goo blog サービス終了のお知らせ 

孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

小夜の中山 浮世絵美術館・夢灯

2016年05月02日 | 趣味の世界
  これも広重の東海道「日坂」

開館日は、土日、祝日だという浮世絵美術館・夢灯(ゆめあかり)は館長である武藤勝彦さん所蔵の浮世絵コレクションを、約40枚ずつ年4回の入れ替えで展示している。

ネットで検索すると、それは掛川市の公式ホームページの中に紹介されていると分かった。動画サイトYoutube でも武藤さんがその成り立ちなどを紹介している。

 広重の「日坂」の前で、

私が訪れたときは他に来館者は誰もいなくて、ひっそりとしていたが、美術館前の駐車場のスペースは意外と広いので、ハイカーだけでなく遠路から自家用車で訪れる人も多いのかもしれない。

公立の東海道広重美術館は、館内を一定の暗さに保っているせいか、どこか陰気な印象がしたものだが、夢灯は来館者があればこの明るさで紹介する、という館長のご説明どおり、通常の明るさで浮世絵が鑑賞できるので、非常に新鮮な雰囲気であった。



それに、館長も仰っていたが、ここの贅沢なのは、できる限り館長自らが一緒に観て廻って解説してくれることにある。

広重の東海道五十三次といっても、同じ宿場の浮世絵は数種類ずつあるそうだ。そして今の時期の展示作品は、「日坂・掛川の宿展」であったので、広重の「日坂」の浮世絵といっても、文字の書体が異なる、「行書東海道」版や「隷書東海道」版、それに広重だけでなく葛飾北斎の作品も数点展示されていた。

それらを見比べながら、貸してくれた虫眼鏡片手に見比べるのは、何とも贅沢なことである。おまけに丁寧な解説が次々に沸いてくる疑問に即座に応えてくれるし、好奇心を充足してくれるので、入館料300円はあまりにも安すぎると感じた。

館長も解説してくれたが、美術館の建っている場所は、広重の浮世絵の構図から見て、「広重はこの位置からこの方向を見て、絵にした」という正にその場所であった。



松並木の向こうに見える粟が岳(別名:無間山)が見える。山肌にはヒノキで「茶」という一字に植えられていて、かなり遠方からでも読み取れるが、これは江戸時代にはなかった。

しかし、美術館のバルコニーに出ると眼前に無間山が見えて、贅沢な借景を味わうことが出来た。

ご自分のコレクションの中から厳選してカレンダーを作製して販売しているようだから、来年は是非購入してみようかと思う。

浮世絵ファンならずとも、一度立ち寄る価値はあるのではないか。旧東海道のお勧めのスポットであることは間違いない。


日坂・小夜の中山・夜泣石

2016年05月02日 | 趣味の世界


東海道広重美術館で観た浮世絵、「日坂」の中央下に描かれた石のことが気になり、ハイキングのつもりで現場を訪れてみることにした。

この絵は確かに急な坂道をデフォルメしているが、実際の坂も相当なもので、当時の旅人達を苦しめるのにも十分な難所であったことが判る。

絵の右側は方角でいうと西にあたり、西を向いて左手に富士山が描かれているこの浮世絵は明らかに矛盾しているわけだが、当時の名所絵は今で言う観光ガイドブックのようなものであったので、こういう矛盾は他にも結構存在するようである。

つまり、この辺りは急な坂があり、街道の真ん中に大きな石があり、富士山も見える場所ですよ、という情報を提供することに意義があったようだ。

ところで、この大きな石は「小夜の中山・夜泣石」として当時から有名であったらしい。地元に伝わる伝説が由来になっているようだが、話はあの『南総里見八犬伝』(1814 刊行)で有名な滝沢馬琴(曲亭馬琴)の『小夜中山復讐 石言遺響』(さよのなかやまふくしゅうせきげんいきょう)1804、が元になって広まったそうだ。



話を要約すると、こうなる・・・。


 『小夜の中山峠は、旧東海道の金谷宿と日坂宿の間にあり、急峻な坂のつづく難所であった。お石という身重の女が小夜の中山に住んでいた。ある日お石がふもとの菊川の里で仕事をして帰る途中、中山の丸石の松の根元で陣痛に見舞われ苦しんでいた。

