宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(二)「自己意識」3「自由」(その2):「スケプシス主義」は、「ストア主義」が無視する「個別的特殊的のもの」に注目し「否定」し「自由」をめざす!

2024-06-04 08:42:06 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(二)「自己意識」3「自由」(その2)(146-148頁)
(27)-3 「無限性」の立場では「自己を限界づけ否定するもの」がないから「自由」がえられる!
★さてヘーゲルは、「自己意識の自由」について、まず「社会生活」(「社会段階」)のことは素通りし、「道徳」の立場から、①「ストア主義」、②「スケプシス主義」、③「不幸なる意識」(クリスト教)という3つの段階を述べる。(146頁)
★これらは直接には「主奴の関係」と密接なつながりを持つ。(146頁)
☆「奴隷」はせっせと働いて「労働」し、「形成」することによって、「主観的・個別的のもの」を「客観的・普遍的のもの」にしてゆく。(146頁)
☆そこで(「奴隷」の「自己意識」において)「主観的・個別的なもの」と「客観的・普遍的なもの」との間に「統一」がはっきりとあらわれてきて、おのずから「無限性を実現した意識」が登場する。(146頁)
★「無限性」の立場では「自己を限界づけ否定するもの」がないから「自由」がえられる。(146頁)

《参考1》「主」と「奴」との「相互転換」によって、「相互承認」の関係が実現する、即ち「自己意識」は「無限性」に到達する!かくて「自己意識の自由」の段階となる!(144-145頁)

《参考2》「奴」は「主体的にえがいたもの」を「客体的」に実現し、その結果として「客体から解放される」!「奴」の「労働における無限性」が存続するのに対し、「主」の「享楽における無限性」は消えてゆく!(142頁)
☆「対象的、客体的なもの」(②「奉仕」)に依存して「奴」であったものも、せっせと「労働すること」(③「形成」)によって、かえって「主体的にえがいたもの」を「客体的」に実現し、その結果として「客体から解放される」。(142頁)
☆つまりいろいろの「技能や知識」が得られ、これによって「対象はもはや他者ではなくして自分のものであるという確信」、即ち「無限性」が生まれてくる。(142頁)
☆この「奴」の「労働における無限性」が存続するのに対し、「主」の「享楽における無限性」はあとかたもなく消えてゆく。(142頁)

(27)-4 ①「ストア主義」:「自由」の実現の仕方が「抽象的普遍性の立場」のものである!
★「無限性」の立場において得られる「自由」の実現の仕方が、「抽象的普遍性の立場」であるときには「ストア主義」が生じる。「ストア主義」の「自由」は「抽象的」思惟のものにすぎない。(146-147頁)
☆ストア派は「アパテイア」(非情)(※「心の平安」)を強調する。即ち情欲的のものにとらわれず、「思慮」をもって行動し「理性」をもって事に当たるべしという。(147頁)
☆「アパテイア」(非情)を強調するストア学派は、「個別的なものはどうでもよい」というのだから、ストア主義の「自由」は「抽象的」にすぎない。(147頁)
☆つまり「ストア主義」の「自由」は、「普遍性」は実現しているが、その「普遍性」は「個別的なもの」を捨象し、どうでもいいとする態度、即ち「アタラクシア」(無関心)(※「心の平静」)の態度に基づいている。(147頁)
☆したがって、現実的なことでは、「ストア派の自由」が「自由」でない場面が多々でてくる。(147頁)

《参考1》「アパテイア」(非情)(「心の平安」):ストア哲学(ストイシズム)の考え方で、「アパテイア」とは自然の法則と調和して生き、外部の事象に対する反応をコントロールして得られる「心の平安」だ。《「アパテイア」は「パトスのない」の意》。人間が情念や欲情に支配されないで超然として生きる状態。ストア学派は、この境地を生活の理想とし、哲学的訓練の目標とした。
Cf. 「ストイック」(本来は「ストア派の」の意)は日本では「禁欲的な」の意味合いで用いられる。ストア派は「自律・自制」によって「道徳的・倫理的な幸福」を求めようとする。幸福を追求するにしても、その幸福は欲望・情動に囚われない冷静さ(「アパテイア」、「心の平安」)の獲得によってこそ実現されるとする。

