goo blog サービス終了のお知らせ 

孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

「世界遺産」なんてどうでもいいが・・

2016年11月06日 | 趣味の世界
車内で仮眠を取っただけで帰路についたので、ほとんど日帰りドライブだったのだが、とにかく新東名高速~東海北陸自動車道を経由して、越中五箇山合掌集落まで行ってきた。

中でも行きたかったのは、五箇山IC近くにある菅沼合掌集落にできた「塩硝の館」という、16世紀後半から五箇山集落が製造基地となった塩硝(硝石)作りの資料館を見学するのが目的であった。

  塩硝の館



以前から、白川郷の合掌造り集落を訪れてみたいと思っていたが、1995年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されて以降、連日観光客が押し寄せていることをニュースなどで知り、急激に動機が薄れてきていた。

私は、何度かブログのネタにもしてきたが、ユネスコ世界遺産とか、ミシュランとかいう外国のお墨付きなど大嫌いで、地元の富士山なども世界文化遺産登録が抹消されればいいと思っている、不埒者である。

ユネスコの世界文化遺産登録も、「白川郷・五箇山の合掌造り集落」という名称で登録されていたなどとは、露知らずであった。

  五箇山・相倉集落


菅沼集落は、庄川沿いにあるわずか12棟の集落で、そのうち9棟のみが合掌造り家屋である。江戸時代から、和紙作り、養蚕、そして塩硝作りが主な産業で、このうち私がもっとも関心があったのは、和紙でもなく、合掌造りの家屋でもなく、火薬の原料である「塩硝(硝石)作り」のみであった。

  心休まる風景だ

何かで読んだ記憶があった。「合掌造り」の家屋は大家族であり、人糞の量が多い。これが塩硝作りに必要な材料の供給に合致して、五箇山・白川地区での主な産業になった、という内容。

たったこれだけの情報しかなかったところに、最近見た、とある youtube の動画で、1543年種子島に伝わった2丁の鉄砲を、当時の藩主は今のお金で一丁5000万円払って買い取ったと知り、俄然その後の歴史に興味が湧いてきたのだった。


真っ先に向かった「塩硝の館」はこじんまりした藁葺きの建物で、入口で300円を払ってスリッパに履き替え中に入った。

その時、訪問者は私以外に若い女性が3名で、意外に少なかったが、集落の来訪者はほとんどが高齢者の集団で、多分「塩硝」のことなど関心が無かったのだろう。300円払ってまで中に入ろうとする人は拍子抜けするほど少なかった。

  塩硝の館、入り口

中に入ると、入口の切符売りの老女が、私たち4名のために、展示品を解説しようと近づいてきた。

塩硝とは硝石(硝酸カリ)のことで、黒色火薬の原料であること。他に硫黄と炭の粉末で火薬が作られること。年貢米の代わりに塩硝を収めていたこと。

五箇山の塩硝は、囲炉裏のまわりに深さ2mくらいの穴を掘って、そば殻や麻などを干したもの、蚕の糞、土などを何層にも重ねて積んでいき、途中何度か切り返しをしながら4~5年発酵させて作ると説明してくれた。

 風情ある囲炉裏

私が、「何かで読んだんですけど、合掌造りの家屋は大家族で、糞尿が大量に確保できるので、塩硝の生産基地になったそうですね。」と聞くと、その老女は俄かに、「五箇山ではそれは使いませんでした。」と否定した。

私は、その断定の仕方にどうも胡散臭さを感じた。老女はいかにもインテリ風で、何となく以前は中学か高校の社会化の教師でもやっていた雰囲気の方だった。しかも、バリバリの日教組メンバーという雰囲気を漂わせていた。

ともあれ、彼女は解説を続けてくれた。

掘っては切り替えして空気に触れさせ、また埋めては発酵させるのだそうで、4~5年後に「塩硝土」に水をかけてその水溶液を釜で煮詰める、さらに草木の灰を入れてろ過して、これを繰り返してしだいに結晶化していくのだそうだ。

私は、「そういう作り方はどこから習ったんですか?」と疑問を感じたままに質問すると、彼女は即座に、「それは当時の農家の方が考えたんです。」と答えた。

思わず私は、「そんな馬鹿な・・・! 硝石の需要が生じたからどこかから習ったんじゃないんですか?」と少し大きな声を出してしまった。

その声に驚いたのか、一緒にいた女性三名は先の展示を見に先へ行ってしまった。同時に新たな訪問者達が入ってきたようで、解説者の老女は入口に戻っていった。

かすかな私の記憶で、中世のフランスなどでは家にトイレがなく、カメや大きめの瓶に排泄物を入れておき、一杯になったら二階の窓から下の石畳の道路に投げ捨てていた。

そのアンモニアが石の間で硝石に結晶化した、と何かで読んだ事があったので、人の排泄物は必須材料のような先入観があったのだった。

私の受けた印象は、この合掌造りの集落は「世界遺産」のブランドを得たことで、何となく気取り始めて、その文化を美化しようとする意識が芽生え、嫌な印象を来訪者に感じさせないようにするところがあるのでは・・というものだった。

村人の英知を過大評価しているような点や、塩硝造りに人の排泄物など用いなかったと断定する態度などに、私は「世界遺産効果」を感じ取ったのだった。

それにしても、なぜここが火薬に欠かせない硝石の生産基地になったのか。その利益は加賀藩を潤し、「加賀百万石」の源泉になったという。

なぜ、北陸の加賀藩だったのか。

鉄砲と同時に硝石の製造法は伝来されなかったのか。

ヨーロッパではどうやって硝石を確保していたのか。

疑問は次々に湧いてきた。

そして、調べていくと様々なことが新たに分かってきた。フィリピンに赴任していた時に見た、マニラ市内にあったキリシタン大名の高山右近の像。あの目を背けたくなるほどの落書きだらけで汚くなっていたマニラで病死した高山右近の石像も一連の硝石の歴史に関わってきたのだった。