右衛門という男がしばらく介抱していたのだが、お石が金を持っていることを知ると斬り殺して金を奪い逃げ去った。刀の先が石に当たって深手には至らなかったが、お石は絶命した。しかしその傷口から赤子が生まれた。

お石の霊は丸石に乗り移り夜毎に泣いた。その声を聞いた近くの久延寺の和尚が赤子を寺に引き取り音八と名付け、お乳の代わりに水飴を作って育てた。

音八は成長すると、大和の国の刀研師の弟子となり、すぐに評判の刀研師となった。

ある日、音八は訪れた客の持ってきた刀を見て「いい刀だが、刃こぼれしているのが実に残念だ」というと、その客は「去る十数年前、小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったため、音八はこの客が母の仇と知り、名乗りをあげて見事恨みをはらしたのだった。』



越すに越されぬ大井川の東側は「島田宿」、そして反対側の西側は「金谷宿」、そして次が「日坂宿」、「掛川宿」と品川から始る東海道は京都まで続いた。

金谷の旧東海道の一部は数百メートルに渡って石畳が十数年前に再現されている。



その途中には「すべらず地蔵尊」という祠があり、横にはたくさんの祈祷絵馬がぶら下げられていた。「公立大学に合格できますように」とか「希望の高校に入学できますように!」などという神頼みの言葉が書かれている。



試験に「すべらないように」という祈願と、坂道を石畳で滑らないようにという洒落で地元の誰かが始めたのだろうが、事実は石畳の石が河原から持ち込んだらしく、みな丸みのある石のため、特に雨上がりなど濡れた枯葉や苔のため、ツルツル滑るのである。

冗談抜きで、登り口には「滑るから要注意!」という看板が必要だと思っている。特に高齢者や子供たちが滑って膝でも石にぶつければ、膝の皿を割るような事故になりかねない。賽銭箱の小銭や絵馬の売上げを得ようなどという主催者は実態を知るべきではないかと感じた。



金谷の石畳の坂を上りきって数分歩くと、今度は菊川市の石畳の下り坂が左手に続いている。金谷宿と日坂宿の中間に位置する菊川を過ぎると、浮世絵にあるような急峻な坂道が始る。ハイキングコースの中でもかなりきつい登り坂であった。



坂を登りきって少し歩くと、右手に真言宗・久延寺(きゅうえんじ)が見えてくる。赤ん坊を助けた和尚のいたお寺で、今でも「夜泣石」を祀った祠があるが、その石はゆかりある石ではなく、街道の人たちが街道沿いで見つけて、お寺に運び込んだ「偽物」らしい。

  久延寺の夜泣き石(偽物)・・・。

本物の「夜泣石」は、明治14年に見世物興行として東京に運ばれた後、焼津にほったらかしにされていたのを、地元の人たちが、国道1号小夜の中山トンネルの手前(東京側)の道路脇に運んだそうだ。

  

 伝説の夜泣石。

 夜泣き石、後ろから・・。

旧東海道沿いの久延寺に偽物といわれる夜泣石が。そして、そこから西に向って1.7 km
の道沿いに、夜泣石があった場所という石碑と、石にはめ込まれた広重の浮世絵の石碑がある。

 元来夜泣石あった場所、という石碑

 広重の浮世絵、「日坂」

本物、偽物入り混じってややこしいが、以前から見世物のネタとされていたようである。



私は偽物とは分かっていながら久延寺の夜泣石に手を合わせてから山門を出て、隣にある茶店を眺めていると、店のおばさんが親しげに「どこから来たのか・・」と話しかけてきた。

「いや隣町から歩いてきました。本物の夜泣石がある場所に行くにはどう行けばいいのでしょうか?」道順を尋ねると、店先でお茶を飲んでいた高齢の紳士然とした方が、「今来た道を1km 程戻って左折すればいい・・・」と教えてくれました。

「そうですか。ありがとうございます。」とお礼を言ったついでに、「小学生のとき、遠足で一度来た事があったのですが、由比の広重美術館で日坂の浮世絵を観て、急にもう一度見たくなったので・・・」と言うと。その紳士の表情が一変したのだった。

「由比の美術館には展示してない浮世絵がたくさんありますよ、私の方は・・・。」と言います。おばさんも話しに加わって、「先生の美術館を一度観られたら如何です?」と勧めるのだった。

