GSゲルマニウム原人の退屈な日々

見わたせば、気になることばかりなり・・

ブルースセッションでもどう?

笑う蜘蛛は桃の味

2013年04月22日 09時17分11秒 | 美術
中学時代、行動美術会の田中稔之先生のアトリエに毎週日曜に通っていた。

今と違って土曜は半ドン、休日は日曜のみの時代だったから完全休養日の半分…朝から昼までが使えなくなること、さらに我が家からバスで蒲田に出て、さらに西口から出て居る「代田四丁目行」に乗り換えて馬込の「学研前」で降りる。

寝坊も出来ない♪

でも、帰りに蒲田の宇宙堂でなけなしの小遣いで「ヴァーミリオン」とか買った時のドキドキ感…中学生にとっては決死の覚悟で財布を開くくらいの値段だったんだよなぁ♪

そうそう、駅ビルの宇宙堂で絵の具とかカンバスを選んでいるときに、ふと足下を見たら巨大な革靴の人が横に立って一緒に絵の具を選んでいたっけ。

ビックリして横を見たら壁!!

で、上を見上げたら…なんと!ジャイアント馬場w

彼も絵が趣味だって事はなにげに知っていたけれど、まさか同じ店で並んで買い物とは(≧∇≦)一生の思い出だなぁ。

で…

日曜日の朝、アトリエに通う華奢な肩から画箱を下げた紅顔の美少年の俺…

まぁそういうことにしておいてw

たしかこの画材道具やパレットを入れる箱…なにせチビだったので、この箱も親父が作ったようなうっすらとした記憶があるんだけど…箱の中はブリキの仕切りになっているが、これもいとこの旦那のトタン職人「尾崎さん」に頼んだんじゃ無かったろうか?

とにかく市販の物では無かったか、あるいは市販の物をベースに改造したか…。

最初は水彩から途中から油彩になって、静物画は良く描かされた。

その頃、一番影響を受けたのがこの「オディロン・ルドン」の晩年、黒い時代から色をたくさん使うようになってからの花の絵だった。

もちろん、あんな上手に描けるわけも無いので「気分だけ」の影響だけれど♪

抽象やシュルレアリスム的な作品を書いていいときは「ジョルジュ・ルオー」の影響が強かったなぁ…彼は全然抽象じゃ無いけどwこれまた「気分だけ」はルオーの黒い縁取り♪

中三の時に受験もあるのでアトリエは辞めたけれど、なんか画家にはあこがれていたね。

思うんだけどさ。

世間的に言えば「跡取りの長男」に学習塾もそろばん教室も行かせないで、小学校のころから絵画教室とかその後のアトリエとか…まぁ~~~非生産的なことを学ばせる親って♪素敵っちゃぁステキだけど「何考えてるんだ」てな?

結局、美術学校に入ったものの本人の方がよっぽど現実的な人間だったので「絵で飯が食えるか!」ってなもんですよ。

まぁ、あと音楽始めちゃったからなぁ…できあがった物を見てもらうというパフォーマンスよりも、自分自身が人の前でパフォーマンスするほうが手っ取り早いってタイプだし、高校の頃からは千葉高校や習志野高校の奴と今で言うところのインスタレーション的な事を始めちゃったのも大きいかな。

ってなことを、思い出しながらの昨日の新宿「ルドン展」を見てて思い出したこと。

笑う蜘蛛の金太郎飴は桃の味だった。
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初夏の風

2009年04月12日 00時34分30秒 | 美術
初夏の風  川上澄生

かぜとなりたや
はつなつのかぜとなりたや
かのひとのまへにはだかり

かのひとのうしろよりふく
はつなつのはつなつの
かぜとなりたや

川上澄生美術館までツーリングに行きました。
もう意味もなく理屈もなく、ただもう好きな作品というのがあります。
この川上澄生の「初夏の風」もそんな作品の一つ、確か澄生が亡くなった'72年頃ちょっとしたブームになって当時とっていた「美術手帖」に特集が載ってそれ以来大好きな作品になりました。