以下は引き続きブログに綴っていきたい。







行って来ました、五箇山へ

2016年11月05日 | 趣味の世界
1543年に鉄砲が種子島に伝わった話から、鉄砲に欠かせない火薬を仕入れるために、一樽30人の日本の娘さん達が奴隷として外国に売られていたこと、その火薬に欠かせない硝石が貴重な材料であること。

中世ヨーロッパの石畳の下には、結晶化した硝石が存在していたこと。その訳は、当時はトイレが無く、窓から道路に糞や尿を投げ捨てていたため、石畳の間から染み込んだアンモニアが長い年月をかけて硝石の原料に変化していたこと。

日本も硝石を自給する必要性が生じ、密かに隠れ里で硝石の製造が進められることになったこと。その背景には、浄土真宗(一向宗)勢力があり、密かに布教と硝石製造が重なって、越中五箇山の里が硝石の生産基地に発展していったこと。



それがやがて、加賀藩に莫大な利益をもたらし、加賀百万石の礎になったこと。

たった二丁の鉄砲が、60年足らずの間に5万丁にも増え(関が原の戦い)、当時の世界でも際立った武器国家を成り立たせていた、その原料供給基地が、越中富山と岐阜県の県境に存在していたことは、学校の歴史の先生は一言も教えてくれなかった。

そこで、一日休みを取って、早朝5時に家を出発。

家の近くの新東名高速のインターチェンジから富山県に向かったのだった。

  五箇山菅沼集落

  五箇山相倉集落

帰りの車中では、行ってみて新たに分かったことがいくつかあり、私の頭の中はクルクル時空を駆け巡り、五箇山のすぐ近くにある白川郷などどうでもよくなって通り過ぎてしまい、帰りがけに郡上八幡あたりにも立ち寄ろうかと考えていたが、それも取りやめ。

さらにネットで調べたいことが山積してきたため、家路に直行したのであった。

その話は、明日以降に・・・。

懐かしい、名画 「Stand by me」

2016年10月30日 | 趣味の世界
偶然めぐり合ったスターチャンネルの無料放送で、懐かしい名画に見入ってしまった。

独特の怖さが持ち味の、スティーヴン・キング原作の「THE BODY」で、4人の少年達が偶然知ってしまった死体の存在をもとに、「死体さがし」の遠足に出かけるというストーリーなのだが、12歳くらいの少年達の奔放な行動と会話と共に、オレゴン州の自然が印象に残る映画だった。

   主題歌もいい!

30年くらい前の映画だと思うが、初めて映画館で観てからも、レンタルショップでVHSやDVDを借りて何度か観ていると思う。そして、その都度最後まで飽きることなく観てしまう映画であった。

アメリカの田舎町の少年達の様子がわかって興味深かった。

自分の少年時代にも近所の同世代のガキどもと、茶畑の中に「隠れ家」を作って農家のおばさんに大目玉を喰らったり、夏休みに墓地で「肝試し」をやって、竹の先にボロきれを丸めてぶら下げ、灯油を湿らせて火をつけ、火の玉のようにぶら下げていたのを住職に見つかり、こってりと油をしぼられたりしたことを思い出すきっかけになる映画だ。

少年達は、線路伝いに「死体さがし」に出かけるのだが、途中で鉄橋を歩いて渡っていると後ろから列車がやってきて、危うく大事故になるシーンがあったりして面白い。

 豊かな自然はうらやましい


私が好きなカットは、主人公の少年が早朝線路に腰掛けて漫画を読んでいる時、目の前に現れた鹿と見つめ合う場面だ。ほんの短いカットだったが、清々しいシーンだった。

  最も好きなカット


4人組たちの兄貴にあたる年代の不良グループの存在もあって、物語は進んでいくのだが、少年達が彼らの会話を盗み聞きした「死体」を見つけてから映画はクライマックスに入っていく。

  お目当ての「死体」を発見


夏休みが終わって学校が始り、やがて卒業しみんなそれぞれの道に進んでいく。主人公の親友だったクリスは猛勉強の末、弁護士になって故郷に戻ってくるのだが、ふとした喧嘩の仲裁に入った時に、喉を刺されて即死したのだった。

その記事を新聞で見た主人公のクリス。あの頃のような友達はその後二度とできる事は無かったと、感じ入るのだった。

私が思い出す子供時代の友人の一人に、町医者の息子がいた。中学になって彼は、県庁所在地にある親戚の家に預かってもらい、そこから医者になるべく進学校に進んだのだった。

それ以来何年も会わなくなり、やがて彼はお父さんの後を継ぎ、町医者になった。私は私で、ほとんど実家にはいなくて、会うことが無かった。

何年か前、彼が脳出血か何かで他界したと聞いて驚いた。小学校のとき別れ別れになったっきり、会うことは叶わなかった。

当時の思い出だけは、消え去ることはなく、今でも鮮明に残っている。


6年前の youtube

2016年10月30日 | 趣味の世界
最近はほとんど一緒に旅行をすることがなくなったが、6~7年前まではよくカミさんとバスツアーに参加して九州やら北海道や近畿、信州などへ旅したものだ。

しかし、私はどうもバスツアーというものが肌に合わないのだ。どうでもいい土産屋で降ろされ20分、30分と時間を費やしたかとおもうと、ここはもう少しいたいと思うところでは、ただ記念撮影するだけで終わったりする。

訪れる場所は多いのだが、家に帰ると思い出などほとんど残っていないのに気付く。九州知覧の特攻記念館にいったときなど、半日位いたいと思ったのだが、そこでは一時間だけでバスに戻された。