私は、正直言って、どこにでもいる「郷土史研究家」類だな、きっと、と思ってあまり乗る気がしなかった。紳士はスッといなくなり、私も歩を進めようとすると、店のおばさんが、「一度観ても損はないと思いますよ。すぐとなりですから・・・。」と言う。

それじゃあ、とその美術館に立ち寄ることにした。



『夢灯(ゆめあかり)』と掘られた小さな木製の看板が入り口にあった。

その個人の浮世絵コレクションを展示した小さな美術館は、実はお宝の宝庫であった。ちょっと覗くだけのつもりが、話が弾んだため、1時間以上滞在することになったのだった。(続く)





日坂・小夜の中山・夜泣石

2016年05月02日 | 趣味の世界


東海道広重美術館で観た浮世絵、「日坂」の中央下に描かれた石のことが気になり、ハイキングのつもりで現場を訪れてみることにした。

この絵は確かに急な坂道をデフォルメしているが、実際の坂も相当なもので、当時の旅人達を苦しめるのにも十分な難所であったことが判る。

絵の右側は方角でいうと西にあたり、西を向いて左手に富士山が描かれているこの浮世絵は明らかに矛盾しているわけだが、当時の名所絵は今で言う観光ガイドブックのようなものであったので、こういう矛盾は他にも結構存在するようである。

つまり、この辺りは急な坂があり、街道の真ん中に大きな石があり、富士山も見える場所ですよ、という情報を提供することに意義があったようだ。

ところで、この大きな石は「小夜の中山・夜泣石」として当時から有名であったらしい。地元に伝わる伝説が由来になっているようだが、話はあの『南総里見八犬伝』(1814 刊行)で有名な滝沢馬琴(曲亭馬琴)の『小夜中山復讐 石言遺響』(さよのなかやまふくしゅうせきげんいきょう)1804、が元になって広まったそうだ。



話を要約すると、こうなる・・・。


 『小夜の中山峠は、旧東海道の金谷宿と日坂宿の間にあり、急峻な坂のつづく難所であった。お石という身重の女が小夜の中山に住んでいた。ある日お石がふもとの菊川の里で仕事をして帰る途中、中山の丸石の松の根元で陣痛に見舞われ苦しんでいた。

右衛門という男がしばらく介抱していたのだが、お石が金を持っていることを知ると斬り殺して金を奪い逃げ去った。刀の先が石に当たって深手には至らなかったが、お石は絶命した。しかしその傷口から赤子が生まれた。

お石の霊は丸石に乗り移り夜毎に泣いた。その声を聞いた近くの久延寺の和尚が赤子を寺に引き取り音八と名付け、お乳の代わりに水飴を作って育てた。

音八は成長すると、大和の国の刀研師の弟子となり、すぐに評判の刀研師となった。

ある日、音八は訪れた客の持ってきた刀を見て「いい刀だが、刃こぼれしているのが実に残念だ」というと、その客は「去る十数年前、小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったため、音八はこの客が母の仇と知り、名乗りをあげて見事恨みをはらしたのだった。』



越すに越されぬ大井川の東側は「島田宿」、そして反対側の西側は「金谷宿」、そして次が「日坂宿」、「掛川宿」と品川から始る東海道は京都まで続いた。

金谷の旧東海道の一部は数百メートルに渡って石畳が十数年前に再現されている。



その途中には「すべらず地蔵尊」という祠があり、横にはたくさんの祈祷絵馬がぶら下げられていた。「公立大学に合格できますように」とか「希望の高校に入学できますように!」などという神頼みの言葉が書かれている。



試験に「すべらないように」という祈願と、坂道を石畳で滑らないようにという洒落で地元の誰かが始めたのだろうが、事実は石畳の石が河原から持ち込んだらしく、みな丸みのある石のため、特に雨上がりなど濡れた枯葉や苔のため、ツルツル滑るのである。

冗談抜きで、登り口には「滑るから要注意!」という看板が必要だと思っている。特に高齢者や子供たちが滑って膝でも石にぶつければ、膝の皿を割るような事故になりかねない。賽銭箱の小銭や絵馬の売上げを得ようなどという主催者は実態を知るべきではないかと感じた。



金谷の石畳の坂を上りきって数分歩くと、今度は菊川市の石畳の下り坂が左手に続いている。金谷宿と日坂宿の中間に位置する菊川を過ぎると、浮世絵にあるような急峻な坂道が始る。ハイキングコースの中でもかなりきつい登り坂であった。



