このころ、花口麻希はよく悪夢を見た。
目の前にあるベッドの上に大内が寝ている。自分はそれを見ている。すると、病院で東海村の臨界事故と同じような事故が起きる。自分も大内と同じようにどんどん皮膚の状態が悪くなっていく。苦しくてたまらない。なのに、大内と同じような症状の患者がどんどん病院に運ばれてくる。運ばれてくる患者のケアをしなくてはいけない。自分も症状に苦しみながら、ケアに追われつづける。
そんな夢だった。
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前川のもう一つの支えとなっていたのは大内の家族だった。
前川は毎日、家族に病状を説明し続けていた。被曝して50日が過ぎた大内の状態を、前川は「言葉で語るには軽すぎるとしか言いようがない姿でした」と表現する。
「それでもご家族の方々には真実を受け入れてほしいと思い、毎日きれい事ではない状況を伝えました。ご家族は一度もあきらめの気持ちを見せませんでした。つねに希望を持たれていたと思います。」
家族は毎日のように面会に訪れていた。面会時間は午後一時から三時までと午後五時から八時までだった。妻と両親、それに妹夫婦の誰かが必ず来ていた。
柴田直美はその頃のことをよく覚えている。家族がガウンとマスクを付けて病室に入ってくると、柴田は「あそこの部分がちょっとだけよくなったんですよ」と話しかけた。悪化する一方の病状の中で、少しでも「よくなった」と言える部分を見つけようと必死だった。
大内は全身をガーゼで覆われ、外から見える体の部分は足の先だけだった。妻は言葉を語れない大内の傍に寄り添って、手を触ったり、包帯から出ている足先を触ったりしていた。時々笑いながら語りかけていた。看護婦の誰ひとりとして大内の前で泣く妻の姿を見た事がなかった。
父親は「久、来たぞ」と語りかけ、泣いた。
毎日毎日、名前をやさしくよび、包帯とガーゼで覆われた顔を見つめていた。かたわらには母親が寄り添っていた。
その姿を見ながら、花口は励ましの言葉をかけつづける親の心を思った。自分の子供が、突然の事故で、悲惨な状態になっている。名前をやさしくよびかけながら、それまでの色々な事を思い出しているのだろうか。自分が親だったら何と声をかけられるだろうか。
年の暮れが迫っていた。世の中は、新たは千年紀を迎えるムードで盛り上がっていた。
家族は大内に、「2000年を迎えようね」と語りかけた。妻も両親も自らを励ます為にそう言っていたのではないかと、看護婦たちは思った。
治療が始まって二カ月がたとうとしていた。
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大内さんの痛々しい臓器の状態から、ああ、大内さんは一生懸命生きてきたんだな、本当にがんばってきたんだな、と感じました。
そのなかで、一つ鮮やかに残っていた心臓からは「生き続けたい」という大内さんのメッセージを聞いた気がしました。心臓は、大内さんの「生きたい」という意志のおかげで、放射能による変化を受けずに動き続けてこられたのではないかという気さえしました。
もう一つ、大内さんが訴えていたような気がしたことがあります。
それは放射線が目に見えない、匂いもない、普段、多くの人が危険だとは実感していないということです。
そういうものの為に、自分はこんなになっちゃったよ、なんでこんなに変わらなければならないの、若いのになぜ死んでいかなければならないの、みんなに考えてほしいよ。
心臓を見ながら、大内さんがそう訴えているとしか思えませんでした。」