当時、カミさんはお母さんの影響で、御朱印帳というものを買い求め、行く先の神社仏閣ごとに、300~500円払っては記帳してもらっていた。

その御朱印帳を動画にして、youtube にアップしたのが今から6年前であった。『カミさんの御朱印帳もうすぐいっぱい』というタイトルでアップしたのだが、久しぶりに自分がアップしたその動画を観たら、なんと視聴回数が14、794回となっていたので驚いた。

  独特の字体に趣がある

本来は、神社とお寺を分けるべきのようだが、当時そんなことは知らなかった。

カミさんは今でもまだ続けているようだ。朱の色と墨の黒、独特の字体。意外と思い出になって、いい趣味であると思う。

思いたったら吉日、白川郷へ

2016年10月27日 | 趣味の世界
毎年秋になると、支那や南朝鮮は、「今年こそノーベル賞を我が国に・・」と期待が膨らむそうだが、結果を聞いた時の、その落胆度はかなりのものだそうだ。

そして、特にライバルの日本人(彼らは勝手に日本をライバル視しているだけ)が受賞すると聞くと、彼らはほとんど発狂するらしい。

子供の学力テストでは、何年も支那やシンガポールや台湾などが特に成績抜群で、日本の子供の成績は彼らには及ばないそうだが、シンガポール人や支那人が理数系の賞を受賞したとは聞かない。

恐らく、これからも出ないであろう。ペーパーテストの結果などでは、人間の想像力や発想力、独創性などは測ることはできないからだ。

新田次郎の息子さんである数学者の藤原正彦氏は、ノーベル賞(理数系)受賞者に共通するのは、周りに美しい自然があって、小さい頃からそういう環境で育んだ美的感受性が不可欠だそうだ。

私の拙い経験でもそれは感じた。つまり、四年ほど前私が赴任していたシンガポールは、その教育レベルの高さは有名で、近隣の国々からは子供の教育のために家族で移住してくることも珍しくはなかった。

私が間借りしていたお宅は、インドネシア人女性と結婚した日本人男性家族だったが、彼らもお子さん二人に高等教育を受けさせるためだけに、シンガポールに短期移住してきたのだった。小学生の子供たちは、家でも暇さえあれば勉強していたし、週に何度かは塾にも通っていた。

しかし、悲しいかな、シンガポールに「自然」と呼べる風景はない。アスファルトと高層ビル、それにわずかな街路樹だけで、私は1ヶ月で息苦しくなってきたほどだった。

さらに、赤道近くの熱帯気候で、暑いだけ。1年中、ただ暑いだけで、雨季・乾季もはっきりしない。

その点、日本には、明確な四季があり、豊富な自然が国中に溢れている。

丁度、今頃は紅葉狩りのシーズンにあたる。

「そうだ! 白川郷に行こう!」

  白川郷、遠景

前から、行きたいと思っていたが、世界遺産に登録して観光客が急増したと聞いて、行くのを長いこと躊躇していた。

  晩秋の白川郷


道路が凍結する前に行きたいので、そうなると来月早々がいい。職場には休みをもらって、自分のポンコツ愛車でのんびりドライブを楽しみたい。

なぜ、白川郷か。

それは、種子島に伝来した鉄砲の話がきっかけだった。

  一丁、5千万円相当


種子島に船が漂流して、時の領主はポルトガル人から鉄砲を二丁購入した。そのうちの一丁を分解して、翌年にはほぼ同じ物を作ってしまった、という話は学生時代に聞いた時も、かなり気分良かったものだ。

1543年に最初の鉄砲が伝わって、1600年の関が原の戦いでは、なんと5万丁の鉄砲が使われたというから、当時から日本の技術力は目を見張るものだったわけだ。

しかし、最近知ったのは、鉄砲に欠かせない当時の火薬は、日本では製造が出来なかったということだった。硝石(硝酸カリウム)が採れなかったからだった。

硝石は当初、堺港に輸入されていたのだが、やがて国産化する技術が広まり、しだいに全国に広まっていった。それは、意外にも人糞や厩肥を原料とし、発酵させて硝酸カルシウムを精製し、これを灰汁(炭酸カリウム)で煮詰め、結晶化させると硝石とした。

その製造法は秘中の秘だったようだが、どこが産地であったかというと、富山県の五箇山(ごかやま)と岐阜県の白川郷だった。

  大家族制で糞尿も多い

ともに合掌造り集落で、大家族制。つまり、大きな家に多くの家族が住み、そこから出る大量の糞尿で、火薬を製造していたそうだ。

ここで作られる「塩硝」、火薬は幕府にも献上されたが、多くは加賀藩に運ばれ、加賀百万石の源泉となったわけだ。

  煙硝の館(五箇山)


これを知った途端、私はその場に立ってみたくて、ムズムズし始めたのだった。

江戸時代は、当初火薬一樽を得るため日本人の娘50人を奴隷として売り渡していたこともあったそうだから、如何に貴重であったかが想像できる。

やがてこのことがバレて、キリシタン迫害につながっていくのだが、こういうことは学校の歴史の授業では教えてくれなかった。

ともあれ、来月早々、壮大な歴史を感じさせてくれる白川郷に行くことにしよう。

疑惑の将棋指し

2016年10月23日 | 趣味の世界
実力は10級程度と言われた事があるくらいのヘボ将棋なのだが、今でも趣味の一つだと思っているのが将棋である。

もうすぐ、若くして病死したプロ棋士を描いた、『聖(さとし)の青春』という映画が観れるというので待ち遠しいのだが、将棋界はプロ棋士がスマホを使って指し手をカンニングしていたという、疑惑のスキャンダルでザワザワしている。

