宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

「2000年代 戦争と格差社会」(その9):「9・11とイラク戦争」岡田利規『三月の5日間』、宮沢章夫『ディラン・・』、伊藤計劃『虐殺器官』、中原昌也『花束・・』(2001)!(斎藤『同時代小説』5)

2022-04-30 16:56:58 | Weblog
※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書

(57)「9・11とイラク戦争」:「戦争の気配を感じる作品」岡田利規『三月の5日間』(2007)、宮沢章夫『ボブ・ディラン・グレーテスト・ヒット第三集』(2011)!
I  2000年代の「戦争小説」の第2のタイプは、「9・11やイラク戦争」を直接的、間接的に描いた小説だ。(201頁)
Cf. 「戦争小説」の第1のタイプは「戦時下の国」を描いた小説だ。(195頁)

I-2  「戦争の気配」を感じる作品として岡田利規(トシキ)(チェルフィッチュ主宰)(1973-)『三月の5日間』(『わたしたちに許された特別な時間の終わり』所収、2007、34歳)(戯曲)がある。舞台は「ブッシュがイラクに宣告した『タイムアウト』が刻一刻と近づいてくるのを、待ち構えるよりほかなく待っている最中」の2003年3月。(※イラク戦争の開始は2003年3月20日。)渋谷でピースウォークと題した反戦デモが行われている。「彼」と「彼女」は渋谷のラブホテルに5日間しけこむ。2人は戦争の報道を拒否するかのように、テレビをつけず、携帯電話の電源も切り、時計も見ない。そのあと「あ、なんだよ、もう終わってるじゃん戦争」と思い描く。(198-199頁)
《書評1》「とらえどころのない日本の現在状況を、巧みにあぶり出す手腕」が、第49回岸田國士戯曲賞受賞時に注目された。
《書評2》イラク戦争の開戦を背景に、3月の5日間の渋谷での出来事が、口語体で代行的に語られる。登場人物はすべて、聞いた話や事後的な話として出来事を語り、そこにあるはずの当事者性や責任が奇妙な形で回避される。「9.11」以降の日本的な空気感を絶妙な言語感覚で捉えた傑作。
《書評3》話の内容は男女間のささいな日常を、「本人不在」で私達に伝えようとするために、その仕草や語り方がちぐはぐになってしまい、「話を、概要を掴むためにその演劇の中に入らざるを得ない」というものだろうか。

I-3 宮沢章夫(1956-)『ボブ・ディラン・グレーテスト・ヒット第三集』(2011、55歳)は、新宿を舞台に2001年9月1日から11日までの10日間を描く。(※2011/09/11アメリカ同時多発テロ事件。)舞台は新宿。9月1日は歌舞伎町の雑居ビルで44名の死者を出す火災(実際の事件)があった日。主人公・内田はその日の明け方、泥酔して帰って来たのだが、周囲は彼が放火したのではないかと疑う。彼も自分が信じられなくなる。10日後、半睡状態の中で内田はニュースを目にする。「二つの巨大なビル/煙が上がっている/ニュースキャスターらしき男が叫んでいる」。(199頁)
《書評1》2001年9.1の歌舞伎町ビル火災から「9.11」までの10日間の「時代の空気」と「ある個人の物語」を重ねて描く。「時代と個人の関連」とともに、「時代と無関係に自身を保つ回路」の重要性を提示する。
《書評2》1995年の「阪神・淡路大震災」と「地下鉄サリン事件」、2001年の「歌舞伎町ビル火災」と「9・11」。痛ましい事件の連続に、「世界をしかとはつかみきれない」、「事の次第をもはや私たちはどんなに努めても捉えきれない」という諦めにも似た思い!しかし「その諦念の中に安住することは危険だ」という思いもまたかみしめたい。

(57)-2 「テロと戦争」のど真ん中に斬り込んだ異色の戦争小説:伊藤計劃『虐殺器官』(2007)! 
I-4  上記2作品が「戦争の気配」を感じる作品だとしたら、伊藤計劃(ケイカク)(1974-2009)『虐殺器官』(2007、33歳)は「テロと戦争」のど真ん中に斬り込んだ異色の戦争小説だ。(199頁)
I-4-2  「ぼく」(クラヴィウス・シェパード)は、アメリカ情報軍の暗殺部隊の大尉。「ぼくは殺し屋だ」と彼は認識している。「9・11」以来、アメリカは「何かと理由をつけていつでも戦争がはじめられる国」になった。かくて彼はある人物(ジョン・ポール)の暗殺を命じられる。「虐殺器官」は脳内の器官で、それが暴走すれば虐殺が可能になる。やがて「ぼく」は気づく。「虐殺器官」は誰にも装備されている。(199-200頁)

