宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

『サキ短編集』⑨「宵闇」の公園で、偶然が寸借詐欺師の青年に幸運をもたらし、ゴオツビイは不運にも20シリング(金貨)を失った!「紳士」は石鹸を失った!

2020-08-16 16:14:15 | Weblog
※サキ(Saki)、本名ヘクター・ヒュー・マンロー(Hector Hugh Munro)(1870-1916)、『サキ短編集』新潮文庫、1958年。

(9)「宵闇」
(a)ノーマン・ゴオツビイはハイド・パアクのベンチに腰を下ろしていた。3月初めの宵の6時半ごろだった。夕刻は、敗北者の時間だった。落ち目になった運命、みすぼらしい服装、力なく垂れた肩が気づかれずに済む時間だ。
(b)ゴオツビイ自身は、カネの心配はなかった。彼の敗北は、抽象的な野心に過ぎなかった。心が傷つき、幻滅を感じている仲間の放浪者を、観察し分類することに、彼はシニカルな喜びを味わうという気分だった。
(c)彼のベンチの側に、一人の「年配の紳士」が座っていた。彼には自尊心のわずかな痕跡らしい、力ない無関心が現れていた。彼は見捨てられたオーケストラの一員だった。やがて彼は立ち上がり、離れて行った。
(d)すると次に、一人の「青年」が座った。彼は腰を下ろすと、聞こえよがしに呪いの言葉を吐いた。ゴオツビイは「この示威運動に当然注意する」と期待されていると判断し、「どうかしましたか?」と尋ねた。
(e)青年が言った。「泊まるホテルが、どこか分からなくなったんです。ホテルの石鹸が嫌いなもので、石鹸を買いに出たんです。買った後、今度は、ホテルが分からなくなって迷っています。懐中、わずか2ペンス。カネはホテルに置いてきてしまいました。今晩泊るところなく、うろついている次第です。」
(f)青年が、カネを無心しているのは明らかだった。ゴオツビイは言った。「君の話の弱点は、買った石鹸を出して見せられないことですね。」青年は、そそくさと立ち去って行った。「彼にはああいう商売(寸借詐欺)の才がない」とゴオツビイは思った。
(g) ゴオツビイは帰ろうと立ち上がった。彼はベンチの側の地面に、包装された石鹸の包みを発見した。青年は嘘をついていなかった。彼がベンチに座った時、外套のポケットから、落ちたのだ。ゴオツビイは青年を探した。彼はしばらくして青年を発見し、彼を大声で呼んだ。
(h)「青年」は防御的敵意を示し、振り返った。ゴオツビイが言った。「君を疑ってすまなかった。君に20シリング(金貨)をご用立てしよう。お金を返してくださるは今週中ならいつでもいい。」青年は喜んで受けとり「ぼくの住所のある名刺を差し上げておきましょう」と言った。(※住所はおそらく嘘!)
(i) ゴオツビイは思った。「喜んでもらってよかった。おれも、あまり利口ぶって、状況でものを判断するものじゃない。」
(j) ゴオツビイが今来た道を引き返し先ほどのベンチの前を通りかかった。すると最初にベンチにいた「紳士」が、ベンチの下や周りを盛んに何か探していた。ゴオツビイが尋ねた。「何かおなくしになったんですか?」紳士が答えた。「ええ買ったばかりの石鹸をなくしたんです。」

《感想1》「青年」は、寸借詐欺師だった。ゴオツビイの最初の判断は正しかった。
《感想2》偶然が寸借詐欺師の青年に幸運をもたらし、ゴオツビイは不運にも20シリング(金貨)を失った。
《感想3》ゴオツビイの《思い違い》が、最初にベンチにいた「紳士」に損をもたらした。(紳士は石鹸を失った。)
《感想4》誰が悪かったか?①ゴオツビイが20シリング(金貨)、損したことについて、彼が悪かった(愚かだった)わけでない。ゴオツビイは《思い違い》をしたが状況から見て、この《思い違い》は仕方ないことだ。ゴオツビイは善意であり悪くない(愚かでない)。②「青年」は、寸借詐欺師だ。そして成功した。青年がそもそも根本的に悪い。③石鹸を無くした「紳士」は運が悪い。だがゴオツビイの《思い違い》が紳士を損させた点は、ゴオツビイが悪い。彼は紳士に賠償の義務がある。
《感想4-2》もちろん、ゴオツビイが事情を言わなければ「紳士」にわからない。しかし(a)ゴオツビイは善意の人だから、また(b)おカネは十分あるから、紳士に賠償するだろう。

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安部悦生『文化と営利』「第6章」(その3):「人間的・主体的なもの」は非合理的で、「経済学や経営学」は合理的だとの前提は誤りだ!合理性は「手段合理性」であり、いかなる価値(目的)にも仕える!