  将棋棋士・村山聖を題材とした映画


プロ棋士、三浦弘行九段をめぐっては、対局中の不自然な離席を5人前後の棋士がスマホで差し手をカンニングしていたのではと指摘し、対応を求めていたと日本将棋連盟が公表した。連盟側は12日、三浦九段に年内の公式戦出場を停止する処分を下し、三浦九段がそれに反論したりと、週刊誌ネタになっている。

竜王タイトル戦に、疑惑をもたれた状態では出場できないという三浦九段に、将棋連盟側が休場届の提出を促したところ、提出されなかったため、公式戦出場停止処分としたものだった。

  疑惑の三浦弘行九段


対戦相手の渡辺明竜王(32)も、三浦九段の勝った20局のうち4局で定跡手順を外れて以降「ソフトとの一致率が90%を超える」として、その不自然さを日本将棋連盟の幹部に訴え、対応を求めていたようで、濡れ衣なのか不正をしていたのか、はっきりした証拠があるわけではなく、混沌とした雰囲気になっている。

週刊誌によると、三浦九段はネットに詳しい若手棋士にスマホを使用して、離れたところにあるパソコンを遠隔操作するアプリケーションについて聞いていたと言う事実があったようだ。

対局中に十数分も席を離れたり、一手ごとに席を立って別室に行くこともあったそうなので、その時にスマホを使用して、パソコンに搭載された将棋ソフトを遠隔操作していたのでは、という疑惑だ。

チェスではすでにかなり前からコンピューターソフトが人間に勝っているが、将棋は獲った駒を使用できるため、チェスよりも複雑でまだまだ人間には敵わないといわれてきたが、最近の将棋ソフトはかなり進歩してきた。

  人間はソフトに連敗している

油の乗り切った若手強豪も、将棋ソフトには負けるようで、その進歩は最近著しいものとなっている。当の三浦九段も将棋ソフトには敗れていた。

将棋連盟職員は、三浦九段の自宅に同行して、三浦九段の同意の下パソコンを押収し、専門家に分析を依頼することにしたのだが、スマホの提出には三浦九段が拒否したそうだ。

この際、潔癖を証明する為にはスマホも専門家に徹底的に分析してもらい、疑われた当日のスマホの使用状況を洗いざらい明らかにすべきではなかったか。

折りしも、本日の昼前のNHK教育テレビの番組、早指し将棋トーナメントに、渦中の三浦弘行九段が若手の強豪、橋本崇載八段と対戦していた。疑惑が表面化する前に録画されていたと思う。

  対局中は挙動不審だった??

私も新聞のテレビ欄で見たので、その時間はテレビで観戦していた。口をポカンと開けて上目遣いで考えていたり、キョロキョロと落ち着かない様子になったり、気のせいか挙動不審だった。

結果は、橋本八段の快勝であったが、二人の過去の対戦成績はほぼ五分五分だという。

そもそも、疑いが分かった時点で、やましいことがないのなら、スマホを専門家に洗いざらい分析してもらって、早急に疑いを科学的に晴らしておくべきだったのだが、「やってない、やってない」と言いつつ、スマホの提出を拒否するようでは、さらなる疑惑を産むだけだったと思うのである。


人気なかった女性登山家

2016年10月22日 | 趣味の世界
何年前だったか、私が富士山五合目で外国人登山客相手の登山指導のアルバイトをしたときのこと、その時の同僚達の間でなんとも評判の悪かった方が、20日に癌で他界した女性登山家、田部井淳子さん(77歳)であった。

何もなくなられた方を悪く言うつもりはないが、ニュースを見て自然に当時のことを思い出してしまった。

  登山家、田部井淳子さん、77歳

ニュースによると、『田部井さんは山岳環境の保護団体の代表を務めるなど、環境保護の大切さを訴える活動にも取り組んできたほか、本の執筆やテレビ出演などを通じて山登りの魅力を伝え続け・・』たそうだ。

しかし、当時我々が目にした田部井さんは、数十人の高齢者登山客を率いて富士登山をするために富士宮口の五合目にいた。

高齢者の方たちは、みな素人の方たちのようで、それは服装や真新しい登山靴を見れば一目瞭然であった。私は疎かったのだが、当時一緒にいた同僚達の一人が、あれはエベレストに女性で初めて登頂した、田部井淳子だよ、と教えてくれたのだった。

次の日だったと思うが、富士登山を終えて下山してきた田部井さん一行は、五合目にある展望広場に集合して、田部井さんは一行に向かって何かを話していた。

その時、同僚がその話を横で聞いてきて、我々に教えてくれた。彼によると、田部井さん御一行は、どうも通販会社の顧客達のようで、田部井さんはその通販会社が企画した高齢者達の富士登山をガイドするとともに、その通販会社が扱う登山用具や登山ウエアの販売促進に一役買っているようだった。

盛んに通販で扱う登山用品購入を高齢者達に勧めていたようだった。

その後、御一行は現地解散となったようで、高齢者達はゾロゾロとシャトルバスの発着所の方に歩いていった。

そして、ガイドした田部井さんは、多分通販会社の女性だろうが、その女性について五合目登山口のすぐ近くに駐車してあった車に向かい、下山していったのだった。

その光景をぼんやりと眺めていた私は、「おやっ?」と思ったのだが、隣にいた同僚もそう感じたようで、「ガイドさんはお勤めを終えたら、お迎えの車でご帰宅なんね。」と呟いた。

別の同僚は、「以前、彼女と山小屋で一緒になったことがあり、みんなで彼女の話を聞いたことがあるけど、自慢話ばっかりだったよ。」と笑っていた。

以来、このことが先入観となって、私の彼女に対する印象は、あまりいいものではなくなっていた。

強靭な体力と精神力を持ち合わせていた女性登山家も、癌細胞にはかなわなかったようで、どうも病院のベッドで息を引き取られたようだ。

ともあれ、ご冥福をお祈りします。




日本語にない概念

2016年09月26日 | 趣味の世界
今日、廻ってきた調査報告書を読んでいると、「サージ電圧」という言葉があった。

電気関連の基礎知識はほとんど無い私でも、インターネットという文明の利器があるので、こういうときは慌てずにチャチャッと検索すれば、その意味は分かるし、英語でどういうかも簡単に調べられる。

