孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

行って来ました、五箇山へ

2016年11月05日 | 趣味の世界
1543年に鉄砲が種子島に伝わった話から、鉄砲に欠かせない火薬を仕入れるために、一樽30人の日本の娘さん達が奴隷として外国に売られていたこと、その火薬に欠かせない硝石が貴重な材料であること。

中世ヨーロッパの石畳の下には、結晶化した硝石が存在していたこと。その訳は、当時はトイレが無く、窓から道路に糞や尿を投げ捨てていたため、石畳の間から染み込んだアンモニアが長い年月をかけて硝石の原料に変化していたこと。

日本も硝石を自給する必要性が生じ、密かに隠れ里で硝石の製造が進められることになったこと。その背景には、浄土真宗(一向宗)勢力があり、密かに布教と硝石製造が重なって、越中五箇山の里が硝石の生産基地に発展していったこと。



それがやがて、加賀藩に莫大な利益をもたらし、加賀百万石の礎になったこと。

たった二丁の鉄砲が、60年足らずの間に5万丁にも増え(関が原の戦い)、当時の世界でも際立った武器国家を成り立たせていた、その原料供給基地が、越中富山と岐阜県の県境に存在していたことは、学校の歴史の先生は一言も教えてくれなかった。

そこで、一日休みを取って、早朝5時に家を出発。

家の近くの新東名高速のインターチェンジから富山県に向かったのだった。

  五箇山菅沼集落

  五箇山相倉集落

帰りの車中では、行ってみて新たに分かったことがいくつかあり、私の頭の中はクルクル時空を駆け巡り、五箇山のすぐ近くにある白川郷などどうでもよくなって通り過ぎてしまい、帰りがけに郡上八幡あたりにも立ち寄ろうかと考えていたが、それも取りやめ。

さらにネットで調べたいことが山積してきたため、家路に直行したのであった。

その話は、明日以降に・・・。


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