しかし、私は気づいてもいた。黒ぬりの会社の車がゆっくりと通りすぎながら偵察をしたのを、守衛たちが頻繁に工場の奥へ入って行っては、作業衣の男たちとやり取りするのを。私は不安だった。
突然、労働者の一群がある建物のかげから守衛室に集中攻撃をかけた。私は守衛室に向かって走った。妻のことを思ってだった。取材など頭になかった。暴徒はわれわれを守衛室に押し込んだ。ひとりが吠えるように命令する。彼は帝国陸軍の軍曹だったに違いないと思った(これは正しかった)。
3分以内にここから退去せよーしかしどの出口もふさがれているのだ。
「川本さんに3時の電話を受けさせないつもりだわ!」とアイリーンが私に叫ぶ。
攻撃開始。最初にやられたもののうちわたしはもっともひどくなぐられた。いや、たぶん私のカメラはもっとひどくやられた。最後の一枚は、出来の悪い手ぶれだが、左の男はその瞬間私の股ぐらを蹴りおえ、カメラを取ろうと手を伸ばしているところ。右の男は私の腹をねらっている。4人の男が私の手足を取って、ひっくり返った椅子の足の上を引きずり、別の6人の手に渡し、今度は私の頭は外のコンクリートにたたきつけられた。ガラガラ蛇の尾をもって叩きつけ殺すあのやり方だ。そしてゲートの外にほうりだされた。
目がくらみ、私はふらふらしながら起きあがる、殺してやりたいほど怒りに震えながら。ガラガラを閉まるゲートの向こうに暴徒は腕組みをして立ち、笑っていた。
チッソに仕組まれたのだー連中は、まったく、はじめから患者たちを脅かし、例の外人ジャーナリストをかわいがってやろうというつもりだったのだ。まちがいない、3時の電話などはじめからなかったのだ。
しかし連中は誤りを犯した。著名なアメリカ人ジャーナリストをなぐったことで、チッソに対する不評がなだれのように押しよせ、川本輝夫や水俣の正義の高潔さをきわだたせるばかりであった。もしこれがチッソの本性なら、と人びとは言うのだった。正しいのはたぶん患者のほうだ。私は傷の痛みに苦しまねばならなくても、患者への国中の共感が増したという事実がなぐさめだった。
事件ののちチッソは即座に声明文をだした。つまり、ユージン・スミスはヒステリックになり自らを傷つけたと。実際の殴打よりもこのことのほうに私は腹を立てた。私たちは襲撃者たちとの公開討論会を要求し、また声明の取り消しを要求した。数回の会見で、チッソは、「遺憾」であるとの声明を出してもいい、あなたがたが警察に訴えないならば、責任は認めませんが医療費は払いましょう、と提案した。うそを公式に訂正してほしい、と私は言った。彼らは個人の財産―私の名誉―を破損したのだ。もしほんとのことを言えば彼らに不利に利用される、とチッソの代理人は私にこっそり言うのだった。私は言った、「あたりまえだ。」
彼らは何も撤回せず、何も認めなかった。会社のやり口のおかげで、私は、患者たちが長年苦しみに耐えて来た、やりきれなさをまのあたりにしたのだ。
私は告訴はしないことにした。原告とジャーナリストの両方ともをまっとうすることは無理だから。
写真集 水俣 MINAMATA W.ユージン・スミス、アイリーン・M.スミス