[ surge ] という言葉は、辞書で調べると次のような解説がある。

【自動】
波となって打ち寄せる、波打つ、沸き上がる、揺らぐ
急上昇する、急騰する、急増する、急伸する、大きく勢力を伸ばす◆【類】swell ; grow rapidly、殺到する文例文例
【他動】
~を波立たせる
【名】
急に高まること、急上昇、急増、急騰文例
電圧変化、電圧の急激な変化、サージ電圧、サージ電流文例
躍進、活性化
沸騰、殺到
感情の高まり、動揺、怒とう
大波、うねり、高潮、波動
〔兵力の〕増派

つまり、「サージ電圧」とは、急に高電圧がかかることで、分かりやすい例が雷である。

「雷サージ」という言葉も定着しているようで、そのための安全器具もあるようだ。

  雷サージプロテクター

電気に限らず、想定外の大きな何かがワッと襲ってくる、という概念が「サージ」であって、インフルエンザとか伝染病とかで、突然大量の患者が病院に押し寄せてくることを、「医療サージ」などと呼ぶそうだ。

この概念を一言で表す日本語は見当たらない。翻訳語も無いので、「サージ」とカタカナのまま、サージ電流、サージ電圧、雷サージなどと言い表しているわけだ。

明治初期にはこういうそれまで日本にはなかった概念が西欧からワンサカ押し寄せてきた。それこそ外来語サージということが出来るほどだった。

当時の学者や知識人たちは、次から次へと翻訳していった。いわゆる、和製漢語という言葉だ。

もう、例を挙げればきりが無い。

運動 人民 社会 物質 文明 質量 計画 哲学 銀行 主観 客観 危機 化学
元素 分子 共和国 理論 前提 環境 進歩 鉛筆 印象 侵略 引力 信用 など

無数にある。

日本にいけば最先端の技術や知識が得られるといって、アジアの国々から留学生がやってきて、こういう言葉を持ち帰ったそうで、よく言われるのが「中華人民共和国」のなかで、支那オリジナルの言葉は、「中華」だけだというお笑いネタだ。

最近は、こういう翻訳語が追いつかないのか、横着になったのか、外来語をそのままカタカナで表すことが定着してしまった感があり残念だ。

サージという言葉もそうだが、IT関連ではほとんどがカタカナのまま垂れ流されてきたようだ。

「アプリ」などという言葉は、小学生でも使う言葉だが、その意味は?と聞かれると説明に窮するだろう。application アプリケーションのことなのだが、意味は?

明治の頃の翻訳家が今の状況を見たら、嘆かわしく思うのだろうが、今の日本人には当時の知識人たちの気概や誇りは無いのかもしれない。



富士山で避暑した年

2016年07月16日 | 趣味の世界
今週から富士登山のシーズンが始った。



私は過去に二度、富士山の登山口で外国人登山者の登山指導をするアルバイトをした経験がある。

登山指導といっても、登山の仕方ではなく、これから登山をしようとする登山客の装備や服装を観察して、不適切な場合はアドバイスをしたり、登山計画を確認して無理がないかを確認したりする業務だった。



また、下山してきた外国人登山者の交通機関などの問い合わせに答えたり、観光案内をしたりすることもあった。

 静岡県富士宮口の案内所

夏休みが始り、週末や盆休みなどは登山客が集中して大変な賑わいになるが、そうでない日は特にすることもなく暇を持て余す事も多かった。

案内所は夏の間、静岡県警の臨時派出所を併設し、毎日9時頃から5時まで警官二名が常駐していた。話を聞くと、彼らは富士宮市内の派出所に勤務する警官で、毎日違う二名が持ち回りで駐在していた。



駐在するといっても特に何をするわけでもないが、主な業務は午前と午後の周辺巡回と、それに拾得物の受け付けのようだった。

高山病になると、注意散漫になり、信じがたいが下山途中で休憩した山小屋にザックごと忘れてきてしまい、駐車場に止めた車のキーもその中に入ったままで、家に帰れないと啼きついてきた登山者(日本の若者)もいた。

富士登山に来る登山客は、たとえ日本人といえどもマナーが酷い連中がかなりの割合でいたように思う。ゴミは平気で捨てていくし、タバコの吸殻などあちこちに捨てられている状態。

最悪なのは緊急用の駐車スペースに置かれていたバリケードを勝手に移動して自家用車を止め登山してしまう不届き者もいた。

緊急用の駐車スペースは登り口の石段に一番近いところにある。

登山者が遭難した、怪我をしたという一報が入ると、それは県警と消防署の山岳救助隊に伝わり、赤い消防署の車やパトカーが猛スピードで駆けつける。

 消防署山岳救助隊員

サイレンを鳴らして五合目の登山口まで駆けつけるわけだが、救助隊員たちは普段はそれぞれ通常任務をしているそうで、一報が入るとそれぞれの勤務地から相乗りして馳せ参じるわけだ。そのため、装備は常にクルマにつんであるようだ。

 県警山岳救助隊員

通常平地から五合目(海抜2400m)に着いたら、登山開始まで1時間ほどは体をその標高に慣らさないと高山病にかかってしまうものだ。

しかし、彼らを見ていると、到着するや否や靴を履き替えてからサッサと登っていく。その手際の良さは見ていて気分がよくなるほどだった。

私が登山案内をしているとき、県警山岳救助隊の隊員登録している警官が、臨時派出所に勤務してきたことがあった。

それまで臨時派出所にやってくる警官たちは、奥の和室に篭って週刊誌を読んだりしていて、電話が鳴っても出ようともせず、明らかにサボっている連中がほとんどであった。

私は、業を煮やして、「奥の部屋に篭っていないで、少しは表に出るなり周辺を巡回するなりしてみたらどうだ。あなた方の警官の制服は立派な犯罪や不正行為の抑止力として機能するはずだ。」と、啖呵を切ったことがあった。

