い系サイト」。先の見えない「地方都市」の閉塞感、出会いの場さえない若者たちのあきらめにも似た気分が、作品全体にあふれる。(194頁)
《書評1》結局誰が本当の「悪人」だったのだろう。作中には悪い奴がいっぱいだ。殺された佳乃も酷いし、増尾(佳乃をナンパした裕福な大学生)も腐ってる。人を殺すことは悪だが、殺人者が「悪人」なのかというとまた違う。「法を犯さなければ何をやってもいい」という訳でない。「善人」と「悪人」の差って何だろう。いろいろ考えさせられた。
《書評2》「解体工の男(祐一)が保険外交員(佳乃)を殺した」と、犯人は冒頭に明かされる。そこから被害女性、加害青年、彼ら・彼女らを取り巻く人物視点のドラマが展開される。タイトルの通り、誰が「悪人」なのか、わからなくなってくる。
《書評3》登場人物一人一人が丁寧に描かれる。良い人も悪い人も、 強い人も弱い人も みんなそれぞれが送ってきた人生がある。最後は「悪人」にならないと 周りの人を救えなかった、 そんな祐一の行きどころのない思いが 重く切ない。
(55)-6 社会から見捨てられた若者:行き場のない怒りと焦り、そして「殺人」!
G-7 2000 年代の特徴は「殺人」が純文学の世界にも津波のように押し寄せてきたことだ。社会から見捨てられた若者、行き場のない怒りと焦り、彼らに同情するも、どうにもできない女たち。(195頁)
G-7-2 2000年代の小説世界はムルソー(『異邦人』1942)、ラスコーリニコフ(『罪と罰』1866)、スメルジャコフ(『カラマーゾフの兄弟』1880)だらけだ。(195頁)
《参考1》ムルソー:母の死に無感情。「太陽が眩しかったから」とアラブ人を射殺。裁判で死刑を宣告される。
《参考2》ラスコーリニコフ:奪った金で世のために善行をしようと、金貸しの強欲な老婆を殺害する。だが偶然居合わせたその妹まで殺害してしまう。
《参考3》スメルジャコフ:カラマーゾフ家の使用人、卑屈で臆病。実は、家長フョードルの息子たち(退役将校ミーチャ、無神論者イワン、修道院で暮らすアリョーシャ)とは腹違いの兄弟。フョードルを殺す。
(55)「心に銃を持った若者たちが暴走する」:中村文則(フミノリ)『銃』(2003)心の中に「銃」を持ってしまった者の悲劇!
G 中村文則(フミノリ)(1977-)『銃』(2003、26歳)は、退屈な大学生活を送っていた「私」が拳銃を拾ったところから話が始まる。「私」の意識は銃から離れられなくなり、外に銃を向けるようになる。心の中に「銃」を持ってしまった若者の悲劇。(191頁)
《書評1》「銃を所持する」という非日常感が、思春期の退屈・憂鬱を暴走させてしまう話。 銃のメリットは、ナイフと違って「殺す時の人間の感触を味わわずに済むこと」としておきながら、最後は銃で存分にそれを味わうところに主人公の闇の深さを感じる。
《書評2》「銃を所有するアメリカ市民」として、読後感は複雑。「市民が銃を持つことが違法である日本」では、銃を持つと、いきなり力強い気持ちになる。ところで米国では、なぜこれほど多くの「平和を愛する人々」が最終的に銃を所有することを選択するのか?「殺したくないが、殺されたくない」という「自己防衛」だ。
《書評3》犯罪をするまでの心理描写がリアルで実体験のようだ。拳銃を手にしたことで、「主人公の内なる凶暴性」がその姿を現し狂っていく姿は、「私が拳銃に使われている」という文そのものだ。
G-2 Cf. 中村文則『土の中の子供』(2005、28歳)(芥川賞受賞)もまた、緊迫した雰囲気を持つ。(191頁)
《書評1》暗い、ひたすらに暗い。虐待描写がきつい。危険な状態に陥ると分かっていて、わざわざその状況を作ってしまう主人公。それは子供の頃に受けた壮絶な虐待のせいなのか、それとも恐怖や痛みが快感になってしまっているのか。
《書評2》引き取られた遠い親戚の家から日常的な虐待を受け、山中の土の中に埋められるが、そこから這い出る幼い私。「集団自殺するネズミの様に日本中の若者がダメになっていったら素敵」と語る白湯子。「恐怖」に感情が乱され続け、「恐怖」が身体に血肉のように染み付き、自ら「恐怖」を求めるほど病に蝕まれた幼い私。だが今や私は「恐怖を克服するために恐怖を作り出し、それを乗り越えようとした」と自己分析する。
(55)-2 「ネット上の情報で育まれた妄想」にかられる戯画化されたテロリスト:阿部和重『ニッポニアニッポン』(2001)!
