宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」ニ「原始キリスト教」:「受肉」!「絶対実在」は「自己」にほかならない!神性は人性、人性は神性!

2024-08-01 19:01:45 | Weblog
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」ニ「原始キリスト教」(252 -254頁)
(58)「不幸なる意識」(クリスト教的意識):「個別的可変者」(人間)と「普遍的不変者」(神)との「分裂」からおこる「不幸」を克服していない意識!
★「クリスト教」はすでにしばしば言ったように、『精神現象学』においても、またヘーゲル哲学全体にとっても、極めて重要だ。それがいかに考えられているかは、(B)「自己意識」B「不幸なる意識」においてすでに述べたし、また後に(BB)「精神」B「教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」b「信仰と純粋透見」の場合にも述べる。(後述!)(252頁)

《参考》「不幸なる意識」(クリスト教的意識)とは、「個別的可変者」(人間)と「普遍的不変者」(神)との「分裂」からおこる「不幸」を克服していない意識だ。(150頁)

(58)-2 クリスト教における「受肉」:「『絶対実在』は『自己』にほかならない」!「神性は人性であり、人性は神性である」!「自我」は「個別者と普遍者との不可分の結合」である!
★クリスト教では、「世界の創造者」であり「摂理」である「神」が「賤しい大工の子」として生まれたということ、つまり「受肉」が根本であり、ここに「『絶対実在』が『自己』にほかならない」ことが「啓示」されているとヘーゲルは見る。(252頁)
☆すなわち「神性は人性であり、人性は神性であって」、端的に言うと「だれでも人間には神的意義が宿る」のだ。(252頁)
☆ヘーゲルはイエナ時代(1801-1807)(Cf. 『精神現象学』1807)の遺稿で次のように述べる。「哲学においては『絶対精神の知』であるところのものは『自我』そのものである。・・・・・・ここでは、これ以外のものがあるのではない。享受と定在とが『彼岸』で『未来』であるような和らぎがあるのでなく、和らぎは『ここ』にある。ここで『自我』は『絶対者』を認識する。自我とは『この』自我である。『自我』は『個別者と普遍者とのこのような不可分の結合』である。」こういうことが「受肉」の教義のうちに含意されているとヘーゲルは言う。(252-253頁)
★もっとも「クリスト教」は「ただイエス・クリストだけが神である」という「表象」の立場にとどまっているけれど、それはそれとして、「時代精神」の要求するところとして、「受肉」の教義が出てきたというのがヘーゲルの解釈だ。(253頁)

(58)-3 イエスのみを「神の子」とし、弟子の自分たちは「人の子」として罪のうちにある!イエスの「死」後、弟子たちはイエスを「精神的」につかむようになる、すなわちイエスが「神の子」であると同じく、「肉に死し霊に生きる」なら弟子の自分たちもまた「神の子」であると自覚する!
★「受肉」によって「神」は「『この』人間」として「見られ聞かれ触れられるもの」となった。しかしイエスが活きている間、弟子たちはただイエスのみを「神の子」とし、自分たちは「人の子」として罪のうちにあるものと思っている。(253頁) 
★やがてイエスが「死ぬ」。そうなるとイエスは弟子たちの「追憶」のうちにのみ生きているので、おのずと「理想化」される。「理想化」するにしたがい次第に、弟子たちはイエスを「精神的」につかむようになる。(253頁)
☆つまりイエスが「神の子」であると同じく、「肉に死し霊に生きる」ならば弟子の自分たちもまた「神の子」であると自覚するようになる。(253頁)

(58)-4 「抽象的な善」( (BB) Cc「美魂」にあたる)あるいは「抽象的普遍」は成立しえない!かくて「受肉」とは「肉の『個別性』に霊の『普遍性』を現実化する」ことだ!
★しかもヘーゲルの解釈では、「イエスの死刑」は、「悪」に対立するにすぎない「抽象的な善」(後の(BB)「精神」C「自己確信的精神、道徳性」c「美魂」にあたる)あるいは「抽象的普遍」の成立しえないこと意味するので、「霊」にとって「受肉」は不可避となり、(※「受肉」は)「肉の『個別性』にも霊の『普遍性』を現実化する」という意義が認められる。(25-254頁)

(58)-5 「普」と「個」、「客」と「主」とは、相互に他に転換し、「絶対精神」が顕現する!クリスト教は「絶対実在が自己である」という意識を与える!
★ここに「普」と「個」、「客」と「主」とは、相互に他に転換し、「絶対精神」が顕現する。(254頁)
☆このことを具体的に体験させるものがヘーゲルによると「教団」(「教会」)にほかならない。「祈り」や「聖餐(セイサン)の儀式」が行われる「教団」(「教会」)においては、「精神(霊)は日々に死するとともによみがえる」。
★とにかくこういうわけで、クリスト教は「絶対実在が自己である」という意識を与える。(254頁)