《参考2》「アタラクシア」(無関心)(「心の平静」):エピクロス派(快楽主義)の「アタラクシア」は激しい情熱や欲望から自由な「心の平静」である。ヘレニズム時代、特にエピクロスの処世哲学では「アタラクシア」が「幸福」の必須条件とされた。エピクロスは人生の目的は精神的「快楽」にあるとし、「心の平静」(「アタラクシア」)を求めた。
Cf. 「エピキュリアン」は本来、エピクロス門下の人々の意。エピクロス派は、ストア派とは対照的に「幸福はむしろ《快》と密接に結びつくものである」と唱えた。かくて「エピキュリアン」は俗に、官能的、刹那的な快楽を追い求める人のこと。快楽主義者。享楽主義者。

(27)-5 ②「スケプシス主義」(懐疑主義):「ストア主義」が「主人」に相応する立場であるのに対して、「スケプシス主義」は「奴」の立場に応じ、より「現実的」だ!
★「スケプシス主義」(「懐疑主義」)は、「ストア主義」がないがしろにする「個別的特殊的のもの」に目をそそぎ、これを「否定」し、もっと「自由」を「現実的」に実現しようとする。(147頁)
☆「抽象的」である「ストア主義」が「主人」に相応する立場であるのに対して、「スケプシス主義」は「奴」の立場に応じ、より「現実的」だ。即ち「スケプシス主義」は「労働」し「形成」して「否定」によって「自由」を実現する「奴」の立場に応ずる。(147頁)

(27)-5-2 「スケプシス主義」の「否定」とは、種々の「弁証法」を、「自覚的に実行する」ことを意味する!
★このさいの「スケプシス主義」の「否定」とは、(ア)「感覚と知覚と悟性」とを含んでいた弁証法、(イ)「支配と隷従」との弁証法、(ウ)「ストア主義に代表せられる抽象的思惟」のまぬがれえぬ弁証法などを、「自覚的に実行する」ことを意味する。(147頁)

《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次(抄)!(333-336頁)
(A)「意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」
A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、
B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」
((C)「理性」)(BB)「精神」:Ⅵ「精神」
((C)「理性」)(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」
((C)「理性」)(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

★たとえば(ア)「感覚」は、「このもの」をつかんだつもりでいるが、それがいつのまにか「普遍者」に転換するという「弁証法」があったが、「スケプシス主義」はいまやそれを自覚的に行う。(147頁)
☆(ア)-2 「知覚」における「一と多」、「自と他」の「弁証法」についても、「スケプシス主義」はいまやそれを自覚的に行う。(147頁)

《参考》「一と多との対立」は、「力」と「その力が外に現れた『外化あるいは発現』」の対立にほかならない!「物」がもはや「物」でなく「力」になった!(109頁)
☆まず「力」という言葉がなぜでるのか?(109頁)
☆「知覚」の段階において「個別と普遍」、「一と多」、「即自と対他」、「自と他」といった対立が、互いに他に転換して切りはなすことのできないものであることが、明らかになった。(109頁)
☆それら諸対立なかで、「一と多」という対立は、両者が切り離せないから、「一」の方もすぐ「多」になり、「多」の方もすぐ「一」になるという相互転換を意味した。(109頁)
☆したがって「一」というものは「多」となっておのれをあらわすべきものであり、「多」もまた「一」が外にあらわれて呈する姿にほかならないので「一」に還帰する。(109頁)
☆かくて「一と多との対立」は、「力」と「その力が外に現れた『外化あるいは発現』」の対立にほかならない。(109頁)
☆この意味で「一と多とが切りはなせない」というのは、「物」がもはや「物」でなく「力」になったことだ。(109頁)
☆「知覚」段階では「物」を知覚していたのに対して、「一」が「多」と互いに他に転換するという点から見れば、そこには「物」的でない、「制約されない普遍性」すなわち「力」がある。このような意味で、「物」とはじつは「力」なのだ。(109頁)