この美術館では5月ごろの一ヶ月のみこの作品は展示されます、まさに初夏の頃ですね。今日はまだ4月でしたが今日から展示が始まりました、本当に今日は初夏のような天気でしたね。

たっぷり時間をとってずいぶん長い時間、このA4サイズ程度の小さな作品の前に立って堪能して来ました。

風になりたや……

わたしが今でも好きな天候はと聞かれると「風のある日」と答えるのはこの作品に出会ってからかもしれません♪
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丸谷隆二 彫刻展

2007年09月04日 08時25分14秒 | 美術
引き剥がすという事について考えた。

毎年行われている友人の個展、昨年に引きつづきテーマは「鬼」である。前回に比べて明らかにまとまりのある表現となりテーマと個展会場に安心感がある。

彼の顔を作る技術に関しては突出したものがあり、その完成度は非常に高いと思う。前回はその顔の良さを支えるボディの方に悩みが感じられ若干のちぐはぐさを感じたわけだが、今回はなかなか面白い表現方法を用いている。

そこで、冒頭の「引き剥がす」なのだが、作者本人の思惑は違うところにあると思うが、私が感じたのは鬼はどこの居る者なのか、そしてそれをどう引き寄せるかと言う事。

穏=鬼というのはすでに問題のない事で、闇ではなく明ではない曖昧な世界にいるのが鬼な訳だ。

そこからぬっと首を出し、人の世界に時々姿を現す、そういった瞬間をたまさか人間は目にしてしまい鬼と遭遇してしまうのだ。
非常に丁寧に且つ表情豊かに作られた顔は(彼が言うところでは今回は仏像から学んだところが多いそうだが)いわゆる悪鬼ではなく護法童子のような感じを受ける。本来鬼という物は童子形で表現される事が多い、有名な酒呑童子や金太郎の髪型を見ても「禿、禿童(かぶろ、かむろ)」と呼ばれるおかっぱのような髪型であり、分別の付いた大人とは違う、突然どんな動作をするか予測のつかない「子供」に鬼の姿を重ねたとも言われている。

今回の彼の作品は、童子のような顔を陰から「ぬっ」と突き出したところを作者がその両肩を手でつかんで闇から引き剥がしてきたような力強さとスピード感が感じられた。
なにかつかみがたい物を、創作者自身の腕力、それは力づくという意味ではなく作品のテーマのどこか重要な部分をつかみ取る力で自分の手元に引きつけたという感じのする表現方法で私個人としては顔とボディの調和が取れてきたようにも感じる。
もちろん、完全ではない、顔の皮膚感とボディの皮膚感の違いなど若干違和感の有る作品も無くはないのだがそれは大きな問題ではなく、今回の鬼の表現はかなり良かったと思う。

今回、仏像からイメージを得たという事だが次回は是非その仏像に踏みしかれている「邪鬼」の不屈の表情も参考にしてもらえたら嬉しい。四天王に足蹴にされているのに、どこか薄ら笑いを浮かべているような彼らは「邪」と呼ばれてはいるが「無邪気」ですらあり、私は非常に好きなのだ。

ともあれ、創作者としての彼がテーマとなる対象物を手元に引き剥がして来て、作品にする力を持ったという事が嬉しくて、その晩はうまい酒をしたたかに飲んだのである。

丸谷隆二 彫刻展「ONI・鬼・オニ」9月2日(日)-8日(土)目白千種画廊
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生誕百周年 靉光展

2007年05月06日 00時19分14秒 | 美術
真夏のような日差しの中、竹橋の近代美術館に「生誕百周年 靉光展」に行ってきた。

何しろ靉光という画家に関しては「追っかけ」な状態で出身地の広島はもちろんのこと練馬区美術館(東京時代)信濃デッサン館と出来る限り見て歩いている。
国立近代美術館には代表作中の代表作「眼のある風景」が展示されているので、時々行っては絵の前で一日ぼーっとしていたりする。