しかし、山岳救助隊員の警官は見事だった。詰め所にジッとしていることはほとんどなく、周りを歩き回っては登山者に声掛けをし、我々にも「何かあったら、遠慮せずになんでも言って下さいね。」と言ってくれたので、実に頼もしかった。

しかし、救助隊員の話を聞くと、怪我をした、をしたと連絡があって駆けつけても、一人で下山できないほどでもないことが多く、救助隊をタクシー代わりに考えているような登山者も多いそうだ。

その年は猛烈な猛暑の年で、下界は連日煮えたぎるような暑さだったようだが、7,8月の二ヶ月は標高2400mで快適に過ごせた最高の経験であった。


【蛇足】

五合目のトイレに掲げてあったトイレ利用者に寄付金を促す看板より。英語のまちがいを発見。[ a few ]とは通常「2~3」という意味。つまり、[ a few yen ] とは、
「2~3円」という意味になるのでは?

  a few yen ??






採れたてキュウリを食す贅沢・・・

2016年06月05日 | 趣味の世界
2週間ほど前、ホームセンターで買ってきたキュウリの苗3本を植えておいたら、順調に大きくなって今朝初物を収穫して朝食に添えた。



確か苗は一つ120円ほどだったから、掛ける手間を考えたら、スーパーで買った方が安上がりかもしれないが、我家の庭先で大きくなった一本のキュウリをタイミングよく収穫して、5分後には自分の腹の中に収めるというのは、金には替えられない。



キュウリの先端には細いヒゲのようなツルが伸び、上に向って成長するために手がかりになるところをゆっくり回転しながら捜し求めている。そして、引っ掛かるところがあるとクルクル巻き付いて体を支え、更に上に伸び続ける。

玉ねぎが植えてあった別の場所は、すべて収穫し終え、少し耕してから苦土石灰を撒き堆肥を混ぜてから1週間放置した。

今日は天気予報が小雨ということだったので、昨日の夕方大急ぎで高畝を作り、黒マルチを掛けて、「紅アヅマ」というサツマイモの苗を20本挿しておいた。



後はほとんど手を掛けなくても、秋になれば大きなサツマイモが収穫できる見込みである。なっちゃんが芋ほりをするところを見るのが楽しみだ。

キュウリ同様、すべて自分達で食べるためなので、曲がっていようが、傷ついていようが、大きかろうが小さかろうが、全く気にならない。

キュウリの後は、茄子、オクラと続き、秋が深まってからサツマイモの収穫と続く。


洋画タイトルの妙

2016年05月30日 | 趣味の世界
私が一念発起して、英会話の独学を思い立ったのは、20歳のときであった。

以前にもブログに書いたような気がするが、学生のとき仲間数人とパプア・ニューギニアに旅をした際に、少々自信があったにもかかわらず、自分の英語は使い物にならないと分かって、悔しい思いをしたからであった。

しかし、当時は今と比べると、DVDがあるわけでもなく、CDがあるわけでもなく、パソコンなど世の中に存在していなかった。

今は、書店に行けばCDが付録に付いた参考書などもあり、何も大金を払って英会話教材を買わなくても、実に様々な英語教材が溢れている。

私が、「これは、いい!」と感動したのは、映画のDVDのサブタイトル(字幕)を英語や日本語で選択できる点、それに始めと終わりを選択して、好きな場面を何度でもくり返し観れる設定が出来る点だ。

映画が嫌いな人は大したことではないだろうが、映画好きでしかも英語を習いたいという人には、これほどすばらしい教材はないと思う。

好きな映画、しかも役者の話す英語が聞き取りやすい映画を選んで、セリフを覚えてしまうのである。好きなシーンの会話を丸ごと覚えると、これは似たような場面に遭遇したとき、実に役に立つのだ。

英語を使わなくなって久しいとき、私は昔の感覚を呼び戻すため何度も何度も繰り返し観た映画がある。

それが、「Up in the air」だった。邦題は、「マイレージ、マイライフ」。

 大人の色気が・・・

ジョージ・クルーニー主演の、ちょっと色っぽくて、コミカルで、そしてほろ苦い大人の恋の映画だ。

邦題は、飛行機のマイレージを増やすのが何より趣味のビジネスマンに掛けて、「マイレージ・マイライフ」としたのだろうが、これは英語のセンスが全くない人がつけた邦題だとすぐ分かった。

  

原題は、飛行機で全米を飛び回る、仕事一途だが、優柔不断なところがあっていまだに独身の中年男性を、「Up in the air」、つまり「空高く」という意味と、「宙ぶらりんの未決状態」という意味のある英語の慣用句で表して映画のタイトルにしている。



昔の洋画のタイトルは、練ったものが多かった。「雨に濡れても」の挿入歌がヒットした、「明日に向って撃て!」という映画の原題は、「Butch Cassidy and the Sundance Kid 」という無法者二人の名前を並べただけのものだった。






似たようなもので、「俺たちに明日はない」という名画の原題も、「Bonnie & Clyde 」という、無法者二人の名前だけだった。


 

最近、洋画はヒット作があまりないようだが、これは映画にするような脚本が不作なためではないか。

名作が目白押しだった頃は、邦題を付ける方も中身に負けないように、知恵を絞ったに違いない。

手っ取り早く、原題を読み通りにカタカナにしただけでは、観たいという気分にはならないのだ。「レヴェナント」がいいと言われても、何の関心も掻き立てられないのである。

ボニーとクライドと、バンジョーの響き

2016年05月07日 | 趣味の世界
丁度団塊の世代のジジ・ババたちが青春真っ盛りの頃流行った映画は、アメリカの反社会的な群像を描いたものが多く、日本の映画業界は、「アメリカン・ニューシネマ」などと名付けて宣伝していた。

