宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

「2000年代 戦争と格差社会」(その4):「『私』をインストールする若者たち」!綿矢りさ『インストール』、金原ひとみ『蛇にピアス』、白岩玄『野ブタ。・・・・』!(斎藤『日本の同時代小説』5)

2022-04-17 20:05:34 | Weblog
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(52)「『私』をインストールする若者たち」:「別人格を演じる」あるいは「複数の人格を使い分ける」若者たちor人格の二重化!綿矢りさ『インストール』(2001)、金原ひとみ『蛇にピアス』(2003)!
D 『セカチュー』がブームになっていた2004年、当時19歳だった綿矢(ワタヤ)りさ(1984-)『蹴りたい背中』(2003)と、20歳だった金原(カネハラ)ひとみ(1983-)『蛇にピアス』(2003)が芥川賞を同時受賞した。(182頁)
D-2  2冊がベストセラーになったのは、(ア)作者の年齢故だったとしても、(イ)1980年代からじわじわと成長してきた「広義の少女文学」がとうとう時代を席券したといえなくもない。(182頁)

★綿矢りさ(1984-)『蹴りたい背中』(2003、19歳)
《書評1》どこにでもいそうな「長谷川」と「にな川」の日常を淡々と描く。周囲に馴染めない「変わり者」同士。だけど、「どこか違う」人間。孤独、執着、満たされないなにか・・・・。誰の中にもありそうな感情が綴られている。大人になってもたまに読んで自分を見つめ直したくなるような作品。
《書評2》「にな川」という男子、いまいちつかみどころのないやつ。にな川は普通の人なら当然怒ることをされても、さらっと受け流す。かといってただ鈍感なやつという訳ではなく、非常に周りが見えていて、やさしい男だ。そんな「にな川」の背中をなぜか主人公は「蹴りたい」と思う。これは一種の愛情表現なのか?

D-3  綿矢りさ(1984-)は、注目すべきはむしろ17歳のデビュー作『インストール』(2001)だ。「私」こと朝子は17歳の高校生。不登校になり、自らをリセットすべく部屋の家具を全部捨てる。そして母を騙し、昼間学校に行くふりをしつつ、奇妙なバイトに手を染めだした。同じマンションに住む小学6年生の「かずよし」に紹介された。インターネット上で風俗嬢になりすまし、客と「エロチャット」をする仕事だ。(182頁)
《書評1》この世界の裏側から現実を見つめる少女は、「欲望」と「一切を省いた直接的な人間関係」に興味をもち次第にのめりこんで行く。
《書評2》主人公と「パソコン」を重ねて見てもよいのかもしれない。壊れたように見えて壊れてない、再起動させたり、新しいソフトを入れるだけで「変われる」パソコンor主人公。インストールするものが変わるだけで、本体(パソコンor主人公)は変わらない。
《書評3》現状に行き詰った女子高生が、物を全部処分したり、小学生男子と組んでチャット嬢をやるが、最後は何も変わらないように「日常に戻っていく」。前向きな気持ちで戻っていく主人公を見て、スッキリした読後感を味わえた。無駄なように見えるけど、こういう時間も時には必要かもしれない。

D-4  金原ひとみ(1983-)『蛇にピアス』(2003、20歳)は身体性の高い小説だ。「私」ことルイは19歳。同性中の男「アマ」に感化され、もっか舌の改造中。アマは全身に刺青、瞼にも唇にもピアスを入れている上、スプリットタン(舌先が二つに割れた舌)を持つ。「私」もスプリットタンを目指し、舌先にあけたピアスの穴を拡張する施術(舌ピ)を繰り返す。また刺青師「シバさん」に頼んで、背中に「龍と麒麟」の刺青を入れる。(182-183頁)
D-4-2  「外見で判断される事を望んでいる。」「私が生きている事を実感できるのは、痛みを感じている時だけだ。」(183頁)

《書評1》何かに依存しなければ生きていけない。「痛み」でしか感じられない。痛ましい若者の刹那の生。飾り気のない文章がそれを引き立たせる。
《書評2》わたしも19歳で、舌にピアスが開いている。 主人公のように「アンダーグラウンドの世界で影として生きていきたい」、そういったところに共感した。 若いからこそ、のお話なのかなとも思った
《書評3》空っぽな自分を持てあますルイが痛々しい。ルイの心の空洞を埋められるものは何だったのか。アマか、シバさん(刺青師)か、刺青やスプリットタンか。きっとどれも、その場しのぎにしかならないんだろう。
《書評4》この著者は「書くことで生き繋いできた」と述べている。ピアスの穴開けは、一種の自傷行為だ。著者自身の自傷行為は、10歳からだったそうだ。
《書評5》ルイは「ピアスの痛み」に生かされていたが、「アマの不器用な優しさ」にも生かされていた。だが「アマはシバさんに殺された」。「蛇が丸呑みしたかの如くシバさんがアマを所有した」。そして「そのシバさんをルイが所有する」ことで、それが拠り所になりルイは生き続けていくのだろう。
《書評6》ルイは、死に対しギリギリだけれど、たぶこれからも「死なない」気がした。
《書評7》あまりにも自分を傷つける描写が多く、凄く薄い本なのに読み終えるまでに時間がかかった。 全体が常に赤黒く染められている様な感じがして、行動もマネできないし、マネしたくもない。「このような世界もあるのだ」と知らせてくれた作品だった。

