※斎藤美奈子(1956生)『日本の同時代小説』(2018年、62歳)岩波新書
(51)「悲恋に走るケータイ小説と『セカチュー』」:ケータイ小説の7つの特徴的なモチーフ(本田透)「①売春、②レイプ、③妊娠、④薬物、⑤不治の病、⑥自殺、⑦真実の愛」!「不幸満載」のケータイ小説!
C はたしてケータイ小説とは何だったのか?本田透(トオル)(1969-)『なぜケータイ小説は売れるのか』(2008、39歳)は「ケータイ小説に描かれる7つの大罪」と称し、ケータイ小説の特徴的なモチーフを7つあげる。「①売春、②レイプ、③妊娠、④薬物、⑤不治の病、⑥自殺、⑦真実の愛」だ。(179頁)
C-2 ケータイ小説は、本田によれば、「文学」として「陳腐」であっても、それは関係ない。ケータイ小説は、それを書いたり読んだりする女子高生にとって「傷つき疲弊した『自我』を回復させようとする精神のリハビリテーション」なのだ。(179頁)
《書評1》一応、ケータイ小説の分析だが、最終的には、「二次オタ最高!」(※「二次元萌え」の「現実の恋愛」に対する優位を主張)、「恋愛資本主義(※マスメディアの恋愛観)はクソ!」という「電波男」の哲学に収束する。要は、ケータイ小説をダシにしたいつもの本田透である。本田透は、努めて冷静にケータイ小説を読みこむ。その過程が深読みしまくりで、真面目なのか小馬鹿にしてるんだか分からないシュールさが出ていて面白い。
《書評2》既存の小説は、「地方の少女たち」が求める物語を供給できなかった。そこに登場した「ケータイ小説」。若い頃は、「悪い事する私かっこいい」等、カッコ良さが全て。オタクの様に「空想」に浸れない少女たちは、「リアル」を舞台にするしかなく、「レイプ」、「妊娠」、「いじめ」等ぐらいしか刺激的なネタがないという分析。「何もない田舎の空虚さを示している」という点は、結構納得する。
《参考》本田透(トオル)は、三次元の女性に興味を持たず、軋轢(アツレキ)を避けることを「護身」と称し、「脳内妻」や「脳内妹」などの「脳内家族」と満ち足りた生活を送っていると主張している。
C-2-2 速水健朗(ハヤミズケンロウ)(1973-)『ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち』(2008、35歳)は、ケータイ小説が1990年代の「壮絶人生系」ノンフィクション(Ex. 乙武洋匡、大平光代、柳美里、飯島愛)と親和性の高いジャンルであると言う。そして「不幸満載のケータイ小説は、携帯電話普及以前からヤンキー少女的世界に存在していた『不幸自慢』文化の延長であると考えられる」と述べる。(179頁)
《書評》著者・速水健朗は1986年の山根一眞(カズマ)『変体少女文字の研究』から宮台真司(1959-)(Ex. 『制服少女たちの選択』1996)、大塚英志(エイジ)(1958-)(Ex. 『物語消費論――「ビックリマン」の神話学』1989)、東浩紀(アズマヒロキ)(1971-)、土井隆義(1960-)(Ex. 『非行少年の消滅 - 個性神話と少年犯罪』2003)らの評論もきちんと視野に入れている。その上で浜崎あゆみと尾崎豊の違い、『ティーンズロード』(1989-1998、レディース暴走族のファッションやライフスタイルを扱う)などの雑誌やマンガ『ホットロード』(1986-1987、紡木ツムギたく、暴走族の和希カズキと洋志ヒロシの物語)、『NANA』(1999-2009、矢沢あい、同い年の奈々とナナの物語)、『頭文字D』(イニシャル・ディー)(1995-2013、しげの秀一、峠道で自動車を高速走行させる走り屋の若者たちを描く)などを例に、ヤンキー文化(郊外型、地元つながり、コミュニケーション依存、DV傾向)について分析を試みる。そこから、「不幸自慢のインフレスパイラル」としての「自分語り」であるケータイ小説の性格が露わになる。なお「ヤンキー文化と相性のいい相田みつを」など、独自の視点が、なかなか説得力があり面白かった!!
(51)-2 ケータイ小説のキーワードは「地方都市」だ!
