GSゲルマニウム原人の退屈な日々

見わたせば、気になることばかりなり・・

ブルースセッションでもどう?

結論は出せるのか

2009年06月17日 08時16分33秒 | 徒然なるままに
臓器移植法案の改定が18日に採決らしいけれど。

要は日本から「善意の募金」という現金を持って海外で移植手術を受ける人が増えすぎて、移植を待っているその国の患者さんの順番が後回しにされちゃったので「おいおい、そりゃないだろ」っていう事が有るわけだ。他にも、臓器の売買など見えない所で怖ろしい事件も起きたりしていることも大きな原因だろう。

なので、移植手術は自分の国の中で完了させなさいよと、WHOが言ってきたわけだ。

結局は脳死の判定、とらえ方の問題なわけで個人的には古くさいと思われても良いけれど「脳死は死じゃない」という気持ちだ。これはもう科学でも理屈でも無くってあくまで「感情」的な意見なので、そこ突っ込まないように♪(よく解っていないんだから)

明らかに心臓も脳もアウトになってしまった状態からでも移植出来る「皮膚」とか「角膜」などや、生きている人から分けてもらえる骨髄や腎臓・肝臓に関しては比較的お互いに提供する側も受け取る側も気持ちの持ちようがスムーズだと思うが、動いていなくては成らない心臓を脳が死んでいるから取ってしまうっていうのはどうも感情的に受け入れがたい。

特に子供の場合、何度も言うけれどこれはあくまで私の感情論だけれど、例え機械的にでも心臓が動いていて、体温もあって、もしかしたらこの機械を外しても弱々しいながらも心臓が動いていてくれるかも知れないのに「余所様の子供」のためにあげるなんて事は絶対に嫌だ。

申し訳ないが見た事もない他人の子供の命より、目の前の自分の子の限りなくゼロに近い命の方が比較するのも馬鹿馬鹿しいほどに大事だと思っている。

これまた、大反感を買うかも知れないけれど……昔なら、亡くなっていた病気を、生きているか死んでいるか答の出せない人の命を奪ってまで治療しなくてはいけないんだろうか?

現代科学の力で、薬や機器を使って助けるのは進歩だと思うのだが、一つの終わりかけているかも知れない命を、終わる可能性のあるもう一つの命に譲るというのはどうも進歩では無い気がするのだ。それよりサイボーグ化とか人工臓器の開発をもっともっと進める事の方が大切なんじゃないだろうか。

たとえ動かなくたって、いろんなチューブだらけでかろうじて生きていたって、自分の子が一番。もちろん、心臓移植を待つ子供の親も全く同じ考えだろうけれど、私はそれでもやってくる「死」は受け入れるという気持ちで居る。

もし自分の子が移植を受ければ生きながらえるという事態になったとき、私はその為に何かするだろうか……たぶん、脳死の子供の命は奪えないと、死ぬ事は怖いけれど、今を生きているその結果にやってくる死は受け入れられると思う。脳死判定は「やってくる死」ではなく「終わらせられる」という気持ちになってしまうから。

ただし、これはあくまで個人的な考えなので専門的に突っ込んだりしないでね♪
コメント (3)
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