連日必死に新聞などを追っているけれど、事態の収拾はまだ見えてきません。
今日の報道でEUのソラナ共通外交・安全保障上級代表が近く中東に赴き、各国指導者と話し合うというのを読み、なんとか事態の終結を願うのみです。
今回の件は、まずデンマーク及びヨーロッパに溜っていたムスリムの移民や9.11以降のアラブ社会への鬱積がここにきて感情的に出てきてしまったということがあると思う。もちろん言論の自由(自己検閲への危機感)という名目も健在である意味正当であるけれども、もともとのベースにこういった鬱憤があったのでしょう。
同時にアラブ側からはアメリカを中心とする民主主義の西洋文化の押し付けに対する反発、彼らの信念や心情を踏みにじるような度重なる行為への怒りなどがあったと思います。彼らは彼らの独自の流儀があり、考え方があり、宗教があるのです。
アラブ社会を批判したい部分もあるけれど、私は同時に昔の日本と現在のアラブを重ねて見てしまう。第二次世界大戦当時の日本は国際社会から孤立し、国内外との対話につまづき、出口を求めて戦争に突入したという見方を私はしているのだけど、そのころの日本は天皇を崇拝し、天皇の写真や肖像画にお尻を向けてはいけず、ひたすらに国家を信じ結束し、アメリカやイギリスなどの敵国をひたすらに憎むという構図ができていた。
後日、西洋からはこれをあほな行為、狂信的なおろかな人々と評価されたけど、もし私が昭和10年代に生まれていたらおそらく日本を守るんだ、私達の民族を守るんだという信念を持っていただろう。銃後を守りすべてを耐え忍び、天皇のすばらしい国家をまっとうするのだと考えていただろう。
そういう文化的背景を持つ私には、単にアラブの人々を責めることはできない。日本人の苦しさゆえにすがる信念と、アラブの自由のなさや独裁政治や誤解を恐れずに言えば死の恐怖と隣りあわせで生きている人たちの信念とは、どこか似たものを感じてしまう。
対してデンマークは信仰のほとんどない国である。プロテスタント系ルター派が主に占めるとはいえ、彼らの多くは教会に行かず、神を信じていない。
そのデンマークが言論の自由、表現の自由を持って、他者の宗教を軽んじていたのではなかったか。その自由が通用する社会の中ではよいが、しない社会への想像力や本当のリスペクトが足りなかったのではないか。
今日の朝日新聞で、3年前にユランズ・ポステン紙がキリストの風刺画の掲載を拒否した事実があったとの報道があった。もしこれが真実であれば、言論の自由と宗教への冒涜は別の次元のものだという理解はユランズ・ポステン紙にもあったのではないかと思う。であれば今回のムハンメド風刺画の掲載は明らかに言論の自由を主張したものではなく、アラブ社会への挑発としか取れない。
こういった中で先に書いたEU上級代表の中東指導者との対話や、イスラム圏でのレバノンのシニョーラ首相やシリアのスンニ派最高権威ハスーン師などの暴力への遺憾の意を表したことに、事態収拾への希望を持っている。
同化することは互いにできないけれど、対話して対話して、そして我慢をして何とか共存していく道を両者で見出してもらいたいと思う。
日本として仲立ちができるようなよい政治家がいればと思うが、このへんは腰砕けの日本、どっちつかずのコメントを出してあとは傍観を決め込む、かな?
今日の報道でEUのソラナ共通外交・安全保障上級代表が近く中東に赴き、各国指導者と話し合うというのを読み、なんとか事態の終結を願うのみです。
今回の件は、まずデンマーク及びヨーロッパに溜っていたムスリムの移民や9.11以降のアラブ社会への鬱積がここにきて感情的に出てきてしまったということがあると思う。もちろん言論の自由(自己検閲への危機感)という名目も健在である意味正当であるけれども、もともとのベースにこういった鬱憤があったのでしょう。
同時にアラブ側からはアメリカを中心とする民主主義の西洋文化の押し付けに対する反発、彼らの信念や心情を踏みにじるような度重なる行為への怒りなどがあったと思います。彼らは彼らの独自の流儀があり、考え方があり、宗教があるのです。
アラブ社会を批判したい部分もあるけれど、私は同時に昔の日本と現在のアラブを重ねて見てしまう。第二次世界大戦当時の日本は国際社会から孤立し、国内外との対話につまづき、出口を求めて戦争に突入したという見方を私はしているのだけど、そのころの日本は天皇を崇拝し、天皇の写真や肖像画にお尻を向けてはいけず、ひたすらに国家を信じ結束し、アメリカやイギリスなどの敵国をひたすらに憎むという構図ができていた。
後日、西洋からはこれをあほな行為、狂信的なおろかな人々と評価されたけど、もし私が昭和10年代に生まれていたらおそらく日本を守るんだ、私達の民族を守るんだという信念を持っていただろう。銃後を守りすべてを耐え忍び、天皇のすばらしい国家をまっとうするのだと考えていただろう。
そういう文化的背景を持つ私には、単にアラブの人々を責めることはできない。日本人の苦しさゆえにすがる信念と、アラブの自由のなさや独裁政治や誤解を恐れずに言えば死の恐怖と隣りあわせで生きている人たちの信念とは、どこか似たものを感じてしまう。
対してデンマークは信仰のほとんどない国である。プロテスタント系ルター派が主に占めるとはいえ、彼らの多くは教会に行かず、神を信じていない。
そのデンマークが言論の自由、表現の自由を持って、他者の宗教を軽んじていたのではなかったか。その自由が通用する社会の中ではよいが、しない社会への想像力や本当のリスペクトが足りなかったのではないか。
今日の朝日新聞で、3年前にユランズ・ポステン紙がキリストの風刺画の掲載を拒否した事実があったとの報道があった。もしこれが真実であれば、言論の自由と宗教への冒涜は別の次元のものだという理解はユランズ・ポステン紙にもあったのではないかと思う。であれば今回のムハンメド風刺画の掲載は明らかに言論の自由を主張したものではなく、アラブ社会への挑発としか取れない。
こういった中で先に書いたEU上級代表の中東指導者との対話や、イスラム圏でのレバノンのシニョーラ首相やシリアのスンニ派最高権威ハスーン師などの暴力への遺憾の意を表したことに、事態収拾への希望を持っている。
同化することは互いにできないけれど、対話して対話して、そして我慢をして何とか共存していく道を両者で見出してもらいたいと思う。
日本として仲立ちができるようなよい政治家がいればと思うが、このへんは腰砕けの日本、どっちつかずのコメントを出してあとは傍観を決め込む、かな?