C-2-3 ケータイ小説にかんして本田透(トオル)と速水健朗(ケンロウ)がキーワードとしてあげるのは「地方都市」だ。(a)物語の舞台が「地方都市」、(b)本が売れているのも郊外の大型ショッピングモールの書店、(c)東京との情報格差、文化格差が広がった「地方都市」。(179頁)
C-2-3-2 そこで辛うじて「リアル」と感じられるのは恋愛、セックス、妊娠、病気、死といった「本能的、生物学的なイベント」だけではないのか?(斎藤美奈子氏評。)(179頁)
(51)-3 ケータイ小説の興隆の背景:①「都市型消費社会のニヒリズム」、②「大きな物語」の崩壊、③物語を解体するばかりで、新しい物語を構築しようとしなかったリベラル派知識人!「WEB小説」『君の膵臓をたべたい』(2015)!:
C-2-4 ケータイ小説の興隆の背景について、本田透が言う。「1990年代、①都市型消費社会のニヒリズムは『援助交際』にまで行き着いていた。ポストモダン思想的に言えば②『大きな物語』が崩壊し、リベラル派社会学者・宮台真司あたりが、その種の少女を妙に持ち上げていた時期である。」(180頁)
C-2-4-2 だがその先に救いはなく、結局それ(※「援助交際」を持ち上げたりすること)は「ニヒリズムの裏返しであり、物語の放棄だった。」(本田透)(180頁)
C-2-4-3 ③「若者たちは、《物語を解体するばかりで、新しい物語を構築しようとしないリベラル派知識人》の言葉を信じなくなり、代わりに保守主義・・・・《古びたはずの過去の物語》が台頭した。」(本田透)(180頁)
C-2-4-4 つまりケータイ小説の興隆には、ポストモダンの掛け声に浮かれ、冷戦終結後のビジョンを示せなかった知識人に(文学にも?)責任があると、本田透は言う。(180頁)
C-2-5 ケータイ小説は一過性のブームに終わり、2010年代に入る頃には「WEB小説」というジャンルに進化、発表先は「小説家になろう」という新しいプラットホームに移行する。
C-2-5-2 ここから生まれたベストセラーが、やはり「難病モノ」の住野よる『君の膵臓をたべたい』(2015)(『キミスイ』)だ。(180頁)
《参考1》「僕」:友人や恋人などの関わり合いを必要とせず、人間関係を自己完結する。小説を読むのが好きで、一番好きな小説家は太宰治。ある日、病院で偶然、山内桜良の秘密の日記帳「共病文庫」を読んでしまう。桜良との交流により、「僕」は人を認め、人と関わり合う努力を始める。
《参考2》「山内桜良(サクラ)」: よく笑い、元気で表情豊かな少女。膵臓の病気のため、「僕」と会った時に余命1年だった。桜良は「自分の運命を恨まない」と決め、日記のタイトルを「闘病日記」の代わりに「共病文庫」とつけた。だが桜良は、余命を全うすることなく、通り魔に刺されて亡くなる。
(51)-4 「古びたはずの過去の物語」の復活(「難病モノ」):片山恭一『世界の中心で、愛を叫ぶ』(2001)(『セカチュー』)!
C-3 「古びたはずの過去の物語」の復活は、ほかにもあった。片山恭一(1959-)『世界の中心で、愛を叫ぶ』(2001、42歳)(略して『セカチュー』)の爆発的なヒットだ。(2004年までに300万部!)(180頁)
C-3-2 『セカチュー』は「難病モノ」だ。純愛と難病が好きな「ケータイ小説」の高級バージョンと言えるかもしれない。30代になった語り手「僕」(松本朔太郎)が失った恋人・廣瀬亜紀との日々を回想する。亜紀は17歳のとき、白血病で死んだ。(181頁)
《書評1》読み終わるまで本から目が離せない。当時高校生だった私は、深夜まで読み、翌日ひどく腫れたまぶたで登校し友人に心配された。この作品を皮切りに「ラストには愛しき人が亡くなる」とか、「病気の恋人が・・・・」という手の作品が増えた気がする。それほど、世の中に影響を与えた作品だ。また「純愛」という言葉を知らしめたのもこの作品だと思う。
《書評2》「僕」(朔太郎)は、アキとの「ロマンチックすぎる」話を今の彼女に話す。それはアキとの別れという悲しい出来事を、「物語」として語り、自分の心に定着・受容させる作業だった。アキとの別れからしばらくは、「僕」は「あらゆる感情を洗い流してしまうような場所」にいた。「物語」を語り終え、かつてアキと通った中学校でアキの遺灰をまくとき、それは「美しい桜吹雪」の中だった。
C-3-3 若くして死んだ女を、生き残った男が振り返る「難病モノ」の歴史は古く、「涙と感動」を求める読者に愛好されてきた。例えば次の通り。(181頁)