好きな絵描きの作品の前で一日居ると筆の音やナイフでキャンバスを削る音まで聞こえてくる、鼻の奥にはテレピン油の香りまで感じられてくる。

終戦直後に病死した靉光の背中が見えてくる。

企画展に行くと常設展のほうにも行けるのだが、東京近郊に住むなら是非常設展の方には行ってもらいたい。本当にあの作品が!というような物がいつでも見られる喜びを味わってもらいたい。
今回、今まで見逃していたのかフランシス・ベーコンの作品があることに気がついてものすごく嬉しかった。美術は本当に作品の前に立つだけで色々な放射物を体中に浴びせてくれる、心の毒素を取り除いて、なにかやらなくてはいけないと言う精神を沸き上がらせてくれる。

たしかに苦手な作品もあるけれど、本当に美術は何物にも替えられないほど私にとっては大切なのだ。
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上野をぶらぶら

2006年09月22日 08時26分35秒 | 美術
日曜美術館展を見に行く。

上野の芸大の美術館で開催されているNHKの日曜美術館(新日曜美術館)の記念展を見に行ったのだ。この番組は日曜の朝(夜再放送)にやっているので前日遅くまで飲んでいても9時には起きて出来るだけ見るようにしている。日曜の朝にふさわしく静かで穏やかな番組なので朝からぎゃぎゃー騒がしい番組を見るのがいやなので非常にありがたい。

この番組のおかげで田中一村、小川芋銭や高島野十郎などの名前を知ることも出来たし、番組の後半でやる現在行われている美術展の告知もそこで知ってからすぐに出かけて見に行ったりもしているから本当にありがたい番組なのだ。

今回は番組で紹介した作家達の作品を一堂に会してみることが出来るからさながら高級なカタログショッピングのようで非常によかった、現代美術の分野がほとんど無かったのがやや残念ではあったが。

上野の駅から歩いて国立博物館や科学博物館の前を通過して、さらに歩いていくとなにやら懐かしい古い建物がある。みょうに立派でちょっとした仏教遺跡のような風情もある建物だ。

「博物館動物園駅」

京成線上野から出ている京成本線の上野-日暮里の間にある駅だ。1997年に使用されなくなって2004年には完全に廃止となった駅でたしか一度くらいは降りたことがあるような記憶がある。
京成上野の駅から1キロもない駅なのであまり意味もないし、ホームも昔のママの大きさで4両編成がやっと停まれるる程の小ささでは6両編成以上となった時代では使用することが出来なくなったようだ。
実は今でも京成線に乗るとこのホームは残っているので見ることが出来る。非常灯もついているし駅名看板や階段なども確認出来る。現在は何の役にも立っては居ないのだがみょうに立派なたたずまいが何故か上野っぽいではないか。

ここを通過してもう少し行くと東京藝術大学大学美術館があり日曜美術館展は行われている。
しかしこの美術館閉館が17時というのはいかがなものだろう。多くの美術館もそうだが、一様に閉館時間が早い、ほぼ17時閉館、中には週末金曜日は20時までというところもあるが仕事帰りに美術館によってその帰りに軽く食事とお酒を飲んで帰る、そんなことが出来ればいいのに。平日の午前中の営業がどれほど必要なのだろうか?13時開館20時閉館とかでも良いのではないか、大体日本のこの手の施設や芝居音楽など時間設定が間違っているような気がする。歌舞伎やコンサートなどは20時開演でも良いくらいではないだろうか、大人が楽しめる時間設定というものを考えてもらいたい。

さらに、相撲もそうだ、最後の取り組みが終わって18時。何を馬鹿なとは思わないだろうか?多くの相撲ファンは国技館はおろかTVすら観ることが出来ない勤務時間中である。これでは視聴率も入場者数も増えるわけがない。幕内の取り組みを1時間送らせてくれれば良いだけだそうすれば19時に横綱の取り組みでNHKは19時からのニュースに移行出来るしサラリーマンも中入り後くらいからは観ることが出来る。

文化に触れる時間をもう少し増やせるような工夫を主催者にはしてもらいたい。
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鬼が来た

