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孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

人形浄瑠璃を満喫!

2017年06月26日 | 趣味の世界
どうでもいいことだが、私のガラケーの待ち受け画面は、今でもタカマツペアの松友ちゃんである。

 理知的な処がいい

そして松友ちゃんといえば、徳島県藍住町出身で、小学校の頃から地元のバドミントンクラブ「藍住エンジェル」に入ってメキメキと上達したのだった。

オリンピックの後、彼女が地元のローカル番組にゲスト出演している動画があって、Youtube で観ると、当時の仲間たちが松友ちゃんの小さい時のことを語っていた。その仲間たちも今や皆さんいいお年頃の女性で、これがまたみんな美人ばかりなのだ。

私は、ここから、勝手に徳島県は美人の多いところなんだと思うようになっていた。


先週の土曜日に徳島市に着いてから、すぐに徳島駅の裏手の川内町にある、「阿波十郎兵衛屋敷」に向かった。

 入り口は質素そのもの

浄瑠璃の公演まで時間があったので、資料館で人形浄瑠璃の情報を仕入れて、その横にある土産物店をブラブラしたりしていた。資料館には、後期高齢者風のボランティアガイドが男女1名ずついて、知識をひけらかしてくれた。

ここは公的な施設なんですか、それとも個人的な施設なんですか、と尋ねると答えが分らなかったようで、慌てて別の支配人らしい女性に聞いていた。建物は徳島県のもので、運営はNPO法人となっているとのことだった。入場料410円と破格なのはその所為だった。

  資料館内

愛想のいいご婦人がいるみやげ物店で藍染めの手ぬぐいを買った。「どちらから来られたんですか?」と聞かれたので、静岡からついさっき着いたばかりだと答えると、少し驚いていた。

私は、聞かれもしないのに「昨年のオリンピック以来、徳島には来よう来ようと思っていたんです。

バドミントンの松友選手のファンになったからで、さっき徳島駅前についてバスを降りた時は、『きっと、松友ちゃんのような美人がたくさん歩いているんだろうなあ』って勝手にワクワクしたんですけど、ちょっと裏切られた感じです。」

そう言うと、ご婦人は「松友さんはここからちょっと行った藍住町の出身なんですよ。実は、私もそこの生まれなんですけど・・・ガッカリさせてしまって、すみません。」

こう言ってペコンと頭を下げたのだった。私は、慌てて「ああ・・そうだったんですか。どうりでおきれいなご婦人だと思いました・・。」と言って笑ったのだが、何ともバツが悪かった。

毎日午前11時と午後2時から、人形浄瑠璃の公演が至近距離で観られて、入場料410円とは。今の時代こんな良心的な文化施設は他にあるだろうか。

もし近くにあったら、私は毎週訪れるのではないかと思った。

行って来ました、阿波徳島へ。

2017年06月25日 | 趣味の世界
本場の阿波踊りを観てみたい、というのはここ数年の私の希望であり続けたが、8月の4日間に徳島市に集まる観光客のことを考えると、人ごみが嫌いな私はどうしても気が引けてしまうのだった。

ところが、インターネットで徳島市の阿波踊り会館では、阿波踊りの実演を毎晩観ることができるということを知り、しかも阿波踊りの歴史などを紹介する展示も見学できるというので、「行きたい!」という私の気持ちはググッと強くなったのだった。

  妖艶な女踊り

しかし、それは本当のお祭りの阿波踊りではなく、あくまでも観光客向けのショーにすぎないというので、今ひとつ決心がつかなかった。そういう私を躊躇なく決心させたのは、「十郎兵衛屋敷」の人形浄瑠璃であった。

 巡礼歌の段より

こちらも毎日、人形浄瑠璃の実演を観ることができ、資料館も併設されているということで、もう私は徳島市の天気の心配など無視して、ホテルから高速バスなどの予約を一気に終えて、24日(土)早朝家を出たのだった。

徳島駅前に予定通りに着いたのは、11時33分。駅前で名物徳島ラーメンを食べて、駅前のバスターミナルから市内循環バスで「十郎兵衛屋敷」に向かった。

もう、感動、感激の連続。

この歳で、まさか生の人形浄瑠璃をあんな至近距離で観る事ができたのが信じられなかった。

しかも、浄瑠璃に入り込んでしまって、もう眼がウルウルして涙がこぼれ出しそうになってしまった。

いやあ、日本人に生まれてよかったあ!

日本の伝統芸能は素晴らしい!!

大感激の旅だった。


そうだ! 阿波へ行こう!

2017年06月18日 | 趣味の世界
毎年、夏が来るたびに「ああ、本場の阿波踊りが観たいなあ・・。」と思い続けているが、なかなか決心できずにいた。

しかし、8月の阿波踊りには何十万人という観光客が集まるだろうから、人ごみが嫌いな私は、どうもあの混雑振りを想像すると、行く気が失せるのだった。

ところが、年中阿波踊りの実演を見せてくれる所が、徳島市にはあると知った。

市内にある「阿波おどり会館」がそれだ。

徳島駅から徒歩10分ほどという近場で、映像や展示品と共に、実際に8月になると沿道で踊る方々の実演を毎日観ることができるのだそうだ。

これは、すぐに行ってみたい。

ネットで色々検索していると、徳島駅の裏側すぐのところに、「阿波十郎兵衛屋敷」という人形浄瑠璃の博物館のようなものがあり、何と、何とここでは毎日午前と午後の2回、人形浄瑠璃の実演(傾城阿波の鳴門<keisei awano naruto>)を観る事ができるというではないか。

もう、今週の週末は徳島だ。

 「傾城阿波の鳴門」

人形浄瑠璃など生きているうちには観る事は無いと思っていた。しかも、「傾城阿波の鳴門」の巡恋歌という演目は、泣かせる話だ、と死んだ親父がよく言っていたのを覚えている。

私がまだ小学生か中学生の頃だったと思うが、何かテレビでそんな映像が流れた時、親父が懐かしそうに、教えてくれた。

「あーいー、父(とと)さんの名は、阿波の十郎べえ、母(かか)さんの名は、お弓ともうしますぅ。」親父は、確かこんなセリフも教えてくれたので、私は不思議と今でも忘れず覚えている。

私の祖父は明治生まれで、親父は大正生まれだった。この頃の人は、義太夫や浪曲、講談、落語などに詳しくて、昔はNHKの教育テレビでよく放映していたのを、みんなで観たものだった。

 妖艶な阿波踊り

阿波踊りとよく比べられるのが、高知のよさこい踊りだ。しかし、こちらは、そもそも発祥が徳島の阿波踊りに対抗する何かイベントを作ろうということだったようで、スタートしたのは1954年(昭和29年)だそうだ。



 よさこい踊り



400年の歴史がある阿波踊りとは、およそ比較にならない、ごく最近の流行のお祭り騒ぎという感じである。しかも、このよさこい踊りに感動した北海道の学生が、1991年に「ソーラン節」とくっつけて始めたお祭り騒ぎが、「YOSAKOIソーラン祭り」である。