(a)徳富蘆花(1868-1927)『不如帰』(ホトトギス)(1898-99、30-31歳)(※浪子は結核のため離縁され、夫・武男の出征中に死ぬ。)
(b)伊藤左千夫(1864-1913)『野菊の墓』(1906、42歳)(※15歳の少年・政夫と2歳年上の従姉・民子との非恋を描く。)
(c)堀辰雄(1904-1953)『風立ちぬ』(1936-38、32-34歳)(※結核に冒されている婚約者・節子に付き添う「私」が、節子の死を覚悟し2人の限られた日々を生きる物語。)
(d)河野実(マコト)(1941-)・大島みち子(1942-1963)『愛と死をみつめて』(1963、22歳・21歳)(※実=マコと、軟骨肉腫に冒され21年の生涯を閉じたみち子=ミコとの、3年間に及ぶ文通を書籍化したもの。)(181頁)
C-3-3-2 とはいえ、なぜ21世紀にもなって「難病モノ」の『セカチュー』のような「こんな手垢のついた小説」(斎藤美奈子氏評)を読まなければならないのか。それは「小説に新しさを求める文学ファン」を萎えさせるものだった。(181頁)
(51)-5 社会現象になった『ハリー・ポッター』シリーズ第1-7巻(1999-2008)!
C-4 さらに、ここに翻訳小説が襲来する。世界的ベストセラーになったJ・K・ローリング(1965-)『ハリー・ポッター』シリーズ(原著1997-2007)だ。11歳の誕生日に自分が魔法使いだと知った孤児のハリ―・ポッターが、ホグワーツ魔法魔術学校へ入学し、さまざまな魔法を学んで成長していくという子供向けファンタジー小説だ。第1巻『ハリー・ポッターと賢者の石』(日本語版、1999)以降、第7巻『ハリー・ポッターと死の秘宝』(日本語版、2008)まで、ほぼ年に1冊のペースで刊行された。このシリーズは社会現象になった。(181頁)
C-5 では2000年代の既成の文学はどうだったかというと、こっちはこっちで大変なことになっていた。2000年代の小説のトレンドは、「殺人」と「テロ」と「戦争」だった。(182頁)
(51)「悲恋に走るケータイ小説と『セカチュー』」:ケータイ小説の7つの特徴的なモチーフ(本田透)「①売春、②レイプ、③妊娠、④薬物、⑤不治の病、⑥自殺、⑦真実の愛」!「不幸満載」のケータイ小説!
C はたしてケータイ小説とは何だったのか?本田透(トオル)(1969-)『なぜケータイ小説は売れるのか』(2008、39歳)は「ケータイ小説に描かれる7つの大罪」と称し、ケータイ小説の特徴的なモチーフを7つあげる。「①売春、②レイプ、③妊娠、④薬物、⑤不治の病、⑥自殺、⑦真実の愛」だ。(179頁)
C-2 ケータイ小説は、本田によれば、「文学」として「陳腐」であっても、それは関係ない。ケータイ小説は、それを書いたり読んだりする女子高生にとって「傷つき疲弊した『自我』を回復させようとする精神のリハビリテーション」なのだ。(179頁)
《書評1》一応、ケータイ小説の分析だが、最終的には、「二次オタ最高!」(※「二次元萌え」の「現実の恋愛」に対する優位を主張)、「恋愛資本主義(※マスメディアの恋愛観)はクソ!」という「電波男」の哲学に収束する。要は、ケータイ小説をダシにしたいつもの本田透である。本田透は、努めて冷静にケータイ小説を読みこむ。その過程が深読みしまくりで、真面目なのか小馬鹿にしてるんだか分からないシュールさが出ていて面白い。
《書評2》既存の小説は、「地方の少女たち」が求める物語を供給できなかった。そこに登場した「ケータイ小説」。若い頃は、「悪い事する私かっこいい」等、カッコ良さが全て。オタクの様に「空想」に浸れない少女たちは、「リアル」を舞台にするしかなく、「レイプ」、「妊娠」、「いじめ」等ぐらいしか刺激的なネタがないという分析。「何もない田舎の空虚さを示している」という点は、結構納得する。
《参考》本田透(トオル)は、三次元の女性に興味を持たず、軋轢(アツレキ)を避けることを「護身」と称し、「脳内妻」や「脳内妹」などの「脳内家族」と満ち足りた生活を送っていると主張している。
C-2-2 速水健朗(ハヤミズケンロウ)(1973-)『ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち』(2008、35歳)は、ケータイ小説が1990年代の「壮絶人生系」ノンフィクション(Ex. 乙武洋匡、大平光代、柳美里、飯島愛)と親和性の高いジャンルであると言う。そして「不幸満載のケータイ小説は、携帯電話普及以前からヤンキー少女的世界に存在していた『不幸自慢』文化の延長であると考えられる」と述べる。(179頁)