坂を登りきって少し歩くと、右手に真言宗・久延寺(きゅうえんじ)が見えてくる。赤ん坊を助けた和尚のいたお寺で、今でも「夜泣石」を祀った祠があるが、その石はゆかりある石ではなく、街道の人たちが街道沿いで見つけて、お寺に運び込んだ「偽物」らしい。

  久延寺の夜泣き石(偽物)・・・。

本物の「夜泣石」は、明治14年に見世物興行として東京に運ばれた後、焼津にほったらかしにされていたのを、地元の人たちが、国道1号小夜の中山トンネルの手前(東京側)の道路脇に運んだそうだ。

  

 伝説の夜泣石。

 夜泣き石、後ろから・・。

旧東海道沿いの久延寺に偽物といわれる夜泣石が。そして、そこから西に向って1.7 km
の道沿いに、夜泣石があった場所という石碑と、石にはめ込まれた広重の浮世絵の石碑がある。

 元来夜泣石あった場所、という石碑

 広重の浮世絵、「日坂」

本物、偽物入り混じってややこしいが、以前から見世物のネタとされていたようである。



私は偽物とは分かっていながら久延寺の夜泣石に手を合わせてから山門を出て、隣にある茶店を眺めていると、店のおばさんが親しげに「どこから来たのか・・」と話しかけてきた。

「いや隣町から歩いてきました。本物の夜泣石がある場所に行くにはどう行けばいいのでしょうか?」道順を尋ねると、店先でお茶を飲んでいた高齢の紳士然とした方が、「今来た道を1km 程戻って左折すればいい・・・」と教えてくれました。

「そうですか。ありがとうございます。」とお礼を言ったついでに、「小学生のとき、遠足で一度来た事があったのですが、由比の広重美術館で日坂の浮世絵を観て、急にもう一度見たくなったので・・・」と言うと。その紳士の表情が一変したのだった。

「由比の美術館には展示してない浮世絵がたくさんありますよ、私の方は・・・。」と言います。おばさんも話しに加わって、「先生の美術館を一度観られたら如何です?」と勧めるのだった。

私は、正直言って、どこにでもいる「郷土史研究家」類だな、きっと、と思ってあまり乗る気がしなかった。紳士はスッといなくなり、私も歩を進めようとすると、店のおばさんが、「一度観ても損はないと思いますよ。すぐとなりですから・・・。」と言う。

それじゃあ、とその美術館に立ち寄ることにした。



『夢灯(ゆめあかり)』と掘られた小さな木製の看板が入り口にあった。

その個人の浮世絵コレクションを展示した小さな美術館は、実はお宝の宝庫であった。ちょっと覗くだけのつもりが、話が弾んだため、1時間以上滞在することになったのだった。(続く)





東海道広重美術館の浮世絵がきっかけで、、、

2016年05月01日 | 趣味の世界
薩埵峠(さったとうげ)では富士山を見ることは出来なかったが、これはただ運が悪かっただけ。また改めて行ってみようと思う。富士山はどこにも行かない。

 薩埵峠(さったとうげ)からの絶景

国道に戻ってから由比の街中にある、「東海道広重美術館」に向った。車で20分も走っただろうか。連休が始ったせいで、駐車場はほぼ満車だったが、何とか見つかった。



浮世絵は世界に誇れる日本文化の一つだと思う。「東海道広重美術館」では、多色摺りの体験ができること知られている。しかし、私はあのぼかし、グラデーションがどのようにして
摺られるのか、もう少し知りたかったので解説があることを期待して訪れた。

 広重の薩埵峠(さったとうげ)

どうも、摺り師が版木に色付けするときに水を使ってあのぼかしを作るらしいのだが、大変難しい技法で熟練を要したようだ。

葛飾北斎に版元が舶来のプルシアン・ブルー(ベルリン藍)とか、当時はなまってベロ藍とか呼ばれた鉱物顔料を渡して、「冨嶽三十六景」の空や水に使用しそのシリーズが爆発的な大ヒットしたために、一気に広まったそうだ。