2006年09月04日 08時37分55秒 | 美術
年に一度、中学時代からの友人が個展を開く、今年も、目白の千種画廊で開催された。

金曜日、彼と同級だったときの恩師よりメールが届いた、「田中稔之先生が亡くなったよ」と。絵が好きだった私を美術館に連れて行き「どの絵が好きか!」と言い放った恩師はこの田中先生のアトリエを紹介してくれた。それから高校受験が始まる頃までこのアトリエに毎週日曜日通ったのだ。
行動美術協会田中稔之画伯は8月13日78歳でなくなられた、その日、斑尾にライブのために行っていたので新聞の訃報を知ることができなかった。

まるで何かの偶然のように彼の個展が始まり、それと呼応するかのように懐かしい名前が悲しい訃報として飛び込んでくる、昨日までのミュージシャンのモードからカチリと音を立ててかつての美術少年へのスイッチに切り替わった。

去年の個展の時だったか次のテーマは「鬼」にしたいと彼の言葉を聞いたときに「厳しいな……」と正直思った。鬼を描く、彫る、刻む、過去あらゆる手法や解釈でやり尽くされ芸術家以外の人々にも容易にイメージできる存在となってしまった鬼、私は実は「もっとも俗に近づいてしまった聖」ではないかとここ数年鬼に関する資料を読みつつ思っていたのだ。かつて陰(オン)に棲む見えざるモノであった鬼はこの世の中から陰影が徐々になくなっていき、すべてが強い明かりによって照らされる時代となり棲むところを奪われた感がある。

いや、逆に強い光のためにより深い闇が生まれたのか、もともと日本という国は曖昧さが支配していた、おそらく鬼が生きていた近世以前の世の中では陰影も曖昧な美しさを持っていたのだろう。その「明」でも「闇」でもない曖昧な部分に棲んでいたのが鬼や怪だったのではないだろうか。そして現在、薄っぺらな光の部分に住む我々「人」と、異常なまでの深い闇に潜む「狂」の染みこんでしまった「ヒト」がいるような気がする。ここ数年の異常な事件、常識の通用しない狂ったような大人、そしてその子供たち、世の中に「鬼」よりもなを恐ろしい「ヒト」が生まれてきてしまったかのようだ。

さて、このテーマに真っ向勝負を挑んだ彼はどう解釈したのか?

主となる作品群は非常に少ない。悩みに悩んだ結果なのか制作が追いつかなかったのかもしれない、しかしそれは彼が自己の作品を真っ正面にとらえたからだと信じたい。板作りとでも言うのだろうか、ボディをまるで瓦のようにしそこに何か悩みを抱えるような表情をした鬼の首が乗る……個人的にはこのアプローチは面白いと思った。ある意味新しい「鬼瓦」とも言えるのか、ひねりつぶされ引きちぎられ住む場所のなくなった現代の鬼の苦悶とも見えるし、逆に開き直った剽軽な表情とも取れる。

そうしてくると、別の小品として作られた伝統的な「鬼瓦」のモチーフの物が私としてはどうなのだろうという気持ちも生まれる。いわゆる鬼瓦の力強さはあの圧倒的な質量にあると私は思っている、これを小品でアプローチするとどうしても「レプリカ」ととられかねないおそれもある、ここは一つ考えても良いところではないだろうか。(すまん、あえて言わせてもらう)

今回の作品で感じたのは、彼の顔を作る技量が著しく伸びたのではないだろうかと言うことだ。さらにボディに刻み込んだパーツの表現、腕や指を心のままに刻み込む方法で表した線の美しさは内心「驚愕」した。どうだろうか、大首や腕だけなどパーツのみで鬼をまたそれ以外のモノを表現することも面白いのではないかという注文を出してみたいと思う。

毎年の事ながら、また今年もモノとして作品を残す「彼」に対して「嫉妬」と「共感」そして「期待」を感じつつ自己の「野望」を覚えた一日であった。
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ら夢音庵の落款

2006年07月21日 08時12分48秒 | 美術
昌化鶏血石というものです。

自分用の落款として25年位前に中国杭州にある西湖に旅行で行った時に購入して、現地の「西冷印社」で彫ってもらった物です。最近は全く絵を描かなくなってしまったので年賀状の隅に押すくらいにしか使っていないのですが大事な大事な物でございます。