 YOSAKOIソーラン

こちらは、まだ26年目に入った程度の歴史しかなく、阿波踊りとは比較するレベルではないことは確かだ。

何年か前にテレビで、沿道で踊るYOSAKOIソーラン祭りのパレードを見たことがあるが、衣装といい、踊り手の化粧といい、所作といい、当然のことながら伝統の「で」の字も感じさせず、ピョンピョン飛び跳ねているだけで、つまらなかった。

チアリーダーの演技と北朝鮮のマスゲームをミックスにして、リオのカーニバル風にした、ストレス発散ダンスという感じで、おぞましいお祭りである。

阿波踊りは、400年のうちに衣装などもいろいろ変遷があったのだろうが、今の意匠は実に洗練されている。

特に女踊りの格好は、上から下まで完璧である。身振りから足の動きから、掛け声の出し方まで、妖艶で優雅で、しなやかで、キリッと統制が取れていていつまで観ていても飽きることはない。

 女性ならではの動き



今週末は、日本の伝統文化を満喫しに、徳島へGO!だ。


紳士だの、侍だの言ってる場合ですか?

2017年06月10日 | 趣味の世界
先週9日配信のデイリースポーツの記事によると・・・

8日現在で、巨人は西武戦に2-13で敗れ、球団ワースト記録を更新する13連敗を喫した。借金は2桁「10」にふくらんだ。静まり返る一塁ベンチ裏で、傷心の高橋監督が重たい口を開いた。

 「結果だけ見れば厳しい内容。何とかしようというのはあるけど、なかなか結果が出ない。結果が全ての世界ですから」

13連敗は暗黒時代を送った阪神でも経験のない不名誉記録。ファンからは「明日は勝てんのか」と怒声も飛んだ。「開き直るのは好きじゃないけど、開き直るしかない」とつぶやいたのは阿部。何度も栄光を味わったナインが、もがき苦しんでいる。

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かつての「栄光の巨人軍」の面影も無い。それでも、系列のテレビ局では、巨人軍の話題を前面に出して、今はタレントになったOBが、選手たちとオチャラケトークでお茶を濁す番組があるのだから、面白い。

私が子供の頃は、テレビやラジオでは、巨人戦だけを流していたので、自然に選手の名前や顔を覚えていき、いつの間にかファンみたいになっていったものである。

しかし、私の場合、それはこの方の引退の頃までだったと思う。いやこの少し前あたりから、私は関心が無くなり始めていたかもしれない。

自分が辞めても、巨人軍は永久に不滅です、と言った言葉は、その通りであるが、野球というスポーツを取り巻く環境は当時とは変わった。

  ミスター引退

いや、当時も今も大差ないのかもしれないが、知らされなかったことがファンにも見えるようになって、実情がバレただけなのかもしれない。

金がついて廻ると、いろいろ胡散臭いことも付きまとってきて、人間を変えてしまうものだ。職業野球はとくにそれが顕著のような気がする。

負け続けていた巨人も夕べは勝ったようだが、負けを見飽きたファンを満足させるにはまだまだ不十分だろう。

かつてのミスタージャイアンツは、脳梗塞の後遺症とも戦って、今では神様のように特別扱いされて、マスコミのオモチャになっている。

  長嶋大権現

現監督も、正直言ってどうしたらよいのか、訳が分らなくなっているに違いない。いっそのこと、試合中に現人神をベンチに座らせてみたらどうだろう?



 ボクは紳士です!

ま、せいぜいがんばってください。


処方箋を丸めてポイッ!

2017年05月13日 | 趣味の世界
父が他界して4年になるが、最期の1年間は見ている方が辛くなるほど、瘠せていって点滴の針が刺せないといって看護婦さんも苦労していた。

特別養護老人施設にお世話になっていたのだが、食欲が無くなってきて、熱が出てきたので病院に連れて行くようにとの、担当医の指示があった。ついては家族の方も同行して欲しいという連絡があって、近くの総合病院で落ち合って医師の診断を聴いた。

その医師は、父の体をほとんど一瞥しただけで、「入院してください」と言ったのだった。

それから、一月ほどしてもう退院できると言われたが、老人施設には戻れず、さりとて自宅では介護できず困っていると、その総合病院に併設された老人施設病棟に空きが出そうだということで、そこに入れてもらうことに決った。

ドラッグストアに出向いて、いわれた通りの物を用意して、ヤレヤレと思ってからほんの数日後にそこから電話があり、容態が急変したから至急来てくれとのことだった。

大急ぎで施設まで出向くと、担当のご婦人が来て、「先ほど見回ったら、息を引き取った後だった・・・」と呟いた。「えっ?オヤジ死んじゃったんですか?」と驚いて問い質すと、「最初見たときは、まさかこうなるとは思わなかったんですが・・・」と言うだけだった。

遅れて、担当医がやってきて、能面のような顔で「○時○分、心不全ですね。」とだけ言ってから、一礼して立ち去った。

老人施設にいた時も、何度か総合病院に診察に行き、そこで入院して治療し、また別の老人施設に厄介になるということを繰り返した晩年だったが、その度に衰弱していき、とうとう残っていた体力を使いきってしまったというところだろう。

そういうオヤジの晩年を見てきた私は、自分は絶対にこういう最期を迎えたくは無いと、心に誓ったものだった。



私は当時から、医療制度や医者という職業の人たちに強い胡散臭さを感じていて、特にオヤジのような老人に対する医者たちの所作から受ける悪印象が、むしろトラウマになって私の中で増殖していったのかも知れない。

昨年後半に勤め先の健康診断結果で、心房細動なので至急精密検査を受けなければならなくなった。すぐにその通りにして、その結果主治医の診断で、『血液をサラサラにする薬」を飲み続けることになった。

その際、私はその病院では一番権威があるという主治医に「この薬を飲むことで、私の血液がサラサラになってきたと判断する指標は、この血液検査結果のどの値を見て判断すればよろしいのでしょうか?」と確認した。

(ブログとは無関係です。)

それは、単純に私が抱いた疑問で、鎮痛剤なら痛みが取れるから効果が分る。血圧降下剤にしても、血糖値にしても、私は自分で測定できるツールを持っている。

今後死ぬまで飲み続けることになるという、その薬の効果はどう見るのか?というのが私の素朴な疑問だった。

「それは分らないですね。」というのが主治医の答えだった。「でもこの薬は効果がありますよ。」と彼は付け加えた。「じゃあ、私は効果を確認できないけど、とにかく飲み続けるわけですね?」と聞くと、「いや、効果はありますよ。」と言うのだった。

降圧剤の処方箋を出してもらうため、毎月一回通院している近所の町医者にこのことを告げると、「確かに血液検査では確認できませんねえ。」と言って、「でも、その薬は効果があると思いますよ。」と同じようなことを繰り返すのだった。