広重の東海道五十三次シリーズにも、このベロ藍が使われて、見事なグラデーションで奥行き感を醸し出している。



展示作品を観ていて、私は一枚の浮世絵が気になった。それは、「日坂・小夜の中山」
という作品だった。



強烈にデフォルメされた上り坂の道路の真ん中に大きな石があり、旅人達が近くでその石を見ている。そしてその左手には遠くに富士が見える。

この場所は私の自宅から近いところだ。多分車なら30分もかからないだろう。街道の真ん中にある大きな石にも何となく心当たりがあった。

私は急にこの場所に行ってみたくなったのだった。(続く)

富士は眺めるもの

2016年04月30日 | 趣味の世界
早朝、昨日植えたキュウリ、ナス、オクラに水遣りをしようと外に出たら、地面が濡れていた。気がつかなかったが、昨夜はかなり雨が降ったようで、夏野菜への水遣りはしなくてもよかった。

 甘夏の真白な花

玄関のドアを開けて2~3歩いたら、ぷ~んと嗅覚を刺激した香りが・・・。

それは庭に植えてある夏みかんの花の香りだった。


 酸っぱくない甘夏

今年は裏年らしく、去年ほど実を付けなかったようだが、この甘夏の味は格別だ。しかし、花の香りがこれほど強烈で、しかも心地いいものだとはこの歳になるまで知らなかった。

今日は天気が良さそうなので、これまで行こう行こうと思っていたが行けずにいた、薩埵峠(さったとうげ)に出掛けることにした。

運がよければ富士山が駿河湾越しに見える絶景を味わえる。運がよければ。

国道のバイパスだから制限速度は60km/h だと思うのだが、車の流れはもっと速い。70km/h 以上で走行しないと流れに乗らなかった。約1時間ほどで峠近くの駐車場に到着した。連休中にしては渋滞せずに来れたのは意外だった。



狭い駐車場だったが運良く一台分空いたのでほとんど待たずに駐車できた。車を降りてすぐに富士山の方向に目をやると、頂上付近が雲の間からかすかに見えたので、すぐにシャッターを押した。



峠の小さな展望台まで歩いて数分ということなので、歩いているうちに運がよければ雲が晴れて富士山の全貌が現れるかもしれない、と期待しながら旧東海道であるハイキングコースに向った。





若いカップルの会話がすれ違い様に聞こえた。

「ねぇ、昔の人はホントにこの狭い道を歩いて旅したのかなぁ・・・。」

私も同じ疑問を抱いていたのだが、そんなことよりも私はすでに時空を飛び越えて、忠臣蔵の武士達が殿中で起きた内匠頭刃傷沙汰やその後の切腹などを、早籠を飛ばして赤穂に知らせるためにこの薩埵峠(さったとうげ)を超えている光景を夢想していたのだった。



展望台には絶景を期待したハイカー達が集まっていたが、みんな口々に富士山が全く見えないことを愚痴っていた。



それもそのはず、ほんのちょっと前には少し見えた富士山の頂上すらも雲に隠れて全く見えなかったのだ。

富士山は日本で一番高い独立峰のため、雲が発生しやすく、天気はめまぐるしく変化している。

以前、富士山の五合目で外国人相手の登山指導のアルバイトをやった事があるが、標高2400mの五合目にいても、頂上が見えることは稀であった。

地方空港としては珍しく利用客が増えている「富士山静岡空港」は、立地としては富士山の絶景が眺められる場所にあるのだが、肝心の富士山はなかなか顔を出さないことで有名である。

絵葉書などであまりにも有名な、左手に崖、緩やかにカーブする高速道路を挟んで右手に駿河湾、そして遠くにはエレガントな稜線を伴った富士山の絶景は、運がよくないと拝めない。それはこんな絶景なのである。



遠くから見るだけではつまらない、と言って富士山を登ろうとすればこの絶景を味わうことは絶対に出来ない。そこは無味乾燥なただの高い山でしかない。

女もしてみんとてするなり

2016年03月06日 | 趣味の世界
インターネットで気になったことを検索すると、次から次へと疑問が湧いてきて、時間を経つのを忘れることがある。

今日も、どういう切っ掛けだったか忘れたが、「をとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみんとて、するなり」ってのは、何と言う古典の始まりだったかなと思って調べていると、思いがけない情報に突き当たって、何か得した気分になった。

問題の一文は、紀貫之の「土佐日記」の冒頭の文で、「男も書くと聞いている日記というものを女である私もしてみようと書く。」といった意味で、男の紀貫之が女性のフリをして書いたという解釈で、私も高校の古典の授業でそう習った気がする。