「イージーライダー」とか「明日に向かって撃て」、「卒業」、「イチゴ白書をもう一度」などが代表作で、当時「ベトナムに平和を!」などと叫んで学生運動に夢中になっていた「自称・反体制青年」などは、タイトルを聞いただけで、当時の情景が目の前にうかんでくるのではないだろうか。

多分、そんなジジ・ババたちは、去年から共産党の手先としてデモに明け暮れている学生さんたちに共感を覚え、ウォーキングを兼ねて彼らのデモに参加したがるのだろう。

これから気温が上がってくるので、十分水分補給をしたうえで熱中症を気にしながら、デモで太鼓を打ち鳴らすなり、笛を吹くなりして欲しいものだ。

さて、当時の映画の中で私のお気に入りは、日本語のタイトルの斬新さもあって、何と言っても「俺たちに明日はない」となる。原題は「Bonnie and Clyde」で、実在の銀行ギャングの名前である。

最後に二人は待ち伏せしたテキサス・レンジャーたちによって、文字通り蜂の巣のように撃ち殺されてしまうが、あのシーンは強烈だった。

 車も二人も蜂の巣に・・

アメリカの映画ではこういう、徹底的に撃ち殺すシーンが珍しくないが、そのさきがけ的な映画であったような気がする。ボニー役のフェイ・ダナウェイの大人の色気に当時の私はメロメロになったものだった。

 主演はウォーレン・ビーティとフェイ・ダナウェイ

当時はさほど印象に残らなかったが、この映画を観た6~7年後に私はアメリカに行くことになり、そこで偶然めぐり合った「ブルーグラス」というアメリカの音楽が、この映画と大きくつながっていたのだった。

帰国してVHSを借りてきて観なおしてみると、確かにあのブルーグラスの代表曲「フォギーマウンテン・ブレイクダウン」が随所に流れて、映画に快いスピード感を与えていた。



ブルーグラス・バンジョーと言えば、このアール・スクラッグスをおいて右に出る者はいない。そして、彼の作曲した「フォギーマウンテン・ブレイクダウン」は、クラシックギターを始める人が必ず習いたがる、「エリーゼのために」とか「アルハンブラの想い出」のようなポジションにある名曲である。

この曲は、バンジョーとフィドル(バイオリンとは呼ばない)メインのインストルメンタルの曲なので、歌はない。

しかし、ブルーグラスのいいところは、演奏プラス、「コーラス」にあると思う。



バンジョー、フィドル(バイオリンではない)、ギター、フラットマンドリン、など弦楽器だけで合奏し、独奏し、きれいなハーモニーで歌を歌うのだ。



ブルーグラスでは、これらの楽器を弾く(ひく、play) とは言わない。弾く(はじく、pick )という。

フィドルは、弓で弾く(ひく)が、曲調がクラシックのように優雅ではなく、概していそがしいテンポになる。



途中、ジャズのように順番にソロで演奏したりするが、アドリブで凝ったメロディーを聴かせるので、もしかしたらこれがモダンジャズのルーツなのかもしれない。



ブルーグラスに馴染みのない人は、知ったかぶって「ああ、カントリーミュージックね。」なんて言うのだが、ちがうんだなあ・・まったく。

私は一時期はまってしまって、アメリカの Amazon でCDを何枚も購入した事があった。CDだけではない、バンジョー、フラットマンドリン、フィドル、ギターはネットオークションで手に入れて、独学を試みたのだが、音を出すたび料耳に手を当てて「もう、やかましい!近所迷惑になるよ!」などと家人の非難ごうごうで諦めたのだった。


今では、お気に入りの曲ををイヤホンで聞きながらハイキングに出かけるのが楽しみの一つなのである。

小津調、反戦の味付け

2016年05月06日 | 趣味の世界
カミさんが、毎年この時期になると学生時代の友人達と「女子会」を開くのは、すっかり恒例になったようだ。

そして、たいてい映画を観てから食事をして、その後甘味処に行って、ぺちゃくちゃ話をしながら別腹を満たすという、変わり映えのしない一日を過ごすことも定番になったことを知っている。

今年も、全くその通りだったようで、帰宅してから仲間同志で互いの「幸せ度合い」のチェックをした成果をいろいろ話してくれたが、私の関心は、彼らが何の映画を観たのだろうかという、その一点であった。

そして、「他に面白そうなのがなかったから、『コナン』を観た・・・。」と聞いて、耳を疑った。もうすぐ還暦を迎える婆さん三人で『コナン』を観ている光景など、想像したくもなかった。

やはり、映画界は不作なんだろうが、こういうときこそ昔の名画をDVDで鑑賞して欲しい。

今日のお勧めは、小津安二郎のカラー作品、『秋刀魚の味』である。1962年公開の小津の遺作となった作品は、ちょっと面白い、そして小津調満載の品のある名画と言ってよい。


秋刀魚の味というタイトルだが、秋刀魚は出てこない。その代わりと言っては変だが、 岩下志麻、笠智衆をはじめ、佐田啓二、岡田茉莉子、中村伸郎、東野英治郎、北竜二、そして杉村春子という何とも贅沢な俳優陣が、名演技を見せてくれる。

小津映画の共通のテーマである、嫁ぐ娘と父親の話なのだが、それに絡ませるサブストーリーが強烈に面白い。

中でも。岡田茉莉子と佐田啓二の夫婦がゴルフクラブを買う買わないでもめる話は、何度観ても楽しい。是非、一度だまされたと思ってレンタルDVD店で借りてきて観て欲しい作品だ。