その町医者に先月も処方箋をもらいに行った。

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待合室にある血圧測定器で血圧測定をして、その結果が印刷された紙切れを看護婦に渡した。私の血圧はたいてい下が95~105で、上は145~160辺りであった。

いつもの通り、ヨレヨレの高齢者たちに混じって待合室で40分ほど待ってから、名前を呼ばれ、診察室に入って、ほんの2分間程度の診察を終えるのであった。

しかし、その日に限って、中年に入りかかったくらいの青年医師は、私の血圧の測定結果を一瞥して、「血圧が高いですネエ!」と言った。「そうですか?いつもこんなもんだったじゃないですか、今までも」と私。

「いや基準は130未満ですからね。」と言う彼に、「血圧って年齢が増えれば高くなっていくものなんじゃないですか?」と私は反論してみると、「それは健康な人の場合ですからね。」と青年医師。

その日の血圧が特別高いわけでもなかったのに、なぜ医師はその日に限って、血圧結果に固執したのか理解できないまま、2分間の診察を終えて、料金を払い薬の処方箋を受け取った私は、すぐ隣にある調剤薬局に向かった。

(ブログとは無関係です。)

歩いている途中、私はその時の自分の姿が無性に嫌になった。

元はと言えば、自分の不摂生が原因の不健康なのだろうが、なんだか納得がいかない医療制度に盲従して、飲みたくも無い薬、しかも効果があるのかないのか、副作用があるのかないのか、分からないことだらけのことをさせられているようなのが嫌になった。

私は手にしていた処方箋を両手で細かく破ってから、クルクルと丸めて固めてズボンのポケットに詰め込んだ。

今まで飲み続けた薬とは、その日でおさらばすることに決めたのだった。

さあ、この結果私は早死にすることになるのだろうか?

家に着いてから、「お薬手帳」とやらも、鋏で粉みじんに切り刻んでから、ゴミ箱にポイしてやった。それに用のなくなった町医者の診察券も鋏で切り刻んでゴミ箱にポイした。こういうのを、「退路を断った」というのだろうか?

まあ、何でもいい。良かれ悪しかれ、薬漬けの生活とはおさらばじゃ。


木の花、いとをかし いとめでたし

2017年04月30日 | 趣味の世界
平年より今年の桜は遅れ気味だったようだが、本州ではすでにほとんどが満開を過ぎて、来月での見ごろは北海道に移ることになる。

桜前線という言葉は、季節感のあるいい言葉で、この時期に学校の入学式や会社の入社式があるのは、実にピッタリした習慣で、これをアメリカなどにあわせて、9月にしようなどと言い出した役人がいたが、その時はまったくとんでもないトンチキがいるものだと呆れた。

最近は、各地の桜の名所に外国人観光客がたくさん現れるようになって、初めの頃は、桜の枝を折ったり、木に登って写真を撮ってみたり、木を揺すって花を散らし、花吹雪だと喜ぶ不届き者もいたようだ。

爆買でお金を落としてくれる観光客だからと、何も注意できないようだったとしたら、情けないではないか。最初こういう報道を見たとき、いくら口できれいだ、きれいだと称賛したところで、所詮根幹にある美的感性は我々とは違うんだろうな、と感じたものであった。

日本人の美的感性を詠んだ句を一つ挙げよと言われたら、迷わず本居宣長のこの一句を挙げる。

『敷島の 大和心を人問わば 朝日に匂う 山桜花』

  山桜の木

その意味は、あえて解説すると、こんな意味だろう。

『日本人の心とはなんでしょう、と問われたら、朝日に映える山桜の花のようなものです」と答えよう』

悪意を持ってこの句を解釈しようとする人も多いだろうが、薔薇という洋花と比較すると、その違いが理解しやすいのではなかろうか。

つまり、その花の持つ自然に溶け込んだ可憐さ、清廉さ、果かなさは薔薇のような洋花とは確実に違う。更にそれに輪をかけて、花が一斉に散った後に、一斉に芽吹く若葉の美しいエネルギッシュな生命感は、薔薇には無いものだ。

  葉桜の生命感

葉桜という言葉自体が、私は好きだ。桜にちなんだ言葉には、この他にも実に様々な粋な表現がある。

『花冷え』『花曇り』『花吹雪』『夜桜』などなど・・・。

葉(歯)がなくて花だけ、という意味で『姥桜(うばざくら)』という言葉もある。日本人の感性の素晴らしさに改めて寒心するのだが、中でも私が大好きなのは、『花筏』という言葉だ。水面似に浮かんで漂う桜の花びらをこう表現できる感性には脱帽だ。

  花いかだの美しさ


今から約1000年前に書かれた随筆『枕草子』の作者、清少納言はその軽快洒脱な筆致から、今で言うところの人気ブロガーだったと思うが、その中の第37段に「木の花は」というタイトルのコラムがある。

例によって、紅梅、桜、藤の花、梨の花など木に咲く花々を、「いとめでたし」「いとをかし」と称賛している。

木の花の特徴は、花を満開に咲かせて散り、その直後に若葉を芽吹かせる処にあるだろう。この一連の変化は、自然の描く演出の妙で、人の手ではどうしようもない。

そう言えば、いつも利用する駅前の駐車場から駅につながる満ちの途中に神社があり、その境内の端に一本の枯れ木があった。

それが先月の初め頃、その枝に一斉にふっくらした白い花をつけたので、暫し足を止めて見入ってしまった事があった。モクレンだった。

  木蓮の花

その花の大きさからすぐにでも散ってしまいそうだったが、数日間私を楽しませてくれ、朝から実に清々しい気分でスタートできた。

そのモクレンも、花を落とすと今度は一斉に若葉が芽吹く。

  モクレンの若葉たち

今では、新緑が映えて、木全体に生命の躍動感がみなぎっているモクレンである。

我家を建てた時、玄関近くにはエレガンテシマというコニファーを,そして裏庭にはシマトネリコという常緑樹を植えた。

当時何となく殺風景だったので、なるべく手の掛からないシンボルツリーを、ということで適当に私が決めて近くの苗木店で買ってきたのだった。

どちらもすくすく成長してシマトネリコは高さが4m以上になった。手の掛からぬ常緑樹というだけあって、剪定も適当にやったが、すぐに成長する。カミさんなど、冬でも枝が青々としているので、日光をさえぎり洗濯物が乾かないと今ではすこぶる不評だ。

昨年は、業を煮やしたカミさんが、ホームセンターで小さなチェーンソーを買ってきて、三男の息子と共にシマトネリコの枝をほとんど落として、丸裸に刈り込んでしまった。よほど、腹が立ったのだろう。剪定ではなく樹に対する仇討ちのようであった。

シマトネリコのすぐ横には、後からカミさんが自分で購入してきた植木が植わっていた。まだ幼木の頃、母が散布した除草剤が掛かって、一旦枯れてしまったようになったが、その後なんとか復活し、今では1.7mほどに成長した。