ところが、今から9年ほど前、筑波大学名誉教授の小松英雄という研究者が新しい解釈を自著の中で発表したのだそうだ。

その新解釈というのは、紀貫之が女性のフリをして書いているにしては、理解に苦しむ箇所が多いという疑問から始ったようで、「をとこもすなる・・」の「をとこもす」は「男文字」のことで、すなわち漢字を意味している。

そして、「をんなもしてみんとて・・」の「をんなもし」とは「女文字」、すなわち「仮名文字」のこと意味しているという解釈だった。

すると、冒頭の一文の意味は、「一般的には漢字で書く日記というものを、仮名文字でやってみようと書く。」となるわけだ。

紀貫之が女性のフリをして日記を書いた、という解釈が、いやそうではなくて、本来漢字で書くものだが、ひらがなで書いてみる、女性が日記を書こうとするのではない、という新解釈であったが、当時の他の古典研究者たちには受け入れられず、ほとんど無視されたようだった。

しかし、当時の言葉遊びとして、そういう掛け言葉的な意図がなかったと言えなくもないという学者も中にはいるようで、なかなか面白い研究もあるものだなと思った。



最近は、よく男なのに女言葉を話す、性別不詳の方がテレビに出ているが、こういう人は、体は男でも心は女の状態で生まれたそうで、世の中には結構存在するようである。



大金を積んで性転換手術までするそうで、彼らが悩んできた心情は、私には到底理解できない。理解したくもないが、この手の人たちもテレビ局の指図なのか知らないが、あれやこれや評論家まがいのことを喋り始めると、私は少し不愉快になる。

今の高校ではどのくらい古典を勉強するのか知らないが、習っているのだろうか。古文の授業で習った文章がいまだに口から出てくることがあって、自分でも驚くことがあるが、授業中指されて読んだときは、しどろもどろでほとんどまともに読めなかったものだった。

先生の朗読に合わせて読んでいるうちに、だんだん慣れてきて、なんとなく意味まで分かってくるのが面白かった。

「方丈記」など、今でもスラスラ出てくるのだが、当時暗記しようと取っ組んだ記憶がもうないのである。きっと、意味が気に入ったので忘れないでいるのだと思う。

古典から、学ぶことはたくさんある。何より、時代背景や当時の人の心情などは、授業で学ぶには、奥が深すぎるくらい深いものだ。







和服、それは癒しの普段着

2015年07月25日 | 趣味の世界
「アツはナツいなあ・・」と言って笑わせた、落語のような芸名のお笑い司会者がいたが、いつもこの時期になると、私もついこれを口に出して言ってしまうのが癖になったようだ。

しかし、暑いから夏なのであって、日差しの少ない雨続きの6月よりは、まだマシだと思いたい。

日本人の知恵とセンスが産んだ文化の一つに、女性の和服がある。単に和服と言えばいいものを、敢えて「女性の」と頭に付けたのには、見栄えが女性の方がずっといいと思うからである。

日本女性の着る和服とはこんなにすばらしいものかと実感したのは、私がマニラに赴任していた20年ほど前のことだった。



日曜日にショッピングモールの中にあるスーパーマーケットで、涼みながらブラブラ買い物をしているときだった。反対側から、見た感じ50代の女性が夏物の涼しそうな生地の和服を着て、棚の商品を見ながら歩いてきた。傍らには恐らくフィリピン人のメイドさんだろう、カートを押しながら指示された商品をカゴに入れていた。



和服の柄はいたってシンプルで、派手さはまったくなく、それがまた女性の上品さを水増ししているようだった。メードさんと話す時の所作も、何となくエレガントな雰囲気を醸し出し、上から下までバッチリ決った感じの、これぞ「日本の女性」と誇りたくなる方だった。あまりにも、感激したのでその後自分の買い物などそっちのけで、その女性の後を距離を保って暫く追い続けたのだった。

暑いときは、なるべく肌を露出したいところだが、和服はそうではない。やはり、肌が陽に焼けるのを避けたのか、裾も袖も短くなるようなことはなく、素材やデザインに涼の効果を求めた。

何でもかんでも短くして、露出すればいいものではない、といういい例が自動車レースなどでは欠かせない、レースクイーンという女性たちの格好である。ハイレッグの水着というのかレオタードというのか、それを着て、何と足にはハイヒール、しかも大きな日傘を手にしたりして、盛んにポーズをとっている、お嬢さんたちである。

