宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

『ヴェルサイユ条約、マックスウェーバーとドイツの講和』牧野雅彦(1955生)、2009年、中公新書

2010-12-02 22:32:07 | Weblog
 Ⅰ ヴェルサイユ条約関連年表
 1914年
6月 オーストリアの皇太子サラエボで暗殺→7月オーストリア、セルビアに宣戦布告
8月 ロシア、総動員開始:これがドイツを戦争に向かわせる→ドイツ、ロシアに宣戦→かくて第1次大戦が始まる→米ウィルソン大統領は中立を宣言
12月 西部戦線で非公式の休戦
 1915年
1-3月 連合国攻勢→2月ドイツ潜水艦による連合国、中立国船舶攻撃→イギリス、封鎖
5月 Uボート、英客船ルシタニア号撃沈、米国人多数死亡、しかし米は中立維持
5月 イタリア、オーストリア=ハンガリーに宣戦
 1916年
3月 ドイツ、潜水艦作戦の放棄→7月ソンムの戦い(-11月)→8月イタリア、独に宣戦
 1917年
1月 ドイツ、無制限潜水艦作戦をアメリカ側に通告→3月 ロシア3月革命:臨時政府成立、ニコライ2世退位→4月 アメリカ、ドイツに宣戦
11月 ロシア11月革命:ボリシェビキ、政権奪取
12月 ボリシェヴィキ・ロシア、ドイツとブレスト=リトフスクで講和交渉→交渉はロシア側要請で公開、ロシアはドイツ・ヨーロッパにおける革命の勃発に期待をかけ無併合・無賠償を呼びかけ「平和攻勢」
 1918年
1月 ウィルソン、「14ヵ条」演説:ロシアの「平和攻勢」に対抗、「公正な講和」を提案
3月 ソヴェト、ブレスト条約調印→ドイツ軍春季大攻勢(~7月)→7月 連合国軍反攻
9月 ドイツ、大本営で皇帝臨席し休戦・講和交渉決定→ウィルソンの「公正な講和」期待
10月 パリで連合国休戦会議→14ヵ条に連合国、留保のもとで合意
11月 ドイツ、キール水兵叛乱、各地に拡大→ドイツ、連合国と休戦交渉
11月 宰相バーデン、皇帝の退位を告知、社会民主党のエーベルトへ政権移譲→人民委員政府成立→皇帝オランダに亡命、退位宣言→ドイツ、連合国休戦協定
1919年
1月 スパルタクス蜂起→ローザ・ルクセンブルグ暗殺
1月 パリで講和会議開始→4月 ドイツ側講和代表団、パリ到着
5月 ドイツ側に講和条約を手交→ドイツ側、戦争責任条項反対の覚書を提出→ドイツ側、戦争責任問題についての「教授意見書」(ウェーバーを含む)を提出。
6月 連合国側、講和条約受諾の「最後通牒」→ドイツ側、戦争責任問題の留保付き条件受諾を声明→連合国側は留保を拒否、無条件調印を要求→ヴェルサイユ講和条約調印
11月 ヒンデンブルク、国民議会調査委員会で証言(いわゆる「匕首伝説」)
 1920年
1月 ヴェルサイユ条約発効→3月米上院、国際連盟とヴェルサイユ条約批准を否決
11月 共和党のハーディング米大統領に
 1921年4月 賠償委員会、ドイツの賠償額を1320億金マルクとする
 1922年 10月 ムッソリーニ「ローマ進軍」→首相に
 1923年 1月 フランス、ベルギー軍、ルール地方を占領(~1925年8月)→11月 ヒトラー、ミュンヘン一揆→11月 レンテンマルク導入
 1924年 4月 ドイツ、ドーズ案を受諾
 1926年 9月 ドイツ、国際連盟加盟
 1928年 8月 ケロッグ=ブリアン協定(不戦条約)調印
 1929年 6月 ヤング案、 10月 世界恐慌始まる
 1933年 1月 ヒトラー、首相に就任
 
 Ⅱ 講和条約交渉
 Ⅱ-1 「戦争責任」問題
 外相ブロックドルフによるドイツの「戦争責任」拒否という講和条約交渉の強硬戦略は失敗する。連合国側をいらだたせただけだった。
 ドイツ、受諾を決めるが「戦争責任」を認めないとの留保をつける。つまりエルツベルガーは戦争責任と戦犯引渡しというドイツの「名誉にかかわる問題」について連合国に修正を要求。
 連合国側は留保を受け入れず、無条件調印を要求。
 Ⅱ-2 「公正な講和」は実現しなかった
 国民のルサンチマンが、結局は講和を受諾することとなったワイマール共和国の政治家に向けられる。
 ドイツにとってウィルソンの「14ヵ条」にもとづく「公正な講和」は実現しなかった。
 国民感情の上では「名誉」の問題が重要であったとのM.ウェーバーの指摘は正しい。
 「14ヵ条」はもともとロシア・ボリシェヴィキ政府の無併合・無賠償の講和に対抗するものだった。また「14ヵ条」は専制ロシアが倒れた後は英仏米連合国の戦争の大義となる。
 講和に導いた張本人、民主党のエツツベルガーが1921年8月、暗殺される。
 Ⅱ-3 勝者からの「命令された講和」
 1921年、ドイツの賠償金額が1320億金マルクに決まるが、1000億金マルクの支払いはドイツから提示されていた。
 ドイツは、軍20万人を要求したがこれは妥当だった。しかし講和条約は対東部防衛(対ボリシェヴィキ)のための10万人しか認めなかった。
 ケインズは今回の講和が勝者からの「命令された講和」であると述べた。

