都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
「ヴィルヘルム・ハンマースホイ」 国立西洋美術館
国立西洋美術館(台東区上野公園7-7)
「ヴィルヘルム・ハンマースホイ - 静かなる詩情 - 」
9/30-12/7(会期終了)

秋の上野を飾った大型展もまた一つ幕を閉じています。西洋美術館での「ヴィルヘルム・ハンマースホイ - 静かなる詩情 - 」へ行ってきました。
構成は以下の通りです。作品を単に時系列ではなく、各テーマ毎に並べることで、画家の特異性を際立たせていました。
1、ある芸術家の誕生:ハンマースホイの初期作品。主要モチーフの萌芽。
2、建築と風景:当地コペンハーゲン、またはロンドン、ローマに取材した建築風景画。
3、肖像:妻イーダをはじめとする肖像画。その後姿など。
4、人のいる室内:自宅アパートの室内画と妻。
5、誰もいない室内:扉と窓、そして光。空っぽの自室。
6、同時代のデンマーク:ハンマースホイと同時代の画家たち。ホルスーウやイルステズなど。
ともかく見るべきは、ハンマースホイの殆ど全てのモチーフとも言える妻イーダの特に後姿と、彼女を登場させての自宅アパートの室内画、もしくはセクション5にあるような「誰もいない室内」でしょう。低体温のグレーのオブラートに包まれた一連の室内風景画は、どこか清潔感があり、またサブタイトルにもあるように極めて静謐です。ただし、指摘されるオランダ室内画とは構図上の類似点こそあれども、物語性の欠如の点においては全く別物でした。彼の絵にはたとえイーダが現れようとも、モデルによる『語り』がありません。常に生活感は著しく失われているわけです。

「室内 ストランゲーゼ30番地」では、イーダの後姿を望む窓から光が差し込み、それがテーブルや床面にまで反射して、まさに塵一つないかのような、透明感のある室内空間が描かれています。そしてここで注視すべきなのは、キャプションでも言われるように、壁際で消失したピアノの脚です。ハンマースホイは室内の光景を決して「写実的」(ちらしより引用)に描いたのではなく、あくまでも自らの創作上に望むべく構図を引き寄せているようにしか思えませんが、彼の絵がどこかシュールな趣を与えているのは、このような実景に奇妙な揺らぎを与える作為的な表現にあることは間違いありません。一見、ごく普通の室内を描いたように思える「白い扉、あるいは開いた扉」を眺めた時、薄気味悪い、言い換えればあたかもお化け屋敷の中を覗きこんでいるような気分になったのは私だけでしょうか。室内が解放され、扉が開いていながらも、先に立ち入ることを拒むような不思議な空間が広がっています。思わずドアを全て閉め、その場を去りたくなるような光景でした。

ハンマースホイの作品を見ていて終始、気になるのは、妻イーダとの関係です。その肖像、「イーダ・ハンマースホイ」の一点をとってみても、少なくとも一般的な夫の妻への愛情を汲むのは困難だと言わざるをえません。あたかも死体を描いたような緑色の肌の表現は、突き詰めてしまえばモデルへの冒涜でしょう。適切ではないかもしれませんが、この画家の作品には独特の性癖が存在しています。自宅を描き続けたのに同様、妻の後姿、とりわけうなじに固執したハンマースホイは、私にはメランコリックで病的な人物に思えてなりませんでした。もちろんその個性を認めるのは言うまでもありませんが、私が率直に惹かれるのは、明るい日差しの差し込む室内にて、血の通った女性を描いた同時代のホルスーウです。ハンマースホイの描く虚空の先に、様々な人の動きや音を想像し、また『詩情』を想うことは、どうしても出来ませんでした。
ハンマースホイのグレーに見る重苦しさが、どんよりとした曇り空の日に感じる暗鬱さと重なりました。展覧会自体は非常に良く出来ていましたが、作品が心に響いてくるまでにはまだしばらく時間がかかりそうです。
展示は本日で終了しています。
「ヴィルヘルム・ハンマースホイ - 静かなる詩情 - 」
9/30-12/7(会期終了)

