宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

ホフマン(1776-1822)『G町のジェズイット教会』(1816年):画家ベルトルトは、経験される《この世のもの》が、《この世ならぬ崇高なもの》を指示する象徴・記号であることを望んだ!

2018-11-15 19:04:42 | Weblog
(1)
私は郵便馬車の故障でG町(ドイツ)に3日間、滞在する羽目に陥った。私はジェズイット教会付属学院のヴァルター教授を訪問した。教会の内陣の工事中で画家ベルトルトが壁に絵を描いていた。教会内を見学した時、脇祭壇の祭壇画の一つが布で覆われているのに気付いた。
《感想1》この小説は画家ベルトルトを描く。鍵となるの「布で覆われている祭壇画」だ。この祭壇画は実は未完のベルトルトの作品である。

(2)
私は夜、教会の内陣の壁に一人絵を描くベルトルトの助手を、偶然つとめることなった。私には絵画の素養があったので、彼から「優秀な助手だ」と褒められ気に入られた。ベルトルトが話した。「ある向こう見ずな画家が、至高のものを求めた。神々しい自然の中の最高のもの、人間のなかのプロメテウスの火にあたるものを求めた。苦しい道、細い道で、奈落が口を開いている。頭上には猛禽が輪をえがいている。足下には、なんとしたことか、星の彼方の上天にあるあやかしが見える。」そして彼が付け加えた。「人間を超えたものは神にちがいない。さもなくては悪魔です。」
《感想2》ベルトルトは「人間を超えたもの」を求めた。それは「神々しい自然の中の最高のもの」、「人間のなかのプロメテウスの火にあたるもの」だ。それのみが絵画の描くべきものと彼は思う。(「プロメテウスの火」とは文明の源つまり人間の精神を導く最高のものだ。)

(3)
さらに画家ベルトルトが言った。「とても償いのつかない残酷な罪を犯したとしたら、そのさき生きていても一瞬たりとも・・・・・・心の晴れる時がないのではないのではないでしょうか?」
《感想3》「とても償いのつかない残酷な罪を犯した」のは実は画家ベルトルト自身だと、やがて明らかになる。だが彼は「人間を超えたもの」「最高のもの」を生きて手に入れたい。それらが手に入るまで彼は生きる。彼の「残酷な罪」は、その目的のためになされたから、目的の実現まで彼は死なない。目的が実現すれば彼は、もはや生きる必要がない。

(4)
ヴァルター教授が画家ベルトルトについて言った。「彼は、人生における一つの失敗でちゃんとした歴史画の画家からペンキ屋風情(フゼイ)に身を落とした。教会でヴァルター教授が覆いを掛けられていた祭壇画を、覆いをとって見せてくれた。マリアとエリザベト(※ヨハネの母)、幼児ヨハネとイエス、そして祈っている男の輝かしい絵が、あらわれた。祈る男はベルトルトに似ていた。未完の作だが、数年前、同僚が買い入れた。」
《感想4》ヴァルター教授は、画家ベルトルトが「人間を超えたもの」「最高のもの」を求めようとする動機を理解できない。画家ベルトルトは天上(彼岸)の価値、この世を超えた価値を信じるが、ヴァルター教授が信じるのは地上(此岸)の価値のみだ。

(5)
さらにヴァルター教授が付け加えた。「画家ベルトルトが、教会でこの未完の祭壇画を見た時、気を失って倒れ、自分の絵だと言った。ちらっとでも彼の、眼に入ると発作に襲われるので、彼が内陣で作業する時は覆いで包むようにしている。」
《感想5》ベルトルトの未完の祭壇画にはベルトルトの命がかかる。①彼はこの祭壇画において「人間を超えたもの」「最高のもの」を生きて手に入れなければならない。また②この祭壇画のため、ベルトルトは妻子を失った。(後述)つまり「この世ならぬ崇高な女性」であったアンジョラ姫(妻)を彼自身が死なせた。その償いのため祭壇画を完成させねばならない。そのためにのみ彼は生きる。

(6)
「ベルトルト自身が自分の悪霊であり――地獄の業火で自分を焼いている悪魔的人間であるとしか思えない」とヴァルター教授が言った。
《感想6》ヴァルター教授の目には、あるはずのない「人間を超えたもの」「最高のもの」を求めるのは狂人であり、それが地上の不幸をもたらすなら、狂人自身が「自分の悪霊」であり「悪魔的人間」だ。