 Ⅲ ウェーバーとヴェルサイユ条約
 Ⅲ-1 「責任倫理」:ザッハリッヒな講和条約交渉
 ウェーバーは「14ヵ条」にもとづく講和でなくてもよく、実質的な取引としての講和が現実的とした。
 ドイツの講和交渉がアメリカとの協調を目指すなら「戦争責任」問題を正面に掲げた「道徳的宣戦布告」はウィルソンに対し逆効果だった。
 『職業としての政治』でウェーバーは「戦争責任」のようなルサンチマンをかきたてる論点を取り上げず実質的な(ザッハリッヒ)処理を要求。
 ただし一方でエルツベルがーの主導するベルリン政府と、他方で外相ブロックドルフを中心とする講和代表団の強硬な立場との対立からすれば、ウェーバーは強硬派であった。
 しかしそもそも劣勢を覆すべく国際世論と「中立機関」へ、相手の不正と自らの正義を訴えるとの立場には、ウェーバーは否定的だった。
 Ⅲ-2 「心情倫理」:「名誉」を求めるウェーバー
 ウェーバーは「名誉」の観点からブロックドルフ以上に講和拒否に強硬だった。結果の如何を問わず「名誉」を求めるウェーバー。
 ウェーバーは皇帝、ルーデンドルフ、宰相ベートマン・ホルベークは開戦、無制限潜水艦作戦の決定責任者として自発的に敵に出頭すべきであるとする。
 また無制限潜水艦作戦は相手方の不法行為に対する報復行為だと正々堂々と主張すべしとした。
 さらに開戦は、ロシアの総動員に対抗する当然に必要な軍事的方策であるとウェーバーは述べる。
 Ⅲ-3 国民に対する責任としての「戦争責任」
 ウェーバーは国民に対する責任としての「戦争責任」を、議会で追及することは党派闘争になるだけで不適切と主張。
 実際、国民議会「戦争責任」調査委員会でヒンデンブルグが、ドイツ軍は「背後から短刀で刺された」と発言。
 「匕首伝説」:戦争は降伏でなく形式的に休戦協定で終結し、ドイツ軍の撤収は整然と行われた。国内の左翼の叛乱でドイツは勝てる戦争に敗北し、連合国の不当な要求に屈服することになった。

 Ⅳ 国際連盟規約第10条:侵略戦争阻止の義務負担
 第10条は加盟国の領土保全と政治的独立の尊重の義務をかかげる。そして加盟国が侵略を受けた場合あるいはその脅威ある場合に「理事会はかかる義務を履行するための手段を助言する」と規定する。
 ウィルソン大統領はこの侵略戦争阻止の義務負担こそ国際連盟の核心とした。
 上院はこの義務負担をめぐり紛糾。
 批准に反対する共和党強硬派議員と、留保抜きの批准に固執する民主党議員(大統領も留保抜き批准に固執)の双方の反対で、ハウスが次善の策とした留保付き批准案は可決に必要な3分の2に満たなかった。
 ウィルソンは選挙民の審判に最後の望みを賭けるが民主党は共和党に敗北。合衆国国民はウィルソンの講和と国際連盟に「ノー」の回答をあたえた。

 Ⅴ フランスのルール占領と「1923年の危機」
 仏クレマンソー首相がウィルソンの講和と国際連盟を受け入れたのは、英米両国によって対ドイツ安全保障が確約されたからだった。ところがアメリカが条約の批准に失敗。フランスはドイツの脅威に裸のままさらされる懸念が生じた。 
 最大の問題かつ未解決の賠償問題をめぐりドイツ側の抵抗を受け、さらに合衆国に裏切られたフランスが、ルール占領という実力行使に出る。
 ライン分離主義の動き、また極左・極右の動きが活発化。
 ザクセンおよびチューリンゲンでは共産党を含めた左翼政権が成立(10月)。共和国政権は国防軍を差し向け強制執行。
 バイエルンではヒトラーがミュンヘン一揆(11月)。
 共和国政権が右翼より左翼に苛烈だったのは理由がある。極左はロシア・ボリシェヴィキとコミンテルンにつながる。極右はまだ国民的・民族的利害を主張していた。(ナチスの犯罪的行為の予測はこの時点では不可能。)
 この時期、軍事独裁の危険もあった。
 
 Ⅵ 1924年のドーズ案:賠償問題の解決
 ドーズ案によってアメリカの資本がドイツ経済復興に使われ、ドイツが英仏へ賠償金支払い、英仏が米へ戦時債務支払いをする。この資金の循環によって賠償問題が解決した。
 
 Ⅶ ワイマール憲法体制の確立:1924年 
 1924年のドーズ案による賠償問題の解決、またワイマール憲法体制の確立を主導したのはシュトレーゼマンである。 1923年8-11月シュトレーゼマン大連合(社会民主党・中央党・民主党・人民党)内閣。さらに1924年以降、シュトレーゼマンは外相としてワイマール憲法体制を確立させる。
 1926年、ドイツが国際連盟に加盟。1928年、不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)で戦争の不法化。かくて国際連盟はウィルソン本来の構想に近づく。
 しかし1929年の世界恐慌とシュトレーゼマンの死と共に、ヨーロッパの相対的安定と国際協調は崩壊へ向かう。
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