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安部悦生『文化と営利』「第7章」(その5):新制度学派は「客観性を否定」する?「手段合理性」についてはフリーグスタインも《客観的に論じる事ができる》と考えているはずだ!

2020-08-23 13:21:21 | Weblog
※安部悦生『文化と営利 ―― 比較経営文化論』有斐閣、2019「第Ⅰ部 経営文化の理論的解明」「第7章 合理性モデルと新制度学派」(91-100頁)(その5)

(3)-7 新制度学派は「客観性を否定する点で行き過ぎの感がある」(安部氏)!評者の私見では、「手段合理性」についてはフリーグスタインも《客観的に論じる事ができる》と考えているはずだ!(97-98頁)
O フリーグスタイン流の新制度学派は、文化的・認知的要因を重視する。そして安部氏は、新制度学派は「客観性を否定する点で行き過ぎの感がある」と述べる。
《感想4》新制度学派は「客観性を否定する点で行き過ぎの感がある」と述べるのは、評者の私見では、言い過ぎと思う。新制度学派にとっても《物》世界は客観的である。ただし新制度学派は「客観性は間主観性だ」と主張するのだ。
Cf.(3)の《感想2-6》をここで再び述べる。「客観的な間主観的な物世界」は《誰にとっても認知的に同一》=客観性=間主観性(「社会的な約束事」)である。ここでは「主観」の概念は《「物」の客観性を可能にする主観》であり、「物」に対立する(日常的な)主観と異なる。《「物」の客観性を可能にする主観》は、(主観を超えた)「超越的な」物を可能にする主観であり「超越論的主観性」と呼ばれる。

(3)-8 「効率性や合理性について・・・・様々な見解がある」(フリーグスタイン)とは、「目的」は「立場や世界観の違い」で様々あると言っているだけにすぎない!(98頁)
O-2 フリーグスタインは言う。「効率性や合理性についての問いには唯一正しい正解等はなく、ただ立場や世界観の違いによる様々な見解があるだけであり・・・・合理性の仮定自体が社会的に作られた神話でしかない。」
《感想4-2》安部氏は「効率性や合理性」について「客観性」を持った正解があると考える。もちろん最適解が複数であることはありうる。つまり《唯一ではないが「客観性」はあるはずだ》と、安部氏は言う。
《感想4-2-2》フリーグスタインが「効率性や合理性について・・・・様々な見解がある」と言うのは、(安部氏が言うように「効率性や合理性」は手段合理性であって)《「目的」に関しては「立場や世界観の違い」で様々ありうる》と言っているだけにすぎない。
《感想4-2-3》私見では、フリーグスタインも《手段合理性については客観的に論じる事ができる》と考えているはずだ。(Cf. ただしここでの客観性とは、間主観性=《誰にとっても認知的に同一》ということである。「客観性」が《実体》として、「主観」と無関係に存在するのではない。「客観性」はあくまで「間主観性」だ。)
《感想4-3》フリーグスタイン「合理性の仮定自体が社会的に作られた神話でしかない」とは、《「立場や世界観」に応じて異なるさまざまの「目的」が一種の「神話」にもとづく》と言っているだけだ。だから、《このような神話的「目的」につかえる「手段合理性」も、「神話」だ》と言っているだけのことだ。《「目的」と切り離された「手段合理性」そのもの》についてはフリーグスタインも《客観的に論じる事ができる》と考えているはずだ。(Cf. ただし、ここでの客観性とは「物」の客観性=間主観性に限られる。)

(3)-9 「半分しかない」、「半分も残っている」、「半分は半分」!(98頁)
O-3 認知論で「半分しかない」と思うか、「半分も残っている」と思うかは、重要な相違であろう。しかし「半分は半分」であるとの客観的な立場も無視できない。(安部氏)
《感想4-4》認知論(フリーグスタイン)においても「半分しかない」、「半分も残っている」、「半分は半分」は、重要な相違だ。認知論も当然、「客観的な立場」(「物」の客観性)は前提する。「物」の客観性(=間主観性=《誰にとっても認知的に同一》であること)は認知論でも認めている。

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