(7)
ヴァルター教授は、「より高貴なもの」など全く信じない。彼は物質万能主義者だ。彼は、「精神の営みや創造力は、頭脳の中の繊維が絡み合う時生まれる」とのみ思う。これに対し、ベルトルトは「精神のより高度な意味」の存在を認める。
《感想7》「頭脳の中の繊維が絡み合う」ことは、《感覚(物の出現)・感情・欲望・意図・夢・意味世界・意味世界の展開としての虚構》からなるモナド(広義の心)のうち、《感覚》の出来事にすぎない。精神は、モナド(広義の心)から《感覚》(物の出現)を除いたものだ。

(8)
ジェズイット教会付属学院のある学生が作成した「画家ベルトルトからの聞き書き」を私は手に入れた。
《感想8》「画家ベルトルトからの聞き書き」は大部分が、ベルトルト自身の言葉をそのまま記録している。

(9)
ベルトルトはドイツD町の出身だった。両親は貧しかったが、ベルトルトの才能を認めて「修業にイタリアに行かせるべきだ」と老画家ピルクナーが言った。ベルトルトはイタリアに行く。彼は風景画に熱心に取り組んできたが、イタリアでは歴史画が最高の芸術だと誰もが言った。ベルトルトはヴァチカン宮殿でラファエロ作のフレスコ画を見て感動し、風景画を捨てる決心をした。
《感想9》風景画は東洋では山水画であり古い。しかし西洋(中世)では歴史画(宗教画・神話画も含む)の背景にすぎなかった。ルネサンス期に風景画は萌芽を見,17世紀オランダでジャンルとして確立。19世紀以降に風景画が発展する。

(10)
ベルトルトはやがて画商や美術好きから注目され賞讃される。しかし彼は自分の絵には生命力がなく、曖昧模糊として「生気なく意味のない絵」にすぎないと思った。「崇高な思想」が「永遠の創造」へ導くということがなかった。
《感想10》「永遠の創造」へ導く「崇高な思想」が、絵に「生命力」を与えると、ベルトルトは思う。

(11)
ベルトルトは、今度は、風景画家ハッケルトの弟子となる。彼は急速に腕前を上げ、師と肩を並べるまでになった。彼はしかし、心秘かに自分の絵にも師のハッケルトの絵にも「何かが欠けている」気がした。
《感想11》ここで「何か」とは、「人間を超えたもの」「最高のもの」「より高貴なもの」であり、すなわち天上(彼岸)の価値、この世を超えた価値である。

(12)
師ハッケルトのすすめで、ベルトルトは師の風景画・静物画展に何点か出品した。会場に来た画家たちや美術好きはこぞってベルトルトの腕前をほめた。彼は慢心気味になった。
《感想12》画家たちや美術好きに褒められ作品が売れるのに、それに満足せず、それを「慢心」と呼ぶべきなのか?日常生活的には成功しているのに、それを捨て去る画家ヘルベルトは「求道者」あるいは「狂人」「変人」だ。彼岸の価値を求めこの世(此岸)の妻子を犠牲にしたら「悪魔」だ。

(13)
この時、マルタ生まれの老人が言う:あなたの絵には確かに「より高いものを求める努力」がある。求めるべきは「自然のより深い意味」だ。「その意味においてこそ、生きものが応分の生命を獲得する」。これが「すべての芸術に共通する聖務」だ。だがあなたは「とんでもないまちがい」をしている。あなたの絵は「哀れな筆写の絵文字」にすぎない。「筆写するが絵文字の言葉を理解しない」。「自然の声」を聞き、「自然界そのものの中にある精神」「自然界のより深いところ」に入り込まなければならない。
《感想13》絵画は「絵文字」にすぎない。重要なの「絵文字」が象徴・記号として、「より高いもの」「より深い意味」「自然界そのものの中にある精神」「自然界のより深いところ」を指し示してこそ、真の絵画だとマルタ生まれの老人が言う。

(14)
ベルトルトはもはや一筆も描けなくなった。彼は老人の言った「より高い認識」が開けるのを熱望した。「自然の声」「創造の階音」を聞き、自分のなかに「新しい感覚」が目を覚ますのは、ただ夢の中でだけだった。そこでは、「秘密の奇妙な象形文字を炎の文字で宙に書きつけると、その文字の中には不思議な風景が収まっていて、木も繁みも花も山も湖水も生気あふれ、陶然として息づいていた。」だが幸せなのは夢の中だけだった。
《感想14》ベルトルトは、夢の中でだけ、「より高い認識」が可能となり、「新しい感覚」が目を覚ました。つまり「絵文字」が、「より高いもの」を指し示した。