《書評》著者・速水健朗は1986年の山根一眞(カズマ)『変体少女文字の研究』から宮台真司(1959-)(Ex. 『制服少女たちの選択』1996)、大塚英志(エイジ)(1958-)(Ex. 『物語消費論――「ビックリマン」の神話学』1989)、東浩紀(アズマヒロキ)(1971-)、土井隆義(1960-)(Ex. 『非行少年の消滅 - 個性神話と少年犯罪』2003)らの評論もきちんと視野に入れている。その上で浜崎あゆみと尾崎豊の違い、『ティーンズロード』(1989-1998、レディース暴走族のファッションやライフスタイルを扱う)などの雑誌やマンガ『ホットロード』(1986-1987、紡木ツムギたく、暴走族の和希カズキと洋志ヒロシの物語)、『NANA』(1999-2009、矢沢あい、同い年の奈々とナナの物語)、『頭文字D』(イニシャル・ディー)(1995-2013、しげの秀一、峠道で自動車を高速走行させる走り屋の若者たちを描く)などを例に、ヤンキー文化(郊外型、地元つながり、コミュニケーション依存、DV傾向)について分析を試みる。そこから、「不幸自慢のインフレスパイラル」としての「自分語り」であるケータイ小説の性格が露わになる。なお「ヤンキー文化と相性のいい相田みつを」など、独自の視点が、なかなか説得力があり面白かった!!
(51)-2 ケータイ小説のキーワードは「地方都市」だ!
C-2-3 ケータイ小説にかんして本田透(トオル)と速水健朗(ケンロウ)がキーワードとしてあげるのは「地方都市」だ。(a)物語の舞台が「地方都市」、(b)本が売れているのも郊外の大型ショッピングモールの書店、(c)東京との情報格差、文化格差が広がった「地方都市」。(179頁)
C-2-3-2 そこで辛うじて「リアル」と感じられるのは恋愛、セックス、妊娠、病気、死といった「本能的、生物学的なイベント」だけではないのか?(斎藤美奈子氏評。)(179頁)
(51)-3 ケータイ小説の興隆の背景:①「都市型消費社会のニヒリズム」、②「大きな物語」の崩壊、③物語を解体するばかりで、新しい物語を構築しようとしなかったリベラル派知識人!「WEB小説」『君の膵臓をたべたい』(2015)!:
C-2-4 ケータイ小説の興隆の背景について、本田透が言う。「1990年代、①都市型消費社会のニヒリズムは『援助交際』にまで行き着いていた。ポストモダン思想的に言えば②『大きな物語』が崩壊し、リベラル派社会学者・宮台真司あたりが、その種の少女を妙に持ち上げていた時期である。」(180頁)
C-2-4-2 だがその先に救いはなく、結局それ(※「援助交際」を持ち上げたりすること)は「ニヒリズムの裏返しであり、物語の放棄だった。」(本田透)(180頁)
C-2-4-3 ③「若者たちは、《物語を解体するばかりで、新しい物語を構築しようとしないリベラル派知識人》の言葉を信じなくなり、代わりに保守主義・・・・《古びたはずの過去の物語》が台頭した。」(本田透)(180頁)
C-2-4-4 つまりケータイ小説の興隆には、ポストモダンの掛け声に浮かれ、冷戦終結後のビジョンを示せなかった知識人に(文学にも?)責任があると、本田透は言う。(180頁)
C-2-5 ケータイ小説は一過性のブームに終わり、2010年代に入る頃には「WEB小説」というジャンルに進化、発表先は「小説家になろう」という新しいプラットホームに移行する。
C-2-5-2 ここから生まれたベストセラーが、やはり「難病モノ」の住野よる『君の膵臓をたべたい』(2015)(『キミスイ』)だ。(180頁)
《参考1》「僕」:友人や恋人などの関わり合いを必要とせず、人間関係を自己完結する。小説を読むのが好きで、一番好きな小説家は太宰治。ある日、病院で偶然、山内桜良の秘密の日記帳「共病文庫」を読んでしまう。桜良との交流により、「僕」は人を認め、人と関わり合う努力を始める。
《参考2》「山内桜良(サクラ)」: よく笑い、元気で表情豊かな少女。膵臓の病気のため、「僕」と会った時に余命1年だった。桜良は「自分の運命を恨まない」と決め、日記のタイトルを「闘病日記」の代わりに「共病文庫」とつけた。だが桜良は、余命を全うすることなく、通り魔に刺されて亡くなる。
(51)-4 「古びたはずの過去の物語」の復活(「難病モノ」):片山恭一『世界の中心で、愛を叫ぶ』(2001)(『セカチュー』)!