何の木を植えたのかずっと聞かずにが、ちょっと前に知った。それは「ハナミズキ」だった。駅近くのモクレンの話をカミさんにしたとき、「私が植えたハナミズキも白い花を咲かせる木」だと言ったので分ったのだった。

  ハナミズキの可憐な花

ハナミズキもモクレン同様に、木の枝に白い花をつけて、その後若葉が芽吹いてくる。


  ハナミズキの若葉

そういえば、隣町に「はなみずき通り」という名の街道があった。街路樹に植えてあるのがみなハナミズキなら、白い花をつけていたはずだが、私は気付いたことがない。これからは注意して観察しようと思ったのだった。

そして、今日我家の裏庭のハナミズキを見ると、なんと白い可憐な花をつけていたではないか。灯台下暗しというが、こんな調子では我家のハナミズキも腹をたてて怒るであろう。

早速、罪滅ぼしにもならないが、写真に撮ってきた。

  我家の痛々しいハナミズキ

最近の私的・2大ニュース

2017年04月21日 | 趣味の世界
連日、東京都知事の「年増の厚化粧」ぶりを見せられて、かなり食傷気味だったのが、一転して森友学園がすべった転んだで、ミンシンの異常ぶりにウンザリさせられた。

そして、今度は朝鮮半島の危機的状況と南朝鮮と日本のノホホンぶりに呆れさせられていたところに、一陣の疾風が曇った空を真っ青に塗り替えるような、ニュースが飛び込んできた。それが、卓球少女、平野美宇選手の快挙だった。

  腕を高く上げて勝利を喜ぶのがいい

彼女の偉業は、どれほどすごいことなのか日本のマスコミは評価しかねている感がいまだにあるようだ。何せ、世界に君臨する支那のトップ選手を3人立て続けにぶっ倒してみせたのだから、これはもうまぐれ当たりなんていうものではなく、正真正銘の実力であろう。

しかも、その戦いの場所が敵地、支那の無錫(むしゃく)市であった。試合会場にいた地元の卓球応援団も、その惨状を目の当たりにして、無錫だけに、ムシャクシャした気分で、応援したことだろう。

私は、心の底から彼ら支那の応援団に言ってやりたい。

「ざまあ見ろ!」

 左右下方に赤旗三つ

試合後の彼女のインタビューも、まったく気取らず飾らず、聴いていて実に清々しかった。どこかのナヨッとしたスケート選手が、ベラベラ飾り気のある話をするのや、甲子園に出たがっている高校野球選手が、ベラベラベラベラ余計な話をするのとは、わけが違った。

作家の河添恵子さんが、ブラジル五輪の時の日本女子卓球選手の快挙を観た感想を述べていたが、確かに小さな時からお母さんと一緒に卓球を始めて、親の愛情に育まれながら上達していったという共通点が日本の女子選手にはあった。

そこが、ロボットみたいな支那人選手たちの会場での表情と大きく違う点だったように思う、といった意味のことを仰っていたが、平野選手も幼い頃から大好きなお母さんの下で、暖かくも厳しい練習を、楽しくやってきたようで、見ていて微笑ましい限りだ。

ただ、意外だったことが一つあった。

それは、今回の平野選手の快挙を冷静に認めて評価し、反省していた支那の指導者がいたことだった。

 支那軍コーチ・孔令輝さん

孔氏は試合後こう語っていたそうだ。

「彼女のテクニックは我々に比べて格段に上だった。これから彼女の強みを勉強しなければならない。」

彼は、元世界チャンピオンだっただけに、「達人は、達人を見る目を持つ」といったところか。彼の落ち着いた一言は、高く評価されて然るべきだろう。

平野選手は、今の実力を維持し、更に磨きをかけていかないと、ライバルは支那だけではなく日本国内にも多いので、油断はできないだろう。

一つだけお願いがある。帰国しても、下らないバラエティー番組にヒョコヒョコ出るのだけは謹んで欲しい。どこかのレスリング選手と同じになってしまうから、どうかああならないで下さい!

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さて、もう一つの大きなニュースは何かというと、それは「八田與一像、頭部切取り事件」だった。

台湾南部・台南市で、日本統治時代の技師、八田與一像の頭部が切り取られた事件は、16日に発覚した、あまりにもショッキングな出来事だった。

 相当ショックを受けました

犯人は明らかに支那からやってきた外省人の仕業だろうと思ったが、数日して犯人自ら出頭してきて、正体が明らかになった。

ネットのニュースによると、以下の通りだった。

『男はフェイスブックで「自分がやった」と公表した上で、台北市内の警察署に出頭。当局は身柄を台南に移して事情を聴いた。

男は1958年生まれで、現在は台湾の急進統一派の団体「中華統一促進党」に所属。94年に統一派の政党「新党」から台北市議に当選し、1期務めた。任期中、市幹部を殴り起訴された。

また、2016年には急進的な台湾独立派の団体の敷地に放火し逮捕、起訴されている。』

また、いつも私が楽しみにして見ている、「台湾チャンネル」という youtube 動画によると、犯人はどうも戦後支那からやってきた外省人ではなく、台湾生れの内省人のようだ。犯人の写真↓をみると、まともじゃないのが分る。

 表情がまともじゃない

台北市議をやっていたといっても、完璧に支那人に洗脳された過激派ゴロツキ集団のメンバーだったようで、日本にもこれに似たような国会議員がいる。

台湾は蔡英文総統が誕生して、民進党(本家本元の)が躍進し、これまでタブーだった支那国民党の悪さをはっきりさせようとする動きが出ている。

台湾中にある蒋介石の像を撤去したりする動きもその一つで、どうも今回の蛮行はそれに対する報復行為であったようだ。

台湾チャンネルのアシスタント、謝さんによると、台湾の学校には大抵蒋介石の像が立っていて、みんなその前で礼をすることが強制させられていたようだ。

日本人観光客のほとんどが、台北の「中正紀念堂」に行き、英国のマネをした儀仗隊交代式を観る様に仕向けられているようだが、歴史を知らない間抜けな日本人観光客は何の疑問も感じないようだ。中正とは独裁者・蒋介石の本名である。

烏山頭ダムへは、去年の6月に行って来た。

 八田與一像アップ

駅からタクシーで15分くらい走ったところにあるので、駅前に客待ちしているタクシーをチャーターして、案内してもらうのがいい。彼らも心得たもので、博物館や展示館などの見所を順番に案内してくれる。

  子沢山の家族だった

台湾では教科書にも登場する偉人の一人として、知らない人はいないようだが、私は去年まで、八田與一など聴いたこともなかった。

なかったが、知れば知るほど彼の功績には感銘せざるを得なくなっていった。そして、もういても立ってもいられなくなって、現地まで出かけていったのだった。

 妻、外代樹(とよき)と、

1942年、八田は調査のためフィリピンに向かう輸送船に乗っていた。そこをアメリカ軍の潜水艦に狙われ、船と共に一命を落としたのだった。

私が、八田のことをいろいろ調べている時に、少なからず感銘を受けたのは、彼の業績だけでなく、身分や人種に分け隔てしない、その人柄を示す多くのエピソードについてであった。