《書評1》近未来を舞台に戦争を考える「哲学SF」。「戦争の是非」、「世界の不公平」。ストーリーは大きなスケールの「闇」を追いながらも、主人公個人の「良心」、「罪と罰」を中心に据え、「罪を背負う選択を、みずから意識すること」が人間の負うべき「自由」だと語られる。
《書評2》軍人として命じられれば誰でも殺す。そこに罪悪感はなく、後悔もない。世界で多発する「虐殺」を止めるため、一人の男(ジョン・ポール)を暗殺する計画を立てる。・・・・世界から戦争・虐殺はなくならない。それらを生み出しているのは紛れもなく一人一人の人間(=「虐殺器官」)なのだ。
《書評3》「9・11のテロ事件」以降、過度に情報統制された近未来社会を描くSFなのだが、その脅威がいつ実現してもおかしくないと思うほどリアル。 人間に元来備わった「虐殺器官」。危険すぎる概念だが、世界中で起こる「虐殺」にひとつの解を得たと思ってしまうほどだ。
《書評4》各地の「虐殺」の影に垣間見える謎の男、ジョン・ポール。彼は発見した人間の言語に潜む「虐殺の文法」を用いて、各地の「虐殺」をコーディネートしていく。

I-4-3  この続編が伊藤計劃『ハーモニー』(2008、34歳)だ。(200頁)
《書評1》「Watch Me」というデバイスを身体に埋め込み、病気を完全に克服することに成功する一方で、各個人の行動もすべて監視、管理されている世界。それを徹底し、ついに「個人の意識や意志すらないことこそが世界に『ハーモニー』をもたらす」として、そこに向かおうとする。
《書評2》「完成されたユートピア」は「ディストピア」にもなりうる。現代社会において、不摂生を予防するため「健康を管理する」ことは是とされるけれど、徹底すればこの本のような世界となる。
《書評3》この世界に人間がなじめず死んでいくのなら、「人間」をやめたほうがいい、というより、「意識」であることをやめたほうがいい。自然が生み出した継ぎ接ぎの機能に過ぎない「意識」であることを、この「身体」の隅々まで徹底して駆逐し、骨の髄まで「社会的な存在」に変化したほうがいい。「わたし」が「わたし」であることを捨てたほうがいい。「わたし」とか「意識」とか、環境がその場しのぎで人類に与えた機能は削除したほうがいい。そうすれば、「ハーモニー」を目指したこの社会に、本物の「ハーモニー」が訪れる。
《書評4》衝撃だった。世界が行き着く先の「ユートピア」。すなわちWatchMeとメディケアで体を徹底管理する「生命至上主義社会」、「優しさと慈愛」が実現した世界では、プライバシーもない。「プライバシー」は「卑猥」な言葉とされる。「健康で温かい社会」はどこか不自由で息苦しい。「ユートピア」の到達点(=「ハーモニー」)は「意識の喪失」だ。

I-4-4  伊藤計劃が2009年に夭折したこともあり、両作品は「伝説的なSF小説」として語り継がれる。だが『虐殺器官』(2007)は、日本の「戦争小説」として、戦争の本質に斬り込んだ作品として外すことができない。(200頁)

(57)-3 「9・11」米国多発テロをまるで予告しているかのような光景:中原昌也『あらゆる場所に花束が・・・・・・』(2001)!
I-5 偶発的な「戦争小説」の例としては、支離滅裂、意味不明と評された中原昌也(マサヤ)(1970-)『あらゆる場所に花束が・・・・・・』(2001、31歳)が、意外と予言的な作品だった。(200頁)
I-5-2  中原昌也は「進化しすぎて袋小路のドツボにハマったポストモダン」みたいな作家(斎藤美奈子氏評)だが、『あらゆる場所に花束が・・・・・・』は全編これ暴力のイメージに溢れ、最後は落ちてきた「白い熱気球」が引き起こした「救急車やパトカーが何台も駆けつけるほどの惨事」で幕を閉じる。(200頁)
I-5-3  この小説の出版が2001年6月で、同年「9・11」米国同時多発テロをまるで予告しているかのようだった。(201頁)(Cf. 『中原昌也の作業日誌』2008について、高橋源一郎が「グチと泣き言ばかり」と述べている。)

《書評1》又吉直樹のオススメ本。第14回(2001年) 三島由紀夫賞。作者はミュージシャン。描くのは無意味な暴力と性衝動ばかり。なぜ、これが受賞したのか理解ができない。論評も「文章がとにかく幼稚」「内容が愚劣」とある。一部「文壇へのカンフル剤」と賞賛。文章もストーリーもカオス。
《書評2》絶句。唖然。たくさんの暴力、たくさんの死。カルトというかホラーというか。カオスすぎて、「読書をした」という気分には到底なれない。オススメしてくれた又吉さんには申し訳ないが、良さがさっぱりわからなかった。
《書評3》「筋書のある小説の破壊or挑発」というわけでなく本当は、著者は「ただただ何も言いたくないだけ」なんじゃないかと思った。

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