(15)
ベルトルトにとって自然が今や怪物めいたものとなった。だが、やがて落ち着きを取り戻し、彼は友人の画家フロレンティンの聖女カタリーナの殉教の絵を見て気づく。空しく荒野をさまよいたくないなら、寄るべき一点をもたねばならない。友人が言った。「人物を描いて自分の考えを整理してみたらどうだろう。」だが、うまくいかなかった。
《感想15》自然は今や、「より高いもの」を一切指示しないただの「絵文字」となった。自然が「怪物」に見える。

(16)
ナポリの近くに大公の別荘があり、芸術家に開放されていた。ベルトルトはそこを幾度となく訪れ、庭園にある洞窟で幻想的な夢と戯れた。ある日、「この世ならぬ崇高な女性」が洞窟の前に現れた。「ぼくの理想、まさにその女性にちがいない!」とベルトルトは思った。「あの人がとうとう見つかった!」と彼が言った。
《感想16》「この世ならぬ崇高な女性」とは、「この世ならぬ崇高な」ものを指示する象徴・記号としての「女性」だ。

(17)
ベルトルトは仕事場で、先刻現れた「この世ならぬ女性」の姿をありありと描いた。この瞬間から彼は一変した。彼は陽気で愉しげとなり、驚嘆の的となる作品を次々と生み出した。大作や祭壇画の注文も舞い込んだ。それらの作品には、必ず「この世ならぬ理想の女性」が描かれていた。
《感想17》ベルトルトは「より高い認識」を得た。「より高いもの」「より深い意味」「この世ならぬ崇高なもの」を指示する象徴・記号として、《この世のもの》を見ることができるようになった。

(18)
人々はしかし、その「理想の人」がT大公の娘アンジョラとそっくりと気づいた。「ドイツの画家が美女の瞳に射すくめられた」と噂になる。ベルトルトは天上のものが地上に引きずり降ろされたように思い憤然とした。かの「理想の人」は、「不思議な幻のなかにあらわれた映像」だと彼は言った。
《感想18》T大公の娘アンジョラは、「この世ならぬ崇高なもの」(天上のもの)を指示する象徴・記号として、ベルトルトには出現する。だが人々にとって、彼女はあくまでも地上のT大公の娘アンジョラにすぎない。

(19)
ベルトルトは幸せだった。ところがナポレオンがイタリアで勝利を収め、ナポリでも暴動が起きた。T大公の館が襲われ大公が殺され、館に火がかけられた。ベルトルトは館の奥へ迷い込んだ。この時、彼はT大公の娘アンジョラが殺されかかる所に遭遇した。彼は無我夢中で、彼女を救出した。
《感想19》ベルトルトには、この時点ではまだ、T大公の娘アンジョラは「天上のもの」を指示する象徴・記号だ。

(20)
ベルトルトは、アンジョラ姫を連れ南ドイツのM市まで逃げた。アンジョラ姫が言った。「わたくしを救って下さった人!」「ドイツ人の画家ベルトルト様は、私を愛してくださり、美しい絵の中に私をこの世ならぬ姿で描いて下さった。これからずっと、おそばにいます。」彼女はベルトルトの妻となった。
《感想20》アンジョラ姫自身が、自分がベルトルトにとって「天上のもの」ものを指示する象徴・記号となっていることに、気づいていた。

(21)
ベルトルトは有頂天だった。「身も世もあらず焦がれてきた憧れが、今みたされた。」だが現実が二人を苦境に陥れる。彼はM市における名声を大作で一挙に確立しようとした。M市きっての御堂、マリア教会の祭壇画を彼は引き受けた。マリアとエリザベト、幼児ヨハネとイエスを描く祭壇画だった。だが「きよらかな姿」(天上のもの)があらわれない。モデルとするアンジョラが、蝋人形同然にしか描けない。
《感想21》アンジョラがベルトルトの妻になると、アンジョラは、もはや「天上のもの」ものを指示する象徴・記号でなくなった。ベルトルトは「より高い認識」を失った。「この世ならぬ崇高な」ものを指示する象徴・記号として、《この世のもの》を見ることが、彼にはできなくなった。