《参考》「教会」(「教団」)とはクリスト教の信仰共同体(エクレシアor集会)だ。「教会」は「キリストの体」(エフェソ 1章23節)、「キリストの花嫁」、「真理の柱」(テモテ一 3章15節)、「聖霊の神殿」(エフェソ 2章20-22節)などと呼ばれる。
《参考(続)》「聖餐式」(ミサ)イエス・キリストが、十字架にかけられる前夜の最後の食事を記念して行なう教会の儀式。キリストが最後の晩餐でパンと葡萄酒をとり「これわがからだなり、わが血なり」と言ったことに基づいて、パンと葡萄酒を会衆に分かつ儀式で、洗礼式とともに、キリスト教でもっとも重要視される。聖体拝領。

(58)-6 「神が人であり、人が神である」といってもクリスト教は「宗教」として「表象性」をまぬがれえない!リスト教は「宗教」として「概念的自覚」(「いま―ここにいる自分に神性が宿っている」)を欠く!
★しかしクリスト教はどこまでも「宗教」たるをまぬがれないから、「表象性」を離れえない。「神が人であり、人が神である」といっても、「遠い昔のパレスチナでイエスがそうだった」というような「表象性」、あるいはわかりやすく言えば「神話性」をまぬがれえない。(254頁)
☆ヘーゲルのイエナ時代の文章のように「いま―ここにいる自分に神性が宿っている」ということははっきりしていない。つまりクリスト教は「宗教」として「概念的自覚」を欠く。(254頁)

★そこにさらに「近世」の「主体的」方向が「媒介」として要求されることになる。この点でとくに重要なのは、(BB)「精神」の最後の段階である「良心的自己」の立場((BB)「精神」C「自己確信的精神、道徳性」c「良心」)だ。(254頁)
★しかしまずその「良心的自己」の立場に至るまでの「近代」の歴史を回顧する必要がある。(254頁)
※すなわち《 (BB)「精神」B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)、Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)、Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)》という「近世」・「近代」の歴史を回顧する!

《参考》「歴史哲学」としての『精神現象学』:ヘーゲルの「絶対知の哲学」といっても、「ヘーゲル個人が考え出したもの」でなく、「時代からまさに要求されているもの」であり、そういう意味で「歴史を離れえないもの」だ!(75-76頁)
☆へーゲル哲学の根本概念である「主体」、「精神」、「理性」などの概念は、精神の「現在」の立場から規定されている。つまりヘーゲルにおいて「認識」とか「理性」とか「精神」といわれるものは、つねに「歴史性」を離れえない。ヘーゲルの「絶対知の哲学」といっても、彼の立場からいうと、「ヘーゲル個人が考え出したもの」でなく、「時代からまさに要求されているもの」だということだ。そういう意味で「歴史を離れえないもの」だ。(75頁)
☆『精神現象学』は元来、ヘーゲルの哲学体系への「認識論的」序説にほかならないが、それが次第に大きなものになって、それ自身、体系の第1部となったということの一つの大きな原因は、彼の「精神」という概念がつねに「歴史」を離れえず、『精神現象学』のなかへ「歴史哲学」がはいっているということにある。(75頁)
☆ヘーゲル『精神現象学』の目次を見ると、(B)「自己意識」あるいはⅣ「自己確信の真理性」のBに「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」というのがある。これらは「歴史を離れて成立する意識形態」として論ぜられるが、「ストア主義」、「スケプシス主義」の名が示すように、実際には歴史を離れえない。また「不幸なる意識」はキリスト教を材料としている。(75-76頁)
☆さらに(C)「理性」(BB)「精神」のA「真実なる精神」も、ギリシア時代を離れては理解できない。(76頁)
・またB「自己疎外的精神」は中世から近世にかけてのものであり、その中の特にⅡ「啓蒙」という段階は啓蒙時代を離れてはとうてい理解しえない。次のⅢ「絶対自由と恐怖」もフランス革命を離れては理解できない。(76頁)
・C「自己確信的精神、道徳性」の段階は、ドイツのロマンティスィズムの時代を離れては理解できない。(76頁)
☆(C)「理性」(CC)「宗教」あるいはⅦ「宗教」のA「自然宗教」は東方宗教を、B「芸術宗教」はギリシア宗教を、C「啓示宗教」はキリスト教を、それぞれ離れては理解できない。(76頁)
☆かくて(C)「理性」(DD)「絶対知」あるいはⅧ「絶対知」も、啓蒙からロマンティスィズムへと進んできた時代というものを離れては、とうてい成りたちえない。そういう意味で、「精神」の概念は「歴史」を離れえない。(76頁)
☆したがってヘーゲルの『精神現象学』は、実に雄大な「歴史哲学」である。(76頁)

Cf.   ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 金子武蔵『ヘーゲルの精神現... | トップ | 金子武蔵『ヘーゲルの精神現... »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事