自分の考えを絶対的な「善」とみなし、それと異なる意見を聞こうとしない人。
こういうことをやっているから、韓族が軽んじられています。いまでは儒教の本家・中国よりも、さらに深刻な火病(かびょう)という病(やまい)を引き起こしてしまった韓国。〔憤怒調節の困難〕
人の話を聞かないどころか、自分と異なる意見をもつ人を差別するに及んでは、なにをか言わんや。
まるで「他人などどうでもよく、自分勝手にしゃべり続けるのが民主主義だ」とみなしているかのようです。他人の価値観などどうでもよく、自分の価値観だけが最も重要だとするのが民主主義とは・・・・・・。
「韓国人がなぜ人を差別するのか」を考える材料になりましょうか。
人を差別しておきながら、自分が差別された
こう叫ぶ「虚しいほら吹き」は、やがてきびしい「仕打ち」を覚悟しておかねばならないようです。
誰からも見向きもされないという最悪の「仕打ち」。
世の中の人が自分のホラを信じる人ばかりではない、ということです。
ほらを吹くのは上沼恵美子に任せておこうではあ~りませんか。
確かに「ほらを吹く」ことは、まったくのバカにはできないでしょうが、しかし賢い人なら避けたがるものです。
「自分の善」を絶対視し、「自分以外」を否定する人
そんな人がいるとは思えないでしょうが、驚くなかれどこにでもいるものなんですね。
そしてなぜか、そんな人が多すぎる中国・韓国。
なぜ儒教国家に「自分の善」を絶対視する人が多いのか。
なぜ「自分の善」にうぬぼれてしまうのか。視野狭窄症(しやきょうさくしょう)と何らかの関係があるのでしょうか。
それは、正しい対応策がすべて過去にあるとし、自分がそれに熟達している、あるいはそれを是(ぜ)とする社会に生きている、からでしょう。
- また初等教育で「考える訓練」を欠いている弊害かも知れません。
- そして「考える」ことを禁じるのは「先輩・師匠を上回らないこと」という儒教の根本に合致します。
かくして儒教国では
過去を崇高なものとみなし、考えることを禁じているため、時代と共に「ますますひどい」社会になりますが、韓国・中国をみていると、なるほどと納得されるかたが多いことでしょう。
「歴史は繰り返される」とはいうものの、少しずつ局面は新しくなっています。巧妙に塗り替えられた歴史の例を、大きい声で叫ぶだけでは、だめなんです。
自分なりに、最善と思われる対応策を考え続けるしかないのです。
なのに過去に閉じこもり、「考える」ことをしない儒教人たち。
常に新しい時代の難問解決策を「創造」していかねばならないのに、過去に正解があるとみて探し続け、新しい創造を否定するので、必然的に「自分の善」にうぬぼれてしまい、いつも相手を否定してしまうのでしょう。
きっと「考える」よりも「探す」ほうが、楽なんでしょうね。
いかに
自国の過去を美化し、自分がいかにそれに準拠しているかが、儒教では大切なのでした。そして自分や自国の歴史を美化するためには、どうしても粉飾が必要です。
歴史を客観的にみること能わず、歴史を直視できないのであり、でっちあげなければならなかった原因が、ここにあると言えます。
もし日本にそういう人がいたら、喜んでくださいね!
儒教では
目先は変えてもかまわないのですが、本質的な改善は禁止されています。
それは宗教と同じで、「あるレベル以上に疑惑を感じ始めると、社会秩序を破壊する」と社会が判断し、それ以上に疑惑をもつことが許されません。
これは長い間につちかわれてきた風習なので、一朝一夕に変えることなど出来ない(おゆき)、と思われます。
儒教で「ものごとの本質」を問わないのはなぜか?
そんなことをすれば「過去を葬り去る」ことになりかねず、先祖を否定することは「儒教の本質に反する」からでした。
「儒教の本質に反する」と、かならず儒教特有の「弾圧」が加わり、まさに鬼に金棒・鉄腕アトムにエネルギー・ドラえもんにどこでもドア、状態です。
不思議に思う人もいるでしょうが
- 儒教に洗脳されている人たちは、自分と異なる意見をもつ人を「なんて強情なんだろう」と思うらしく
- 儒教に洗脳されていない人たちは、異なる意見を強情とみなす人を「なんて強情なんだろう」と思います
こういう場合
「強情」は説得力のない言葉であり、「古代人に対する傾倒の深度」を問題にしたほうがいいのでしょうか。つまり
- 先祖の言動のすべてを、最重要視する
- 先祖の言動にも、いいところと悪いところがある
- 先祖の言動を、全否定する
- そもそも「先祖」を前提にするのが間違いで、それに関係なく、何が正しいかを多くの人が考えること
のどれがいいのでしょうね。
「人の話を聞こうとしない自分の強情さ」が自分で分るようになればいいのですが、それには「自分を疑う」という崇高さが求められましょう。それができて初めて、崇高のレベルに近づけるのでしょう。
中国では不思議なことに、常に前政権を否定しながら、古代中国を重視しているようです。
中国の王朝には易姓革命という結果論に従うことが多いらしく、前政権の関係者を皆殺しにして新しい政権を樹立する、という伝統があるようです。現在、習近平政権が「腐敗を使って腐敗を防止」しようとするのも、前政権の影響力をなくしたいからにほかなりません。
現代の韓国大統領が退任後に不幸な人生を過ごすのも、退任後になって初めて前任者周辺の不正を指摘できるという「法の矛盾」があると同時に、この中国の伝統に忠実に沿っているのです。
つまり前を全否定しながら2000年以上前の孔子を掘り起こして孔子学院などを設立するなど、中国では矛盾だらけ・揺れに揺れています。
尤も豹変は中国の得意とするところですが・・・・・・。
自分の強情さを棚に上げて他人を強情だとなじる、きっとこれは「民族の素質」なんでしょう!
これを「天にツバする」と言うかたがいます。
自分の考えを普遍的だと思うあまり、そのまま横に向かって他人に投影するのが正しいと考えるのが「まるで上に向かってツバをはき、自分自身にふりかかってくる」ように見えるのでしょうか(笑)。
そう、横に向かってツバをはいても、風向きによっては自分自身にふりかかってくるのでした!
これが
言う資格がないことを平気で言う
する資格がないことを平気でする
儒教国家には、なぜか「自分の欠点を相手に投影したがる」人が多いようです。
「自分の欠点を、放置し、あるいは認知できないまま、同じ欠点を相手の中に探し求めて、これを口汚く罵(ののし)る)」
まずは「自分が自分の事を知る」ほうが先でしょう。万が一「他人を先に知った」としても、普通は「自分のことに気がつくはず」なんですがねぇ。
こういった
- 儒教・共産主義の欠陥が、アジア諸国の対立を激化させ
- キリスト教とイスラム教の欠陥が、ヨーロッパの対立を激化させている
ことから、私は
- 一神教(共産主義・キリスト教・イスラム教)または儒教が「疑惑をもつことを禁止する」のに、懐疑的です。
- 宗教色を薄めることが、いかに大切か、ですね。
- EU創設時の心構えもそうだったはずです。
かつては
信仰する特定の宗教がない人を「かわいそ~」とする人が多かったものですが
これからは
信仰する特定の宗教をもつ人を「かわいそ~」と考える人が増えてくるでしょう
さてさて、皆様はどう思われますか。