秋の上野を飾った大型展もまた一つ幕を閉じています。西洋美術館での「ヴィルヘルム・ハンマースホイ - 静かなる詩情 - 」へ行ってきました。
構成は以下の通りです。作品を単に時系列ではなく、各テーマ毎に並べることで、画家の特異性を際立たせていました。
1、ある芸術家の誕生:ハンマースホイの初期作品。主要モチーフの萌芽。
2、建築と風景:当地コペンハーゲン、またはロンドン、ローマに取材した建築風景画。
3、肖像:妻イーダをはじめとする肖像画。その後姿など。
4、人のいる室内:自宅アパートの室内画と妻。
5、誰もいない室内:扉と窓、そして光。空っぽの自室。
6、同時代のデンマーク:ハンマースホイと同時代の画家たち。ホルスーウやイルステズなど。
ともかく見るべきは、ハンマースホイの殆ど全てのモチーフとも言える妻イーダの特に後姿と、彼女を登場させての自宅アパートの室内画、もしくはセクション5にあるような「誰もいない室内」でしょう。低体温のグレーのオブラートに包まれた一連の室内風景画は、どこか清潔感があり、またサブタイトルにもあるように極めて静謐です。ただし、指摘されるオランダ室内画とは構図上の類似点こそあれども、物語性の欠如の点においては全く別物でした。彼の絵にはたとえイーダが現れようとも、モデルによる『語り』がありません。常に生活感は著しく失われているわけです。


「室内 ストランゲーゼ30番地」では、イーダの後姿を望む窓から光が差し込み、それがテーブルや床面にまで反射して、まさに塵一つないかのような、透明感のある室内空間が描かれています。そしてここで注視すべきなのは、キャプションでも言われるように、壁際で消失したピアノの脚です。ハンマースホイは室内の光景を決して「写実的」(ちらしより引用)に描いたのではなく、あくまでも自らの創作上に望むべく構図を引き寄せているようにしか思えませんが、彼の絵がどこかシュールな趣を与えているのは、このような実景に奇妙な揺らぎを与える作為的な表現にあることは間違いありません。一見、ごく普通の室内を描いたように思える「白い扉、あるいは開いた扉」を眺めた時、薄気味悪い、言い換えればあたかもお化け屋敷の中を覗きこんでいるような気分になったのは私だけでしょうか。室内が解放され、扉が開いていながらも、先に立ち入ることを拒むような不思議な空間が広がっています。思わずドアを全て閉め、その場を去りたくなるような光景でした。

ハンマースホイの作品を見ていて終始、気になるのは、妻イーダとの関係です。その肖像、「イーダ・ハンマースホイ」の一点をとってみても、少なくとも一般的な夫の妻への愛情を汲むのは困難だと言わざるをえません。あたかも死体を描いたような緑色の肌の表現は、突き詰めてしまえばモデルへの冒涜でしょう。適切ではないかもしれませんが、この画家の作品には独特の性癖が存在しています。自宅を描き続けたのに同様、妻の後姿、とりわけうなじに固執したハンマースホイは、私にはメランコリックで病的な人物に思えてなりませんでした。もちろんその個性を認めるのは言うまでもありませんが、私が率直に惹かれるのは、明るい日差しの差し込む室内にて、血の通った女性を描いた同時代のホルスーウです。ハンマースホイの描く虚空の先に、様々な人の動きや音を想像し、また『詩情』を想うことは、どうしても出来ませんでした。
ハンマースホイのグレーに見る重苦しさが、どんよりとした曇り空の日に感じる暗鬱さと重なりました。展覧会自体は非常に良く出来ていましたが、作品が心に響いてくるまでにはまだしばらく時間がかかりそうです。
展示は本日で終了しています。
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