そして更に、16歳で八田の元に嫁いで、八人の子供をもうけながら、ひたすら八田を陰で支えた理知的な風貌の妻・外代樹(とよき)が、八田の死後、彼の後を追って、彼の造った放水路に身を投げて自殺したという末路を知った時であった。私は思わず唸ってしまったのだった。



像を造るという話を聞いたとき、八田は「見下ろすような立った像は、やめて欲しい。』と言ったそうだ。だから、あのような腰をおろして考え事をするようなポーズに決ったようだ。

  ユニークな像である

私は、今後も台湾に行きつづけるだろうが、是非多くの日本人にも台湾を訪れて欲しいと思っている。どこがいいのか、と問われてもよく説明できないのだが、何となくホッコリとする気分がいいのかもしれない。

そして、行く際にはネットか何かで、台湾の歴史をちょっとでも読んで行って欲しいものだ。ガイドブックの後ろに書いてあることでも充分だ。それを知ると知らないとでは、面白みがまったく違ってくるからだ。

歴史を塗り替える快挙!

2017年04月16日 | 趣味の世界
天真爛漫な卓球少女、平野美宇選手がまたまた快挙を達成した。相変わらず笑顔満開で勝利の喜びを表わす彼女の潜在能力には、卓球ファンならずとも益々の期待が膨らむのではないだろうか。

   この気取らぬ天真爛漫さがいい!
(共同通信)

デイリースポーツの速報記事から・・・・・・・

【卓球・アジア選手権」(15日、無錫)

 女子シングルス決勝が行われ、平野美宇(エリートアカデミー)が世界ランク5位の陳夢(中国)を3-0(11-9、11-8、11-7)で下し、初優勝を飾った。日本勢の優勝は1996年の小山ちれ以来、21年ぶり。

平野は準々決勝で世界ランク1位でリオ五輪女王の丁寧をフルゲームの末、撃破。準決勝では同2位の朱雨玲をストレートで下した。中国での開催。常に「加油!(中国語で頑張れ!)」が響き渡る大アウエーの中、中国勢を3連破しての快挙となった。】(デイリースポーツ)

何と言っても、支那の世界トップクラス3名を撃破しての優勝には、これ以上の付加価値は無いといってもいい位の、大大大金星であり、事実上世界トップに躍り出たといっても良いだろう。

私の中では、フィギュアスケート選手の引退報道や国民の反応に対して、どうも納得できないイライラ感があった。

さらに、今朝つけたテレビのローカルニュースで、あのレスリング女子選手、ブラジル五輪で金メダルを逃して、『お父さんに怒られるぅ~』と泣きべそをかく醜態をさらした、あの方。

彼女が、地元浜松医大に講演に来て、「夢を持ち続けることの大切さ」が滑った転んだという話をして、今年あと何回かその話をしに来ることになっている・・・とかいう報道を聴いて、もうウンザリした気分にさせられていた。

その後、この卓球少女の快挙のニュースを観たものだから、不快感の塊だった溜飲がもうすっかり下がって、スッキリ壮快な気分になったのだった。

日本の女子卓球は、その層の厚さが自慢である。他の種目の指導者たちは、卓球の関係者たちがどういう計画と考えに立って、今の状況にたどり着いたのか、しっかり研究して対応すべきだろう。

また、スポーツへの取り組ませ方、指導方法なども、この卓球少女たちからは学べることがたくさんあるように感ずる。

それは、スポーツに限ったことではなく、子供を大人へと成長させる手助けの仕方を観ている者に多く示唆している。

いずれにしろ、支那人選手を3タテした上での優勝は、引退したスケート選手に国民栄誉賞を、などという声をチャンチャラ可笑しくさせるものだった。

痛快!抱腹絶倒!ヒャクタ節

2017年03月11日 | 趣味の世界
私が通った高校は、特に進学校ではなかったが、多分当時は9割以上が進学していたと思う。高校生3年生になると、担任との面談などもあり、さてどこの大学の何学部を受験しようか考え始めた。

当時の私は、関西の大学を受験する気にはまったくならなかった。

特にこれだからという理由はなかったが、何となく関西(名古屋以西)は異文化圏というイメージが強かったのではないかと思う。

それは、多分関西弁という言葉からくる強烈なインパクトがそうさせたのだろう。子供の頃面白がって観た「てなもんや三度傘」など、いわゆる吉本の喜劇は嫌いではなかったが、何か別世界の文化を観るような感覚だった。

25歳の頃だったと思うが、和歌山県の九度山町という田舎に住む友人を訪れた時、新大阪駅から地下鉄に乗り換えたとき、車内の乗客の話し声が当たり前だけど、関西弁だった。

若い女性たちが話していたのだが、そのやんわりした話し方に「ああ、関西弁もいいもんだなあ・・」と感じたのだが、ビジネスマンらしき男たちが話すアクセントには、「何だか漫才みたいで、やっぱり自分にはここの文化圏は合わないな。」と強く感じた。

それは、今でもテレビのお笑いタレントを観て感ずる印象だ。関西弁にもいろいろあって、奈良と河内とでは全然違うそうだが、そんな違いなど私にはどうでもいいことで、同じ関西弁には変わりない。

 痛快なオヤジ!

ところが、この感覚はまったく変わった。それを変えたのはハゲ頭の作家、百田尚樹氏だった。この方は、「永遠のゼロ」や「海賊と呼ばれた男」の作者として有名だが、それ以上に保守派の論客として、WEB上では超有名である。

実は、私も youtube の動画を色々観ているうち、右側に現れる「あなたへのおすすめ」の中によく登場していたので、偶然めぐり合ったのだった。

ところが、このオッサンが面白い。とにかく面白い。私と波長がピッタシ合うので、もう今は病みつきになって毎日観ている。

  抱腹絶倒!!