2020-08-16 13:25:40 | Weblog
※安部悦生『文化と営利 ―― 比較経営文化論』有斐閣、2019「第Ⅰ部 経営文化の理論的解明」「第6章 中川敬一郎の『文化構造』について」(81-90頁)(その3)

(4)合理性について:「非合理的な意思決定」(「人間的・主体的なもの」)が、結局において「企業の繁栄をもたらし、その国の経済発展を支えた」という事例は多い!(87-90頁)
G 中川は、結局、「人間的・主体的なもの」と「社会的・構造的なもの」(生産関係や市場構造など「経済構造」、所有関係や階級関係など「社会構造」)との関連を明らかにしようとした。
G-2 中川において「人間的・主体的なもの」は非合理的であり、「経済学や経営学」は合理的だとの前提がある。
G-3 中川は言う。「過去における経済発展」は、経済学・経営学の立場からみて「合理的な意思決定」によってもたらされたとは言えない。
G-4 「非合理的な意思決定」(「人間的・主体的なもの」)が、結局において「企業の繁栄をもたらし、その国の経済発展を支えた」という事例は多い。

(4)-2 合理性について(続):「人間的・主体的なもの」は非合理的で、「経済学や経営学」は合理的との前提は誤りだ! どちらも特定の価値・価値判断を前提しているという以上のことは言えない!合理性は「手段合理性」であり、いかなる価値(目的)にも仕える!
G-5 「非合理的な意思決定」=「人間的・主体的なもの」は「全く必然性のない単なる偶発的現象」として現れるのでなく、「特定の社会に一定の傾向をもって現れる」。
G-5-2 それが「それぞれの社会に特有な思考・行動様式」であり、「客観的なもの」として「社会的に制度化されている」。それが「文化構造」である。

(4)-2 合理性について(続々):「経済学や経営学」も、「人間的・主体的」なものも、それぞれの価値に基づいた価値判断を前提する!
H 合理性はあくまでも「手段合理性」であり、「経済学や経営学」が目的として定立するものも、「人間的・主体的」に定立される目的も、共に価値判断の領域に属する。
H-2 「経済学や経営学」の「法則」が合理的だが、「人間的・主体的」なものが非合理的とは言えない。「経済学や経営学」も、「人間的・主体的」なものも、それぞれの価値に基づいた価値判断を前提するという以上のことは言えない。

(4)-3 「資本主義《形成》の精神」から宗教的基礎付けが失われて、単なる「蓄財」という価値と合理的精神(手段合理性)のみが残った!魂なき「資本主義の精神」が残った!
I 価値判断である非合理的なプロテスタンティズムの精神(予定説や神のために働き蓄財するという思考)と、手段合理性としての合理的精神(資本主義の精神)が、相まって「資本主義《形成》の精神」となった。その後、宗教的基礎付けが失われて、単なる「蓄財」という価値と合理的精神(手段合理性)のみが残った。(※魂なき「資本主義の精神」が残った!)
I-2 安部氏によれば、儒教は宗教的基礎づけを十分持たないので、資本主義の《形成》は出来なかった。
I-3 つまり「日本における資本主義の発展は、西欧のインパクトなしに・・・・十全に展開しなかった」。

(4)-4 分析対象を「経済人」(ホモ・エコノミクス)のような「限界概念」でなく、経済や経営を行う人間の「平均概念」として、いわば「生身の人間」として理解する!
J 中川が言うように、分析対象を「経済人」(ホモ・エコノミクス)のような「限界概念」でなく、経済や経営を行う人間の「平均概念」として、いわば「生身の人間」として理解しようとすることは、妥当だ。

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