G-3 阿部和重(1968-)『ニッポニアニッポン』(2001、33歳)は10代のテロリストを出現させる。主人公の鴇谷春生(トウヤハルオ)は17歳の高校生。彼が心を奪われたのは、鴇(トキ)だった。(自分の名前に「鴇」が含まれるため。)「日本産のトキの復活のため、中国産のトキを繁殖させるのはおかしい、トキは放すか殺すかだ」と考えた彼は、トキの情報をネットで集めまくり、18歳になると佐渡のトキ保護センターに乗り込む。(192頁)
G-3-2 春生(ハルオ)は妄想にかられる戯画化されたテロリストであり、妄想はネット上の情報で育まれた。(192頁)
《書評1》妄想からの暴走と破滅。恋慕する同級生へのストーカー行為により、地元に居られなくなった鴇谷春生。高校中退し、東京で知人の菓子店に勤務するもすぐに欠勤し退職。大検を受ける言いながら、自身の名字にある鴇にのめり込む。人間の都合で絶滅危惧種となった鴇を繁殖させる国の事業に憤慨し、トキ保護センターに乗り込む
《書評2》引きこもりの少年ハルオが、佐渡で保護されているトキ(鳥)を殺しに行く。ハルオの性格が暗いので読んでいると陰鬱な気分になる。野生絶滅したにも関わらず「ニッポニアニッポン」という学名ゆえに中国から持ち込まれ無理やり繁殖させられているトキと、自分自身を重ねる。
(55)-3 「リアルな社会を生きる自分」と「ネット上のバーチャルな自分」の分裂がもたらす凶悪な物語:平野啓一郎『決壊』(2008)!
G-4 平野啓一郎(1975-)『決壊』(2008、33歳)は「リアルな社会を生きる自分」と「ネット上のバーチャルな自分」の分裂がもたらす凶悪な物語だ。(192頁)
G-4-2 舞台は2002年、小泉訪朝、9・11後のアメリカが遠景をなす。一方で、兄・澤野崇(タカシ)は東大出のエリート公務員、弟・澤野良介(リョウスケ)は平凡な会社員。弟の良介はブログ(日記サイト)を持つ。他方で、中2生・北崎友哉は「孤独な殺人者の夢想」という妄想だらけの日記を公開している。そして事件が起きる。弟・良介が残酷に殺害され、犯行声明文が発表され、兄・崇が容疑者として浮上する。(192頁)
G-4-3 やがて「悪魔」を名乗る人物が先導する何件もの事件が起きる。(192-193頁)
《書評1》罪は「遺伝」と「環境」からもたらされる。平野氏は述べる。「圧倒的に多様な個体が、それぞれに、ありとあらゆる環境の中に投げ込まれる。そうした中で、一個の犯罪が起こったとして、当人の責任なんて、どこにあるんだい?殺された人間は、せいぜいのところ、環境汚染か、システム・クラッシュの被害の産物程度にしかみなされないよ。犯罪者なんて存在しない。」
《書評2》三島由紀夫『美しい星』で、「人類滅亡」を望む宇宙人と「人類救済」を願う宇宙人の間で激論が交わされる。この本で「悪魔」と「北崎少年」の間で交わされる会話もどこかそんな三島の意識みたいなものを感じた。
《書評3》猟奇的なバラバラ殺人事件。狂気と悪意と噂を増幅させていくインターネット。理知的ながらもあまり感情を吐露しないため、周りからどこか厭まわれて、冤罪すらかけられそうになる「崇」。あまりにも陰鬱な作品。
《書評4》ネット社会に潜む「社会に対する憎悪」や「理不尽な正義感」が交錯しながら物語が展開。「真犯人、篠原勇治(悪魔)」と「悪魔の囁きに導かれた中学生、北崎友哉」。
《書評5》「救いのない物語」だ。被害者(良介)は何の関係もないのに残忍な殺され方をした挙げ句、家族も自殺したり病んだりする…。「崇」のような聡明な人や、「良介」のようなもがき苦しみながらも前に進もうとする人が、いきなり理不尽なやり方で人生を奪われるって、やりきれない。「酒鬼薔薇」に憧れるような若い人がこれ読めばいいと思う。
《書評6》意外な所から判明する真犯人と黒幕。犯行を写したDVDで語られる「遺伝と環境が人間を選り分ける。現代社会のファシズムを破壊する」とのメッセージ。「崇」はそれに共感を覚え「自分が弟を殺した共犯者」だと考え、絶望し自殺する。匿名性の高いネットの怖さ、大衆の迎合性、親子、夫婦、兄弟等家族の弱さ等現代社会の持つ問題点を指摘する。秀作。