(22)
食事にも事欠く貧しさの中で、アンジョラが男の子を産んだ。悲惨のダメ押しだった。ベルトルトは恨んだ。「この女が不幸のみなもとであり、理想の人でもなんでもなく、ただ自分をたぶらかし、救いようのない絶望の淵に沈めるため、この世ならぬ顔かたちであらわれたにすぎない。」彼はアンジョラと子供に当たり散らした。妻と子への暴力が隣近所の目を引き、当局に訴えがなされた。警官が住居に行くと、画家は妻子もろとも消え失せていた。
《感想22》地上のアンジョラは、「この世ならぬ崇高な」ものを指示する象徴・記号でなく、さらに単なる「この世(地上)」のアンジョラでもなく、「不幸のみなもと」「自分をたぶらかし、救いようのない絶望の淵に沈めること」の象徴・記号となった。
《感想22-2》「地上のアンジョラ」は、実は、地上においてもイデア的意味としてのみ存在する。《経験される「地上のアンジェラ」》は、《イデア的意味としての「地上のアンジェラ」》を指示する象徴・記号だ。

(23)
間もなく上部シレジアのN町にベルトルトの姿が見られた。妻子は伴っていなかった。彼は元気になり、M市で描き始めた絵(祭壇画)の製作を再開した。だが途中で重病になり、治療費捻出のため画家の道具一式、未完の絵(祭壇画)が売りに出された。(これがG町のジェズイット教会に買われた。)彼は乞食となりN町を出た。時々ある壁絵の仕事で、彼は命をつないだ。
《感想23》T大公の娘アンジョラは、ベルトルトの妻になった時、「地上のもの」(妻アンジョラ)となった。だが今や地上の自分の妻アンジョラは消え、ベルトルトにとって再び、アンジョラは「この世ならぬ崇高なもの」(天上のもの)を指示する象徴・記号となった。
《感想23-2》ベルトルトは再び「より高い認識」を得た。「この世ならぬ崇高な」(天上の)ものを指示する象徴・記号として、《この世のもの》を見ることができるようになった。
《感想23-3》だが彼は重病となり、画家の道具一式、未完の絵も売ってしまい、失意のうちに乞食となった。彼はまた《この世のもの》が、(イデア的意味としての)《この世のもの》を象徴・指示するだけの普通の人間となった。

(24)
「画家ベルトルトからの聞き書き」を読み終わた私は「彼は罪もない妻と子を殺したに違いない」と思った。だがヴァルター教授は「妻子を殺したとひとり勝手に思い込んでいる妄想者かもしれない」と言った。
《感想24》ヴァルター教授の解釈は正しいかもしれない。画家ベルトルトは、《この世のもの》が、(イデア的意味としての)《この世のもの》を象徴・指示するのでなく、《この世ならぬ崇高なもの》を象徴・指示することを望む。ベルトルトは確かに「妄想者」だ。

(25)
私は、その日、昼間、足場の上で仕事するベルトルトのそばまで行き、彼のこれまでの人生について話をした。やがて問題の一点に立ち至った時、やおら私がたずねた。「つまり狂気にかこつけてあなたは妻子を殺したんですね。」彼は激怒した。「もう一度、言ってみろ。お前に組み付いて足場から真っ逆さまだ。石の床でおれたちの頭が粉微塵に砕けるぞ!」私は、聞き流し、彼から離れた。
《感想25》ベルトルトはこの時、もう死んでもいいと思った。この諦観のもとで、ベルトルトは再び「より高い認識」を得た。《この世のもの》を、「天上のもの」を指示する象徴・記号として見るようになった。

(26)
馬車の修理が終わり、私はG町を去った。ヴァルター教授が半年後、ベルトルトのその後の消息を伝えてくれた。「あなたが出発した直後、ベルトルトが突然ひどく陽気になり、中絶していた祭壇画に取り組み見事に仕上げた。ところがその直後、所持品を残したまま姿を消した。数日後、町からほど遠からぬO河のほとりで彼の帽子と杖が見つかった。彼が自ら死を選んだものと、みな考えている。」
《感想26》画家ベルトルトは、死ぬ決意をした。その時、かれにとって再び《この世のもの》が、《この世ならぬ崇高なもの》を指示する象徴・記号となった。だから彼は、未完だった祭壇画を完成できた。彼は「より高い認識」つまり「崇高な思想」を手に入れた。そして絵の完成は「永遠の創造」の成就だ。彼は目的を達成した。彼は生きる必要がなくなり、亡くなった妻子のあとを追った。
《感想27》要するに、画家ベルトルトは、経験される《この世のもの》が、(イデア的意味としての)《この世のもの》を指示する象徴・記号にすぎないのでなく、《この世ならぬ崇高なもの》を指示する象徴・記号であることを望む。だが《この世ならぬ崇高なもの》(天上のもの)など無いのではなかろうか?ベルトルトはやはり「妄想者」かもしれない。
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