D-5  綿矢りさ『インストール』と金原ひとみ『蛇にピアス』は、まるで違った小説のようだが、「『私』のアイデンティティが分裂している」点で共通している。(a)ネット上での「なりすまし」や、(b)ボディピアスなどの肉体改造によって、「別人格を演じる」あるいは「複数の人格を使い分ける」若者たち。(183頁)
D-5-2  「私らしさ」にこだわった「1980年代の少女たち」と比べると、まるで宇宙人のようだ!(183頁)

(52)-2 「人格」の「二重化」・「キャラクター化」or「どんな自分を演じるか」:白岩玄(シライワゲン)『野ブタ。をプロデュース』(2004)!
D-6  「人格の二重化」を別の形で描いたのが白岩玄(シライワゲン)(1983-)『野ブタ。をプロデュース』(2004、21歳)だ。「俺」こと桐谷修二は、朝起きると「さてと。きょうも俺をつくっていかなくては」と考えるような高校生だ。彼は家族の前でも級友の前でも「素晴らしい高校生」を演じる。(183頁)
D-6-2  そんな「俺」の前に、転校生、小谷信太(コタニシンタ)(野ブタ)が現れる。信太は「気持ち悪いほどオドオドしたデブ」だ。信太に「弟子にしてください」と頼まれた「俺」は、「そうだ、プロデュース。それだ」とおもいつき、信太の改造計画に乗り出す。(※人間関係を華麗にさばき、みんなの憧れのマリ子を彼女にする桐谷修二は、クラスの人気者。ある日、イジメられっ子の転校生・小谷信太が、修二に弟子入りを志願するが…はたして修二のプロデュースで、信太=野ブタは人気者になれるのか?!舞台は教室。プロデューサーは俺。イジメられっ子は、人気者になれるのか?!)(183-184頁)
D-6-3  人格はすでにキャラクター化しており、「どんな自分を演じるか」だけの問題に還元されてしまったかのようだ。(184頁)

《書評1》主人公は、「桐谷修二」のいわば「着ぐるみ」を着る高校生。オシャレで清潔、テンポの良い会話、かわいい彼女(まり子)有り、人気者グループに所属。でも、それは高校生活を快適にするための演出にすぎず、「本当は誰のことも、好きではないし大事じゃない」。適当な会話と笑いで、仲のいいフリをしながら、「心地良い距離」を保つ。
《書評1-2》そんな「自己演出」の才能ある修二が、自分の才能を試すため、いじめられっ子の「野ブタ」(信太)をプロデュースする。そしてそれは成功する。だがいい気になっていた「桐野修二」というキャラは、あえなくひきはがされ、彼は孤独の底へまっしぐらだ。
《書評2》信太(シンタ)がいじめの対象になり、深刻な暴力さえ受けるようになって、修二は信太を気にする。だが修二は「本気で信太を心配する」わけでなく、「退屈しのぎ」の「ゲーム」として、いじめられっ子の信太を人気者へ変貌させる「プロデュース」を行う。
《書評3》「人生はつまらない。この世の全てはゲームだ」と考える桐谷修二。彼は、大した努力もせずに、なんでもこなせる文武両道な人気者。優秀さに驕り、表向きは仲良く接している周囲の人々を「自分よりも劣る者」として内心では嘲る。
《書評4》修二の様々なプロデュースの結果、信太(シンタ)へのいじめはなくなる。信太は人との接し方が不器用だったが、「誠実で優しい人柄」だったため本当の人気者となる。「外面」を良く見せることで人気者の地位を保っていた修二は、「素のままで周囲からの支持を得る野ブタ」に嫉妬さえ感じる。
《書評4-2》あるトラブルで修二は、友人たちからの信頼を失なう。そのとき初めて修二は①自分が内心で抱いてきた周囲の人々に対する「侮蔑」が実は隠し切れていなかったこと、②そのことを見抜いた上で周囲は修二の「幼さ」を黙って受け入れてくれていたことを思い知る。プライドを打ち砕かれる修二。「人気者」信太(シンタ)と「蔑まれる者」修二。いつの間にか修二と信太の立場は入れ替わっていた。
《書評4-3》修二は、まり子や信太(シンタ)のとりなしを拒み続けて孤立し、結局転校する。新しい学校で、今度は自分自身を「プロデュース」し、誰にも見破られないよう完璧な人気者を演じ切るのだと誓う修二。だが「素の自分」を殺し生きることで、修二の「二面性」はますます強まる。

《感想》身体が一つしかない(ドッペルゲンガーは現実にはいない)から、身体アイデンティティは一つだ。かくて国家は一つの身体アイデンティティに対して、一つの身分証明を行う。(Ex. 戸籍、住民登録、マイナンバー)

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