このオッサンがぶった切る世相は、主に左傾化したマスコミのことや、だらしない野党の国会議員のことが多いのだが、とにかく歯に衣着せずにバンバン言うので、溜まっていた溜飲がスーッと下がるのだ。

話しっぷりは、関西弁で、「こいつ、アホちゃうか?」「もうええかげんにせえよ、知能指数10やで」など、腹筋が痛くなるほど笑わせてくれる。

作家だけあって、論拠はしっかり抑えているので、批判された側はうっかり反論すると、その100倍くらい反論されるので、甘んじてそのままにしているしかないのだろう。

多くの方が彼の話をアップしていて、どれも10~20分程度の動画なので、地上波テレビの下らないワンパターンの番組やCMを観るくらいなら、絶対お勧めである。

関西弁もなかなかエエもんでっせ!! おもろいわ。


観たいようで観たくもない最新映画

2017年02月18日 | 趣味の世界
学校で受けた教育だけでは、自国のことはほんの数パーセントしか理解でいないでいて、まったく自国の印象など味気ないもので終わっていたかもしれない。その意味では、学校の社会科の先生たちは、実に罪深い人たちだったと思わざるを得ない。

子供の頃本当は欲しかったけど、間違いなくウチには高価すぎる買い物だと思って、両親にはいい出せなかった百科辞典だったが、それ以上の便利さがITのお陰で享受出来るから、いい時代に生まれたと、私は誰にか分からないが、感謝する。

最も最近映画館で観た映画は「海賊と呼ばれた男」で、なかなか良く出来た映画だった。前作に続いて、山崎貴と岡田准一のタッグが奏功していたと思う。

その時映画館で観たポスターが遠藤周作の作品の映画化である「沈黙・サイレンス」で、関心があったが、どうも映画館まで足を運ぶ気になれないでいる。

  観たいようで観たくもない・・・

なぜだろう、とよく考えるとどうも理由が二つある。

一つは、その作品の上映時間の長さである。180分というから3時間で、これは黒澤の「七人の侍」とほぼ同じである。同じ時代劇なのだが、片や活劇。片や宗教物で私にはあまり好印象を感じさせないキリシタン物を、長時間果たして我慢できるかが、不安であった。

過去にも、私は観始めて、「だめだこりゃ・・」と感じた映画は、すぐに退場してしまうことが何度もあった。もしや、この映画もその類なのではと躊躇したのだ。

監督がマーティン・スコセッシというイタリア系アメリカ人の監督で、映画監督になっていなかったらカトリックの司祭を目指していたと言っているくらいだから、敬虔な信者なのだろう。

そういうのが、キリシタン追放にまつわる映画を作るのだから、きっとキリシタン信仰を美化したものに作るに決っていると思ったのが、観ないでいる二つ目の理由だった。

折りしも昨年秋以来、私の関心は16世紀に種子島に伝来した火縄銃に端を発した、当時の歴史であった。

偶然種子島に漂着した船の乗組員が火縄銃二丁を当時の種子島の島主に披露して、それを現在の貨幣に換算すると1億円にもなろうという金額で購入したという話なのだが、実はどうも彼らは最初から銃を売りつけようという魂胆があったらしい。

「これは儲かるぞ!」と慌てて銃の調達に帰った彼らが次にやってきたときは、すでにその模造品は数十丁作られていて、その後もねずみ算式に日本中に伝わっていったのだった。商売にならないと落胆するまでもなく、火薬を商売のネタにしたのだった。

火縄銃は火薬がないと役に立たない。その火薬製造には硝石が不可欠で、日本では硝石が採れないのだった。

意外と知られていない事実に、火薬一樽と日本人女性50人を交換して、彼らは奴隷船で国外に連れ去っていたというおぞましい歴史がある。火薬一樽とは多分一人で運べる重さとして30kg程度だったろう。

何百樽という火薬が取引されたであろうから、当時の日本からは数千人のうら若き女性たちが、アフリカの黒人奴隷と同様に、真っ裸にさせられて、ヨーロッパや南米に密輸出されていたのだった。

  遣欧少年使節の四名

恐らく、それにはいわゆるキリシタン大名と呼ばれる大名たちも関わっていたはずだ。

日本人奴隷の話は、紛れも無い事実で、これは社会科の授業ではっきりと教えるべきであろう。

1582年、イエズス会の司祭の発案でキリシタン大名・大友宗麟の代理としてローマに派遣された、いわゆる遣欧使節の当時13歳程度の少年たちは、旅先のあちこちで奴隷として売買されている日本人たちを目にしていたのだった。

『こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。』

『あれほど多数の同胞男女やら同胞童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか』などと憤慨していた。

しかし、それを実行していたのは当時日本に浸透していたキリシタンたちとそれに協力した同胞一派なのである。アフリカの黒人奴隷を調達して輸出していたのは同じ黒人であったが、まったく同じことが16世紀の日本でも行われていたのだった。

イエズス会の役割が植民地候補地の先兵であることや、奴隷輸出の実態やキリシタンの仏教徒などに対する態度などを知れば、秀吉ならずとも、バテレン追放令を発したくなるであろう。

口では愛がすべったの転んだのと甘ったるいことを唱えながら、その本性は侵略者の先兵であったカソリック司祭たちは、秀吉のキリシタン禁止令の後、26名の日本人信者が捕らえられた時、彼らをなるべく悲惨な方法で処罰するよう申し入れている。

  日本二十六聖人の磔の絵

彼らを殉教者として布教のツールとすること、さらに秀吉の残忍さのアピール用として利用することと考えた当時のカソリックの司祭たちの腹黒さは、我々日本人には今も昔も真似できない。

こういう歴史を学べば、いくら映画としては良い出来の作品でも、私は観る気にはならない。

幸い日本にはまともな感覚の持ち主がまだまだ主流を占めているようなので、キリシタンの割合は人口の1%前後をキープしているようだ。

日本人の宗教観のアンケートを取ると、信仰する宗教があると回答する人はせいぜい3割程度であるそうだ。しかし、あれほど多くの国民が正月三が日には神社仏閣詣でをする。

山にも風にも火にも神が宿ると考え、ひいては針供養などと使用済みの裁縫の針までに手を併せる日本人の心には、所詮キリシタンの教えは響かないのかもしれない。

酉年に因んで、【鳥居強右衛門】の話

2017年01月04日 | 趣味の世界
昨年11月、思い立って越中五箇山の合掌造り集落の「塩硝の館」に車を飛ばした事があった。

種子島に鉄砲が伝わったのはいいが、火薬に使う硝石は日本で産出しない。ところが、白川郷などの合掌造りの家の床下で、塩硝を製造していたと知ったからであった。そして、それに関する資料館が五箇山の菅沼集落にあると分かって、すぐすっ飛んだのだった。

帰宅してから、改めてそれに関わる様々な疑問が生じてきて、「織田信長」とか「一向宗」とか「発酵」、「富山の薬売り」などの本を読む羽目になっているのだが(積ん読状態もあり)、その中で欠かせないのが、武田騎馬軍団を負かした織田の鉄砲隊の戦い「長篠の戦い」のあらましであった。

長篠城址といえば、愛知県新城市である。高速道路を飛ばせばひとっ飛び。さっそく出掛けてみた。どうも、思い立つとすぐに行動するタイプのようで、これが自分の長所であり短所でもあると半世紀近く思い悩んできた。

閑話休題。その時、「新城市設楽原歴史資料館」と「長篠城址史跡保存館」を訪れたのだがこのブログでは、今年の干支、「酉」に因んで、長篠の戦には欠かせない逸話である「鳥居強右衛門(とりいすねえもん)」を題材にしたいと思う。

  長篠城址史跡保存館


1575年は、種子島に鉄砲が伝わってから、わずか32年後の戦国時代真っ盛りである。父・武田信玄亡き後、武田勝頼と織田信長・徳川家康連合軍が三河の国・長篠城をめぐって戦った合戦である。