私は、あれほど醜悪で滑稽で不恰好な存在は他にないと思っているが、私の高校の同級生の一人などは、彼女たちの写真をとる目的で、日本中にオートバイで出かけるほどだという。お前は「蓼食う虫だ」と冗談を言っても、「次は鈴鹿に行くんだ」と張り切っていた。

私は昭和の邦画を好んで見るが、女優の和服姿を見るのがその魅力の一つでもある。さりげなく着た和服の柄にハッとさせられたり、和服姿での日本女性独特の身のこなしを見るのは、立派な工芸品を眺めるような快感を感じさせてくれる。

中でも、私の大好きな高峰秀子さんの和服姿は素敵だ。



奇抜な柄だが、見た人を釘付けにしてしまう和服を着て、颯爽と歩くこの写真はいつまで見ても飽きることはない。



和服を着た女性が階段を上がる際に、チラリと見える足首がどれほど男をドキッとさせるか、女性には分かるまい。この階段を上がる高峰秀子の写真も、私の本棚に燦然と輝く「高峰秀子写真集」に載っているお気に入り一枚だ。

古典の「今昔物語」には、有名な久米仙人の話がある。

大和・吉野の龍門寺で仙人になる修行を積んだ久米という名の男が、見事神通力を得て空を飛んでいるときに、吉野川に入って洗濯をする若い女性を見た。

着物をまくり上げて、洗濯をするその女性の白いふくらはぎを見てしまった久米は、瞬時に湧いた欲望の所為か、神通力を失ってしまって、吉野川にドボンと墜落してしまった。その後、仙人としての神通力を失った彼は、その娘と夫婦になり、普通の男としてその地で暮らしたという。



女性の白い肌は、布で覆って隠さなければいけない、と中東発祥の宗教は説いているが、洋の東西を問わず、人類共通の感性なのだと、普段感じなかった親近感をおぼえる。

ところで、普通の男になった元仙人・久米は、その後都造りの人夫募集に参加した。そこで、久米が元仙人だったと聞いた役人に言われて、昔得た神通力を使って材木を一気に空を飛ばして運んでくれぬか、と頼まれたのだった。役人はもちろんからかい半分だった。

ところが、久米は七日間食を断って念じた結果、見事にすべての材木を空を飛ばして造営地に運んでしまったのだった。この話が天皇の耳に入り、褒美に土地を与えられた。そこに彼は伽藍を建てた。今も、奈良にある久米寺の由来である。

めでたし、めでたし・・で終わるこの手の話は、古典に埋もれている。



赤い蹴だし・・・

2015年06月08日 | 趣味の世界
人間、歳を重ねると演歌が好きになるのだろうか。最近は、特にテレビやラジオで演歌のメロディーが聞けない所為か、妙に演歌を聴きたくなる。

この間、久しぶりにカラオケに行く機会があったが、「天城越え」とか、「みだれ髪」など、演歌を歌っていい気分になった。演歌は、そのメロディーもいいが、歌詞がすばらしいと思う。

『髪のみだれに 手をやれば、赤い蹴だしが 風に舞う』で始る「みだれ髪」という歌は、星野哲郎の作詞だそうだが、いつ歌っても実に味わい深い歌詞で、メロディーと共に名曲だと思う。最初聞いたとき、「蹴だし(けだし)」の意味が分からず、暫く意味を知らずに歌っていたが、ある時曲と共に流れた映像で、ああ、着物の裾でチラチラ見える赤いヤツのことかと、初めて知った。



徳島の阿波踊りを踊る女性の着物の裾に見える赤いけだしが印象的だ。二番の歌詞もたまらなくいい。『春は二重に巻いた帯 三重に巻いても余る秋』、何で苦労したのか、ひと夏で随分痩せたものだが、その表し方が心憎いではないか。

私は、こういう歌詞をメロディーに載せて歌うたびに、ああ、日本語はすばらしいなあ、奥深い言葉だなあと感激してしまう。

それに比べれば、英語など語彙が多いようで、日本語の足元に及ばず、ラテン語やギリシャ語をかき集めたような、何とも単純な言語だと思う。

将来を担う日本の若者たちが、こんなきれいな日本語をさておいて、英語ごときの勉強に時間を割くなど、何度考えても馬鹿馬鹿しいと思ってしまうのである。