★こんなわけで「スケプシス主義」が「自己意識の自由」を実現するにあたり、「否定」にはいろんな仕方がある。(147-148頁)
☆その点ではヘーゲルは、《古代の「スケプシス主義」が「トロポイ」(仕方)と名づけたもの》を生かして使っている。(147-148頁)
☆例えば「一つのもの」が「小さいとか大きい」とか言っても、「遠いところと近いところ」で見ることによって違う(トロポイ⑤)。かくて「大小といっても絶対的ではない」というように、いろいろ「否定」していって、「明鏡止水」の境地すなわち「アタラクシア」(無関心)(「心の平静」)の境地に到達しようとする。(148頁)

《参考》古代ギリシアの哲学者アイネシデモス(生没年不詳;クレタ島のクノッソスに生まれ、アレクサンドリアで学問を教えたと伝わる)は著書『ピュロン語録』の中で「判断中止」へと至る「10箇条のトロポイ(様式)」を提案した。「10箇条のトロポイ」は我々の「感覚」や「知識」は次の諸条件によって異なり、決して唯一絶対ではないとする。アイネシデモスの「10箇条のトロポイ」:①われわれ「動物の種類」が異なるに従って、②「人間の個人個人」が異なるに従って、③同一の個人においても「感覚器官」が異なるに従って、④これらが同一でも、その時々の「身心状態」によって、⑤「知覚する者」の「視角」や「距離」によって、⑥「知覚される物」を「包んでいる物質や状況」によって、⑦「知覚される物」の「数や量」によって、⑧その「知覚される物」の「他との関係」によって、⑨「知覚者の習慣」によって、⑩「対象」の「風俗習慣法律」によって、我々の「感覚」や「知識」は異なる。

(27)-5-3 「スケプシス主義」において、「否定せられるもの」がいつも「向こうから現れて」くれねばならない!そこで「絶対の自由」すなわち「アタラクシアの自由」に到達したようでありながら、「スケプシス主義」も「個別」や「特殊」にやはり依存する! 
★「スケプシス主義」はこのようにいつもすべてを「否定」してゆく。しかし「否定」してゆくには、「否定せられるもの」がなくてはならないわけで、「否定せられるもの」がいつも「向こうから現れて」くれねばならない。(148頁)
☆そこで「絶対の自由」すなわち「アタラクシアの自由」に到達したようでありながら、「スケプシス主義」も「個別」や「特殊」にやはり依存する。(148頁)
☆「スケプシス主義」は「感覚を否定」し、「知覚を否定」するといいながらそれに依存し、「支配隷従のおきては相対的のものにすぎぬとして否定」するといいながらそれに依存する。かくてここに「スケプシス主義」が「アタラクシア」(無関心)(「心の平静」)を完全に実現しえぬゆえんがある。(148頁)

(27)-5-4 「スケプシス主義」は、一方で「普遍的」でありながら、他方で「個別的」のものに纏綿(テンメン)されるという「矛盾」を自覚する!この「矛盾」を「統一」づけようとする「不幸なる意識」(クリスト教的意識)!
★ここに「人間」は「自己矛盾」を痛切に自覚し、一方で「普遍的」でありながら、他方で「個別的」のものに纏綿(テンメン)される(からみつかれる)という「矛盾」を自覚する。(148頁)
★かくて「スケプシス主義」はまだ「奴」の境涯を脱しないのだが、しかしこの「矛盾」、すなわち一方で「普遍的」でありながら、他方で「個別的」のものに纏綿されるという「矛盾」は、「同一の自己意識」に属するから、これを「統一」づけようとする新しい段階が生じる。これが「不幸なる意識」(クリスト教的意識)だ。(後述!)(148頁)
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