信長軍30,000と家康軍8,000に対する武田騎馬軍団は15,000。

そのとき、武田軍の大軍に対して、長篠城は守備隊わずか500。徳川家康に託された奥平貞昌は長篠城の地の利もあって、武田軍の包囲に対してかろうじて持ちこたえていた。

しかし、城を包囲する武田軍から放たれた火矢が兵糧庫を消失させ、食糧を失った流しの城は一転落城の危機をむかえる事になった。

貞昌は、家康の居る岡崎城に使者を送り、援軍を要請することにした。しかし、城のぐるりを武田軍に包囲された状態で、使者を送ることは不可能かと思われたその時、自らその役目を買ってでたのが、鳥居強右衛門であった。

夜陰に乗じて城の下水口を潜って出発し、見事武田軍の包囲網を突破して、翌朝無事突破の連絡ののろしを上げるために、雁峰山に到達した。

同日の午後、岡崎城に着いて援軍を要請したところ、すでに家康が援軍を要請しておいた織田軍が3万の兵を率いて岡崎城に到着していたのだった。さらに、織田・徳川連合軍合わせて3万8千は、翌朝出発する手はずになっていた。

この朗報を知らせるべく強右衛門は即刻長篠城に引き返した。

  長篠城本丸跡

同じ雁峰山で合図ののろしを上げた後入城しようとしたところ、のろしが上がるたびに城から歓声が上がるのを変だと感じた武田の兵が警戒を強めていた為、見つかって捉えられてしまった。

取調べで、織田・徳川軍が援護に向かっていることを知った武田軍は、強右衛門を使って偽情報を城内に告げさせ、一刻も早く落城させる作戦をとった。

武田勝頼は、命令に従えば強右衛門の命を助けるばかりか武田家の家臣として厚遇することを条件に、「援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ」と城に向かって叫ぶよう、強右衛門に命令したのだった。

勝頼の命令を承諾した強右衛門は、翌朝、長篠城の西岸の見通しのきく場所へと引き立てられ、城の前に磔りつけ柱が立てられ、そこに裸で縛りつけられた。

  強右衛門、磔の絵

しかし、最初から死を覚悟していた強右衛門は、城内に向かって「援軍はあと二、三日で来る。それまでの辛抱である」と、勝頼の命令とは全く逆のことを大声で叫んだ。

強右衛門はその場で武田軍に槍で突き殺されたが、城兵の士気は大いに奮いたち、長篠で織田徳川連合軍が武田軍を撃破するまで、城を守り通すことができた。


援軍の総大将・織田信長も、自ら犠牲となった強右衛門の壮絶な最期を知って深く感銘を受け、強右衛門の忠義心に報いるために立派な墓を建立させたと伝えられている。

・・・・・・・・・・

保存館の資料を見ていると、強右衛門のコーナーに【アラモ】の字が見えた。

何だろうと思って資料を読んでみると、長篠の戦いとアラモの戦いには共に類似点があるのだという。

愛知県岡崎市出身の志賀重昂(しげたか)という当時早大教授だった方が、1914年にテキサス州サンアントニオを訪れた際に、長篠とアラモの二人の兵士の心意気に感激して、漢詩を作り、アラモの砦に石碑を建てたのだそうだ。

   岡崎出身、志賀重昂   

「二人の兵士」というのは、鳥居強右衛門とジェームズ・ボーナムだった。

アラモの戦いというのは、Remember the ALAMO! の話を数日前のブログで書いた。メキシコからの分離独立を目論んで、当時メキシコ領だったテキサスのサンアントニオにあったアラモ砦に立てこもった200名ほどの入植白人たちが、戦いを起こし、数千名のメキシコ国軍に殲滅された戦いであった。

その戦いの最中、援軍を要請するために砦を抜け出したのが、ジェームズ・ボーナムであった。ボーナムは援軍を要請して砦に戻ったが、援軍は来ずテキサス軍は全滅したのだった。

しかも、さほど遠くないところには騎兵隊の軍隊が居たにもかかわらず、アラモ砦は見殺しにされたように全滅し、この結果を契機にして Remember the ALAMO! の合言葉で一気に世論をテキサス奪取の参戦機運に導き、メキシコから分捕ったのだった。

長篠城址の一角には、これが縁でサンアントニオ市から贈られたと言う「カシの木」が植えられていた。

  

新城市とサンアントニオ市との交流に水を指すつもりは毛頭ないが、双方の戦いの意味するところ、さらに援軍要請に命をかけた日米の兵士の最期のあり方と、そのときの援軍の活躍の違いなど、類似性が無いわけではない。だがしかし、双方を同列に見るわけにはいかないのではないか。

新城市には申し訳ないが、そんなことを感じたのだった。

年越しは名画を観ながら

2016年12月31日 | 趣味の世界
2016年が終わろうとしている。

加齢と共にお頭の髪の毛の数は減っていき、増えるのは血圧と血糖値と体重くらい・・・

親父の最期を見てから、長生きなど、大して固執してないから・・などとうそぶいていたのだが、昨今の世界情勢の大変革の予兆を感じてからは、あと10年くらい生き延びて、この世がどう変わっていくかを眺めたいと思うようになってきた。

残り数時間となった平成28年、私たちのオリジナルカレンダーでいうと、皇紀2676年は、私や家族にとって安寧の一年であった。

先日、空いているうちにと思い、お礼参りに神社に出向いておみくじを引いたところ、来年はこれまでの経験が活かせる飛躍の年になると書かれていた。

多くを望まない。

翌年も大過なく暮らせたらと思うのみである。




残った時間は、好きな名画を観て過ごそうかと思う。

選んだ映画は、この二つだった。

  衝撃のラストシーン!

  原題: Up in the Air


どちらも、英語の学習教材として繰り返し観た映画だった。

このブログも一年以上続けられた。

独り言のように書き綴ったブログだが、少しはボケ防止になっているのかもしれないので、PCが壊れない限りもう少し続けようと思う。

それでは、良いお年をお迎え下さい。

カラオケ映像に見る加齢変化量

2016年12月07日 | 趣味の世界
無性に大声をあげて歌いたくなる時があるもので、その日は発作的に飛び込んだのだった。

いつも気になってはいたのだが、カラオケというものは一人では行くところではないと思い込んでいたので、入りにくかったこともある。

しかし、その日は、そこを通るたびに気になっていたカラオケ店の看板が目に入った途端、私はハンドルを回して、駐車場に車を止めた。

何が気になっていたのかというと、「平日3時間10円」と大きく描かれた看板だった。

どんなシステムなのか、一人だけでもいいのか、など気になることもあったので、とりあえず行ってみて聞くだけでもいいかという、自分への言い訳も私の突飛な行動を後押しした。