《書評7》「悪魔」と称する男がカラオケボックスで中学生の北崎友哉をそそのかす。「悪魔」は「純化された殺意」として、つまり「まったく無私の匿名の観念」として殺人を奨励し、「殺人者は存在せず、ただ、殺意だけが黙々と、まるでシステム障害のように止める術なく殺人を繰り返す」世の中を希求する。北崎少年は「悪魔」の指示通りに動く。「悪魔」すなわち篠原勇治を生んだのは悲惨な生い立ちだ。(「荒んだ家庭環境のせいで悪魔的人間になった」という短絡性あり。)
《書評7-2》だが真の首謀者は沢野崇だと思わせる余地もある。Ex. バラバラ殺人事件のニュースを「瞳に異様な耀きを灯しながら画面に見入っている」崇の反応。Ex. 崇の口から放たれる意味深長なモノローグ。「俺は、取り返しのつかないことをしてしまった」(5章)。Ex. 「あいつが死んだのは、単なる偶然じゃない! 適当に選ばれたなんて、俺はこの期に及んで、自分を庇い立ててる! 分かってるんだって、それは! 俺にも責任がある!」と6章で崇が言う。Ex.、崇と篠原が国会図書館で接触していた可能性が8章で示唆される。
(55)-4 閉じた地域社会(地方都市)の息苦しさ:重松清『疾走』(2003)!
G-5 重松清(1963-)は『ナイフ』(1997、34歳)、『エイジ』(2000、37歳)など、1990年代からさまざまな家族や少年少女を描いてきた。(193頁)
★重松清(1963-)『ナイフ』(1997)
《書評1》いじめられながら誰にも助けを求めることができない「被害者」、被害者の近くにいながら「止められない者」、「見て見ぬふりをする者」、「被害者の家族」・・・・と、様々な人々の心理が描かれ、どの人物にも感情移入できてしまい、しんどい。
《書評2》「学校での理不尽ないじめと闘う子ども」や、「現実から逃げてしまう弱い自分と闘う親」など、共通しているテーマは「闘い」だ。「いじめを受けている子ども」が先生や親に相談せず、気丈に振る舞う姿が特に印象的だった。
《書評3》「弱い者、違う者を差別し痛めつける事で自分の存在を肯定する」という人の性がある限り、いじめを完全に無くすのは難しい。理不尽ないじめの中で被害者は自分の尊厳を守るため戦う。
★重松清(1963-)『エイジ』(2000)
《書評1》中2のエイジの住む町で起こった「連続通り魔事件」の犯人は、クラスメイトだった。ごく普通の目立たない少年が、なぜ「向こう側」へ行ってしまったのか?「犯人の少年の心情」は描かず、エイジを含む「周りのクラスメイト」のもがき苦しむ様子で、少年たちの葛藤を描き切る。
《書評2》「通り魔」という社会的な事件が身近に起こること、そして14歳「思春期」の変化が起こること。2つの揺さぶりによってエイジ達に変化が表れる。彼らは自分と周囲が「分からない」事に葛藤する。「自と他」、「子供と大人」、「男と女」、「A級とB級」、「先輩と後輩」、「善意と悪意」、そして「犯罪者と普通の人」。曖昧で中途半端な自分に苛立ちながら、自分なりの受け取り方を探す。やがて確かに自分の考えと位置があることに気付き、成長する。一歩大人になった彼らの姿はお日さまのように清々しい。
G-5-2 重松清(1963-)『疾走』(2003、40歳)のキーワードは「地方都市」だ。閉じた地域社会(地方都市)の息苦しさをあますところなく伝える。優秀な兄・シュウイチは高校でカンニングを疑われ停学処分、そのショックで放火事件を起こし少年院送りとなる。4歳年下の弟・シュウジは「赤犬(放火犯)」の身内として激しいいじめにあう。大工だった父は行方不明、化粧品販売で生計を支える母はギャンブルに逃避。中学卒業を前にしてシュウジは家出し、大阪、さらに東京で忌まわしい事件の当事者となる。(193頁)
《書評1》もう「これでもか」っていうくらい不幸が続いて、その度に手を差し伸べてくれる存在がいるのが救いではあるが、全体的に「いじめや暴力」の場面が多く、暗く気が滅入る。
《書評2》暗い話ばかりが続く。そして暗さも重さも増していく。でも、物語に引き込まれ一気に読んだ。シャッターに「私を殺してください」と書く「ひとり」と、「だれか一緒に生きてください」と書く「ひとり」。シュウジとエリ、それぞれが背負わされた、強烈な孤独と底知れぬ寂しさ。
《書評3》救いのない話。15歳の少年が駆け抜けた人生の話で、読めば読むほど重くなる。「どこかに救いがあるかも?」と思い、気になって数時間で読み終えたけど、結局どこにも救いはなかった。
(55)-5 地方都市の閉塞感、出会いの場さえない若者たちのあきらめにも似た気分:吉田修一『悪人』(2007)!
