最近参加し始めたある研究会で、私は初めて研究者という人たちの世界を垣間見て(内容は難しすぎて理解できないのですが)、実は新しい発見にわくわくしています。これまでの私の出会った会社員とはかなり違う、研究者、教授という人たちは私にとってちょっとしたカルチャーショックです。例えば、先輩の研究者に対するやや否定的な質問や訂正を行うときの、彼らの話法は非常に上手です。会社内でもそういった意見を言うときのテクニックのようなものはありますが、研究者たちのそれはなんと高度なことでしょうか。このあたりに彼らはやはり頭脳明晰な人たちなのだと驚嘆してしまいます。また、彼らは質問によって相手を追い詰めていくことも上手です。決して相手の意見を否定しないのですが、質問によって相手の守備をがたがたに崩していくあたりは、まさに家庭内においても見習わなくてはと思ってしまうところです。
そんな彼らはそれぞれの研究においては、ものすごく、ものすごく深く研究されていて、さすが学者だなあと私などは感心して眺めているばかりです。区切られたある範囲をとことん深く掘り下げ、同時にあらゆる角度からも見ています。そこで私の頭にいつも浮かぶのは、この人は何のためにこんなに深く研究しているんだろう?という疑問です。恐らく彼らに教室の中で出会えば、彼らのその専門の学問に対する情熱が「伝えよう」とする気持ちとともに表れていると思います。事実、教室の中ではしばしば先生方の熱い思いに触れて、感動することがあります。しかし、こういう研究会の中は事情が違い、発表をし、それを立証することが重要です。学生相手に熱い思いを語る状況とはかなり違うわけです。
さて、こういったことをこんなに深く研究しているからには何かご自分なりのミッションがあるのだろう、と思うのですが、それが何となく想像できる研究者と、全く不明の研究者がいます。そして後者の場合、なぜゆえに、こんなに深く研究し、何をしようとしているのかなあと私はひたすら不思議に思ってしまいます。きっと、私などには簡単には見えてこないところでおありなのだとは思うのですが・・・。
そして、昨日の朝食のテーブル。先日、シャッター部分の修理を終えて、カナダから戻ってきたばかりのライカが、どんなにすばらしいカメラかを食卓で褒めたたえる夫に、ふとその後者の「ミッションが不明の研究者」の姿が重なりました。「ねえ、それでライカはいいんだけど、そんなにたくさん写真を撮って、時間とお金を使ってそれで一体どうしようっていうの?その写真、何の役に立つわけ?限られた時間とお金でしょう?だったらそれだけの何かに役立つという価値がないと、って思わない?」「そうなんだよ、それが問題なんだよ。」それはまさに夫の悩みでもあったのでした。
趣味で何かを集めたり、何かに没頭することはそれだけで自己満足でき、楽しいことと思います。人生すべてきっちりと役立つことしかしてはいけない、なんてことは全くなく、好きなようにしていいのだと思います。でも自分のしていることがどこかで何かの役に立つとか、何か意味のあることをしていると思いたいのも、普通、自然なことだと思います。ミッションが先でなくてもいいけれど、自分の楽しいことが何かの役に立つかな?と人は探すようになるのではないでしょうか。
夫は今、狭い世界ながらも写真をデンマークの家族に送るということでは「非常に意味がある」と満足していますが、もう少し何かないか、探しているようです。研究者の研究と比べれば規模も重要度も雲泥の差ですが、夫の写真のミッションはどこに・・・???(うーん、ちょっとないかな?)
そんな彼らはそれぞれの研究においては、ものすごく、ものすごく深く研究されていて、さすが学者だなあと私などは感心して眺めているばかりです。区切られたある範囲をとことん深く掘り下げ、同時にあらゆる角度からも見ています。そこで私の頭にいつも浮かぶのは、この人は何のためにこんなに深く研究しているんだろう?という疑問です。恐らく彼らに教室の中で出会えば、彼らのその専門の学問に対する情熱が「伝えよう」とする気持ちとともに表れていると思います。事実、教室の中ではしばしば先生方の熱い思いに触れて、感動することがあります。しかし、こういう研究会の中は事情が違い、発表をし、それを立証することが重要です。学生相手に熱い思いを語る状況とはかなり違うわけです。
さて、こういったことをこんなに深く研究しているからには何かご自分なりのミッションがあるのだろう、と思うのですが、それが何となく想像できる研究者と、全く不明の研究者がいます。そして後者の場合、なぜゆえに、こんなに深く研究し、何をしようとしているのかなあと私はひたすら不思議に思ってしまいます。きっと、私などには簡単には見えてこないところでおありなのだとは思うのですが・・・。
そして、昨日の朝食のテーブル。先日、シャッター部分の修理を終えて、カナダから戻ってきたばかりのライカが、どんなにすばらしいカメラかを食卓で褒めたたえる夫に、ふとその後者の「ミッションが不明の研究者」の姿が重なりました。「ねえ、それでライカはいいんだけど、そんなにたくさん写真を撮って、時間とお金を使ってそれで一体どうしようっていうの?その写真、何の役に立つわけ?限られた時間とお金でしょう?だったらそれだけの何かに役立つという価値がないと、って思わない?」「そうなんだよ、それが問題なんだよ。」それはまさに夫の悩みでもあったのでした。
趣味で何かを集めたり、何かに没頭することはそれだけで自己満足でき、楽しいことと思います。人生すべてきっちりと役立つことしかしてはいけない、なんてことは全くなく、好きなようにしていいのだと思います。でも自分のしていることがどこかで何かの役に立つとか、何か意味のあることをしていると思いたいのも、普通、自然なことだと思います。ミッションが先でなくてもいいけれど、自分の楽しいことが何かの役に立つかな?と人は探すようになるのではないでしょうか。
夫は今、狭い世界ながらも写真をデンマークの家族に送るということでは「非常に意味がある」と満足していますが、もう少し何かないか、探しているようです。研究者の研究と比べれば規模も重要度も雲泥の差ですが、夫の写真のミッションはどこに・・・???(うーん、ちょっとないかな?)