加東大介と笠智衆がトリスバーで話をする場面は、流れる「軍艦マーチ」に合わせて海軍式の敬礼をしたりして、これも小津らしい反戦の味付けではないかと、興味深い。



近頃の映画監督みたいに、露骨に自分の脳味噌の「左巻き」さを表現するわけではないところが、小津らしくていい。

加東が、「日本が勝っていれば、今頃は青い目のアメリカ人の娘が丸髷なんか結ってますよ・・、何で負けちゃったんでしょうかねぇ?」と言うと、加東の上官だった笠智衆が、「う~ん、ねぇ・・・。でも・・・負けて良かったじゃないか。」と言う。



それを聞いて、加東は納得したような、しないような・・、「ふ~ん、そうかもしれないなぁ・・。」と言う。この辺りが練り上げた脚本の妙だ。



他にも、東野英治郎と杉村春子の親子は名優二人だけに絶妙だし、岩下志麻の和服姿とその優雅な所作は、今はなかなか見ることができなくなった「日本の美」である。




この映画を観て、「つまらなかった」と言う方がいたら、私は土下座して謝罪しても良い。自信を持ってお勧めできる小津作品である。

駿河の国に、茶の香り・・・

2016年05月05日 | 趣味の世界
連休初めの薩埵峠(さったとうげ)からは、富士山が拝めなかった。冬になれば澄んだ空気のせいで、我家の近くからでも富士山は鮮やかに見えるのだが、あるべき方向に富士山が全く見えないというのは、どうも消化不良を起こしそうだったので、無意識に東の空を気にするようになっていた。

昨日は空の霞も少ないので、もしかしたら富士山が見えるかもと思い立って、一汗かきにハイキングをかねて高台に向って歩き始めた。




御予想通り、霞はそれほど酷くなく、東の方向に雪の帽子をかぶった富士山を見ることができた。高台というのは茶園の広がる牧の原台地のことで、空き地に車を止めて茶畑の緑を満喫しながら坂道を上り始めた。



上流のダムのせいで大井川には水が少ない。その向こうは昔の島田宿。遥かかなたに富士山が見えたが、写真に写るかどうか不安であった。

この時期は、新茶の刈り取りの真っ盛りで、あちこちの茶園で茶刈機のエンジンの音が鳴り響いていた。

昼間刈り取った茶葉は徹夜で荒茶に仕上げられる。製茶工場からは香ばしいお茶の香りが漂い、普段はほとんど飲まない緑茶を茶葉で淹れて飲みたくなるものだ。

しかし、近頃では若者が急須でお茶を淹れて飲む習慣がなくなり、茶葉の消費は低迷しているようだ。いや、若者だけではない。お茶刈作業の合間に一休みしている茶娘ならぬ、茶婆さんたちも、ペットボトルの「お~いお茶」を飲んでいたりするのを見かけるから・・・。


映画は斜陽、名画は健在

2016年05月03日 | 趣味の世界
戦後しばらく、映画は娯楽の頂点に存在していたらしい。

それは当時の作品を観ればすぐ理解できる。優秀な人材は映画界に集まっていたのだろう。

連休なので、久しぶりに映画館で映画でも、、と思い立っても観たい映画がない。ならばレンタルDVDをとショップに立ち寄っても、手にとって観てみようと思うような作品がない。

カラーになり、SFXという特撮が進歩して如何なる場面も作れそうなのだが、映画館は邦画も洋画もお子様向けの作品ばかりが混みあっているようだ。

質の良さと当たり外れの少なさから言えば、書店で見かける1枚300円ほどのモノクロ名画DVDを購入して、家で観るのが手堅いのではないか。

記憶に残る名画の名場面をもう一度観たくて、何度も繰り返して観ている映画がある。

例えば、「第三の男」のラストシーンだ。

 まるで絵画のようなラストシーン

出だしのアントン・カラスの音楽はあまりにも有名だが、映画の中身も一級で観る人を飽きさせない。

西部劇は激しい撃ち合いの場面が売り物だが、「荒野の決闘」はOK牧場の決闘を扱ったジョン・フォード監督の名作で。ヘンリーフォンダがすばらしい。

原題は、「My Darling Clementine 」(いとしのクレメンタイン)で、例の雪山賛歌、京都大学山岳会の西堀栄三郎氏が作詞した、♪雪よ、岩よ、我らが宿り・・♪、のメロディーになった歌があまりにも有名である。

映画のラストシーンでワイアット・アープが言うセリフに私はしびれた。学生時代に一生懸命暗記したものだった。

Ma'am, I sure like that name... Clementine.
(いいお名前ですねぇ・・・、クレメンタインか。)

 実に「カッコイイ!」

何年か前、街の教育委員会主催のカルチャースクールで、名画を題材にした英会話という講座を受け持ったことがあった。そのときに扱った名画が「カサブランカ」であった。

英語も比較的聞き取りやすく、ストーリーもハラハラドキドキがあり、歴史的な背景も知っておかないと理解しがたい演出が随所に出てくる。何より、世紀の誤訳とも言われる、「君の瞳に乾杯!」のシーンが数箇所あるのが、イングリッド・バーグマンの溜息の出そうになる美貌と共に楽しみな映画である。

例のセリフは、シャンパンを飲むとき「乾杯!」(Here's to you! とかCheers!)と言う代わりに、、、

『 Here's looking at you, kid. 』 と言うのだが、それを「君の瞳に乾杯!」と訳したとすれば、何とも粋な和訳ではなかろうか。

 ボギーもカッコイイ!

こう観ると、映画全盛のころの監督達は、美人はより美人に、美男はより美男にかっこよく演出することに長けていた様に感ずる。そして、それは大切な映画監督としての資質の一つだったのだと思う。