G-6 吉田修一(1968-)は『パーク・ライフ』(2002、34歳)(芥川賞受賞)など、それまでポヨヨンとした人間関係を描いてきた。(193頁)
《書評1》電車の中で知り合いと間違え話しかけたら普通に答えてくれた彼女。毎日のように行く日比谷公園で彼女と再会、名前も知らないのに少し会話をするようになる。淡々とした日常とちょっとした出来事が描かれる。
《書評2》ストーリーが存在せず、ただシーンが次から次へと流れていくだけのようだ。
《書評3》なんて初々しいのだろう!ちょっと背伸びするような、いっぱいのおしゃれで飾られた、日比谷公園を中心に展開される、都会生活の日々の情景。
G-6-2 これに対し吉田修一『悪人』(2007、39歳)は、吉田のブレイクポイントになった作品であり、そのキーワードは「地方都市」だ。(193頁)
G-6-3 主人公の清水祐一(ユウイチ)(27歳)は長崎の工業高校を出た後、健康食品会社に就職するが、すぐ辞め、カラオケボックス、コンビニでバイト、今は親戚が営む土建屋で日雇労働だ。すでに4年。その彼が福岡の生保会社に勤める石橋佳乃(ヨシノ)を図らずも殺す。その直後、祐一は、同い年の馬込光代(ミツヨ)を呼び出し、2人は、自動車で絶望的な逃避行をする。(光代は佐賀県の高校を出て食品工場に就職したが、人員削減で失職、今は国道沿いの紳士服量販店に勤める。)(194頁)
G-6-3-2 祐一と佳乃が出会ったのも、祐一と光代が知り合ったのも「出会い系サイト」。先の見えない「地方都市」の閉塞感、出会いの場さえない若者たちのあきらめにも似た気分が、作品全体にあふれる。(194頁)
《書評1》結局誰が本当の「悪人」だったのだろう。作中には悪い奴がいっぱいだ。殺された佳乃も酷いし、増尾(佳乃をナンパした裕福な大学生)も腐ってる。人を殺すことは悪だが、殺人者が「悪人」なのかというとまた違う。「法を犯さなければ何をやってもいい」という訳でない。「善人」と「悪人」の差って何だろう。いろいろ考えさせられた。
《書評2》「解体工の男(祐一)が保険外交員(佳乃)を殺した」と、犯人は冒頭に明かされる。そこから被害女性、加害青年、彼ら・彼女らを取り巻く人物視点のドラマが展開される。タイトルの通り、誰が「悪人」なのか、わからなくなってくる。
《書評3》登場人物一人一人が丁寧に描かれる。良い人も悪い人も、 強い人も弱い人も みんなそれぞれが送ってきた人生がある。最後は「悪人」にならないと 周りの人を救えなかった、 そんな祐一の行きどころのない思いが 重く切ない。
(55)-6 社会から見捨てられた若者:行き場のない怒りと焦り、そして「殺人」!
G-7 2000 年代の特徴は「殺人」が純文学の世界にも津波のように押し寄せてきたことだ。社会から見捨てられた若者、行き場のない怒りと焦り、彼らに同情するも、どうにもできない女たち。(195頁)
G-7-2 2000年代の小説世界はムルソー(『異邦人』1942)、ラスコーリニコフ(『罪と罰』1866)、スメルジャコフ(『カラマーゾフの兄弟』1880)だらけだ。(195頁)
《参考1》ムルソー:母の死に無感情。「太陽が眩しかったから」とアラブ人を射殺。裁判で死刑を宣告される。
《参考2》ラスコーリニコフ:奪った金で世のために善行をしようと、金貸しの強欲な老婆を殺害する。だが偶然居合わせたその妹まで殺害してしまう。
《参考3》スメルジャコフ:カラマーゾフ家の使用人、卑屈で臆病。実は、家長フョードルの息子たち(退役将校ミーチャ、無神論者イワン、修道院で暮らすアリョーシャ)とは腹違いの兄弟。フョードルを殺す。