玄関を入るとすぐフロントがあって、いい歳をした男性が「いらっしゃいませ」と愛想笑いで迎えてくれた。廊下の方から小さく歌声が聞こえていた。

「あのう、初めてなんですけど、ここは一人だけでも大丈夫なんですか?」と切り出すと、男性は料金体系が書かれた小さなパネルを示しながら、まず会員証を作ってもらうことになる。それが300円。そして、料金は平日なら3時間で10円。ただし、ワンドリンク制となっている。

ワンドリンク制とは、必ず300円以上の飲み物を注文しなければならない、ということだった。もちろん、アルコール類ではなく、コーラとかカルピスなどの類で、20種類ほどあった。

さらに、「お一人様料金」として300円追加となる、ということで、これに消費税が追加となるわけだ。何のことは無い。平日に一人の場合は、約1000円じゃないか。

少し「騙された感」があったが、その日私は無性に大声で歌いたかった。

それですぐにシステムを了解したことを告げて、その場でカルピスコーラを注文し、紙お絞りの入った小さな籠を渡されて指定の部屋に向かった。

カラオケに行くたびに、私はフィリピン勤務の頃を思い出す。当時は働き盛りで、毎日夜8時頃まで仕事をして、その後1時間ほどかけて帰宅し、それから一回りも若い連中と一緒にカラオケスナックに出向き、日付が変わるまで騒いだものだった。

同行する若い連中が当時よく歌っていたGLAYの歌を私は自然と覚えてしまった。

休暇で帰国した時、まだ中学生や小学生だった愚息たちを連れて近くのカラオケに行き、覚えたてのGLAYの歌を歌うと、彼らはキョトンとして、「何でこんなに新しいGLAYの歌が歌えるんだ?」という顔をしていたものだった。

私は、早速一人だけのカラオケボックスで、当時何度も歌ったGLAYのヒット曲を歌い続けた。

しかし、声が出ない。サビの一番いいところで、声が全く出ないのだ。

これは加齢の所為なのだろうか。仕方なく音程を一段下げるのだが、どうもそうすると「歌いきった!」感が充足できないという欲求不満を覚えた。

それでも、その後石川さゆりの曲や米米クラブの曲、調子が出てきたので、エルビス・プレスリーの曲や、フィリピンのフォークシンガー、フレディ・アギラの曲など歌いまくった。

演歌も好きなので、堀内孝雄の恋歌綴り、影法師なども歌ったが、やはりサビの部分で声が出ず、とても人に聞かせられる出来ではなかった。(一人だからどうでも良かったが)

時の流れは私の声帯を硬直させてしまったようだが、モニター画面に登場した堀内孝雄の顔が若かったこと。これも時の流れを痛感させてくれた。

   若さみなぎる、アリスの頃のベーヤン


今、NHKやBSの歌番組で見かける堀内孝雄は、顔がむくんでしまって、往時の面影はすっ飛んでしまっている。まあ、それでも、アリスの時の相棒、谷村新司ほどの変化量ではないだけマシか。

  演歌歌手、堀内孝雄。むくみが気になる


今回わかったこと。一人カラオケも、結構ストレス発散になるもんだが、帰るときは少しさびしさもあった。また、衝動が起きたら行くことにしよう。




ほろ酔い気分、ぶち壊す速報

2016年11月28日 | 趣味の世界
今日は月曜日。

月曜日の楽しみといえば、夜9時から始る唯一TBSのお気に入り番組、「吉田類の酒場放浪記」を観てほろ酔い気分になることだ。

今夜も猫舌に悶々とする吉田類を観て、笑いながらほろ酔い気分になっていた。

  居酒屋の臨場感たっぷり

すると、ピッ、ピッという音と共に、ニュース速報のテロップが出た。

ASKAが覚せい剤使用で逮捕された、という速報ニュースだった。

私にとってはどうでもいいニュースで、速報するほどのことでもないと思うのだが、世間はそうではないのだろうか。

あの男が、真面目に更生したとでも思っていたのだろうか。

  更生する決意はまったく感じられなかった

世間はこの手の芸能人や運動選手に少し甘々なところがあるのではなかろうか。

当人もそういう甘い世間を見透かしているところがあると思うのだが・・・。

見ていろ、そのうちコイツも後を追うから。

  


頼むから、小市民の楽しみな月曜の夜のほろ酔い気分を、ぶち壊さないでくれ。


立ち読み → 衝動買いの本

2016年11月13日 | 趣味の世界
最近のマイブームは「鯖缶」(さばの水煮缶詰)で、ほぼ毎日何らかの形で口にしている。買いだめしておいた在庫が減ってきたので、百均ショップに買出しに行ってきた。

買い物を終えて、向かいにある本屋に立ち寄ってみた。読みたい本のほとんどは通販で購入しているので、本屋に立ち寄るのは、平積みされている本を眺めて、最近の売れ筋本はどんなものかをぼんやりと見るのが目的だった。

面白いもので、書店の一押しの本はどういう傾向の本であるかが分かるもので、新書本などで、やたらと左翼系の「評論家」の著作を高く平積みしてあったりして、「ははぁ~ん、ここの書店の店主は、こいつらの書いた本を読ませたがっているのだな」と察することができる。

そんな時私は、知らん顔をして、その類の本の一番上に、保守系の評論家の本をポンと置いておくことにしている。

サラッと様子をみてから帰ろうと出口に向かう途中、『九十歳。何がめでたい』という、佐藤愛子の本が目にはいった。帯には、「黒柳徹子さん瀬戸内寂聴さん・・・みなさん、泣いて笑って大絶賛」と書かれていた。

佐藤愛子といえば、昔から週刊誌などで小気味いいエッセイを披露していたので、私はよく愛読していた。曽野綾子さんを一回りざっくばらんにしたような文の調子で、「こちとら江戸っ子よぉ!」と言い出しそうなイメージがある作家だと思う。

   本が私に声をかけてきた・・

一冊手に取って立ち読みした。たまたま開いたページが「来るか?日本人総アホ時代」というタイトルのエッセイのページだった。佐藤愛子がこのタイトルで何か書くとなれば、面白くないわけがない。

それは、タクシー運転手と盛り上がった「スマホ」の話題であった。

一気に読んだ後、私は迷わずその本を持ってレジに向かった。

  御歳93


たまに本屋に立ち寄ると、こういうめぐり合いがあるので、いくらアマゾンが便利だとはいえ、街から書店が消えてしまうのは嫌である。

家について、早速読み始めているが、93歳になってもこういうシャレた文章を書けるなら、高齢者も捨てたモンじゃない。

私もこういうタイプのお年寄りにあやかって歳を重ねたいものだと思う。

ちょっと前、この佐藤愛子とほぼ同い年の老婆が、勝手なことをほざいて、日本中の顰蹙を買ったばかりだった。例の尼僧コスプレの腐敗臭の漂う老作家だ。

   御歳94


同じ老齢の女性作家でも月とスッポンのようだが、この違いを生じさせる要因は果たしてなんなのだろうか?