C-3 「古びたはずの過去の物語」の復活は、ほかにもあった。片山恭一(1959-)『世界の中心で、愛を叫ぶ』(2001、42歳)(略して『セカチュー』)の爆発的なヒットだ。(2004年までに300万部!)(180頁)
C-3-2 『セカチュー』は「難病モノ」だ。純愛と難病が好きな「ケータイ小説」の高級バージョンと言えるかもしれない。30代になった語り手「僕」(松本朔太郎)が失った恋人・廣瀬亜紀との日々を回想する。亜紀は17歳のとき、白血病で死んだ。(181頁)
《書評1》読み終わるまで本から目が離せない。当時高校生だった私は、深夜まで読み、翌日ひどく腫れたまぶたで登校し友人に心配された。この作品を皮切りに「ラストには愛しき人が亡くなる」とか、「病気の恋人が・・・・」という手の作品が増えた気がする。それほど、世の中に影響を与えた作品だ。また「純愛」という言葉を知らしめたのもこの作品だと思う。
《書評2》「僕」(朔太郎)は、アキとの「ロマンチックすぎる」話を今の彼女に話す。それはアキとの別れという悲しい出来事を、「物語」として語り、自分の心に定着・受容させる作業だった。アキとの別れからしばらくは、「僕」は「あらゆる感情を洗い流してしまうような場所」にいた。「物語」を語り終え、かつてアキと通った中学校でアキの遺灰をまくとき、それは「美しい桜吹雪」の中だった。
C-3-3 若くして死んだ女を、生き残った男が振り返る「難病モノ」の歴史は古く、「涙と感動」を求める読者に愛好されてきた。例えば次の通り。(181頁)
(a)徳富蘆花(1868-1927)『不如帰』(ホトトギス)(1898-99、30-31歳)(※浪子は結核のため離縁され、夫・武男の出征中に死ぬ。)
(b)伊藤左千夫(1864-1913)『野菊の墓』(1906、42歳)(※15歳の少年・政夫と2歳年上の従姉・民子との非恋を描く。)
(c)堀辰雄(1904-1953)『風立ちぬ』(1936-38、32-34歳)(※結核に冒されている婚約者・節子に付き添う「私」が、節子の死を覚悟し2人の限られた日々を生きる物語。)
(d)河野実(マコト)(1941-)・大島みち子(1942-1963)『愛と死をみつめて』(1963、22歳・21歳)(※実=マコと、軟骨肉腫に冒され21年の生涯を閉じたみち子=ミコとの、3年間に及ぶ文通を書籍化したもの。)(181頁)
C-3-3-2 とはいえ、なぜ21世紀にもなって「難病モノ」の『セカチュー』のような「こんな手垢のついた小説」(斎藤美奈子氏評)を読まなければならないのか。それは「小説に新しさを求める文学ファン」を萎えさせるものだった。(181頁)
(51)-5 社会現象になった『ハリー・ポッター』シリーズ第1-7巻(1999-2008)!
C-4 さらに、ここに翻訳小説が襲来する。世界的ベストセラーになったJ・K・ローリング(1965-)『ハリー・ポッター』シリーズ(原著1997-2007)だ。11歳の誕生日に自分が魔法使いだと知った孤児のハリ―・ポッターが、ホグワーツ魔法魔術学校へ入学し、さまざまな魔法を学んで成長していくという子供向けファンタジー小説だ。第1巻『ハリー・ポッターと賢者の石』(日本語版、1999)以降、第7巻『ハリー・ポッターと死の秘宝』(日本語版、2008)まで、ほぼ年に1冊のペースで刊行された。このシリーズは社会現象になった。(181頁)
C-5 では2000年代の既成の文学はどうだったかというと、こっちはこっちで大変なことになっていた。2000年代の小説のトレンドは、「殺人」と「テロ」と「戦争」だった。(182頁)