鶏血石(ケイケツセキ)は字の通り鶏の血のように真っ赤な色が入っているそれはそれは美しい石で、私の物はちょうどお刺身の切り身程度の大きさの石ですが非常に高価だった記憶があります。
赤い色は水銀が元になっているようで長く日光に当たると色が変わってしまうとか、そりゃもう抽斗の奥の方にしまい込んであるわけです。

杭州というのは上海から南西に少し(まぁ中国での少しですが)行ったところで私が行った頃は列車で行きました。日本人にはたぶん好まれる場所ではないかな、水墨画のような世界に蘇堤(ソテイ)が西湖の水面に霞んでみえ、柳がゆれるというような楊貴妃時代の中国のイメージ(あくまでイメージです)の風光明媚なところです。
蘇堤というのは詩人で政治家の蘇東坡(そとうば)が11世紀に治水のために造った堤防ですが、早朝そこを散歩した時は本当に優雅な気分になったものです。
蘇東坡はいわゆる豚の角煮の様な料理「東坡肉(トンポウロウ)」の発明者とも言われています、色々な説話が残っていますが一般的には杭州知事だった蘇東坡が治水をしっかりやったことに感謝した農民達が豚肉や酒を献上した、その献上品の豚をぶつ切りにして酒で煮込ませてその農民達にふるまったことから来てると言われています。

杭州は基本的に醤油ベースのさっぱりした料理が多く上海料理を上品にした感じ、非常に日本人の口に合うと思うのですが、西湖で採れる「じゅんさい」も日本人にはなじみの物ですし、肉の蓮の葉蒸し、魚のあんかけなど過去何回かの中国旅行中でも杭州の料理は他の何処よりも美味しかった記憶があります。
しかも、この地方で飲まれているお茶は「龍井茶(ロンジンチャ)」といっていわゆる緑茶です、烏龍茶やジャスミン茶など中国の旅行中に饗されるお茶は香り強く、初めのうちは良いのですがだんだん辛くなる人も実は結構いたりします。そんな時に龍井茶にであうととっても安心感があって、私は好印象のお茶でした。

たまたま、この時のお茶を飲んだシチュエーションもよく、西湖のほとりにある道観(道教寺院)で道士の入れてくれたお茶だったのでなお一層の雰囲気だったからかも知れません。ただ、日本的に急須やら何やらで入れるのではなくガラスのコップに茶葉をいきなり入れてお湯を注ぐというようなやり方(正式には解りませんが)なので初めはグラスの中にお茶葉が舞い踊り、どうしたものかと途方に暮れましたが♪まぁ寺院ですから、待てば良いんです、ぼーっとグラスを眺めていれば葉は徐々に沈んできますから。

大地自然のありかたをお茶の葉が落ち着くまでの間、しばし内観する……ですかね?

ただ、当時の私としては紅茶を入れる時につかう「ハリオール」を中国に輸出したら儲かるかも!って思っちゃったことは確かです(^^;)
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[アダン] 田中一村

2006年05月21日 23時42分55秒 | 美術
「アダン」を見てきました。

追っかけをしている絵描きが居ます、一人は「靉光」そしてもう一人「田中一村」

「靉光」の絵を見るために広島に行ったり、「田中一村」の産まれた栃木に行ったり長く住んだ千葉に行ったり、比較的近所で展覧会があればがんばって行きます。
田中一村については一見素朴派かと思えるような大胆な構図で南国の画を描く人と初めは思っていたのですが、だんだんそれ以外の作品も見て、その恐るべき描写力に驚愕してるうちに彼自身の生き方を知り大ファンになったわけです。

今回、松山善三(そう私のマドンナ高峰秀子様の旦那様です♪)の脚本で一村の半生が映画化されたわけで、これを見ない訳にはいかないじゃないですか!
実は主演の榎木孝明、古手川裕子は出来れば眼にしたくない役者さんで、これは全く生理的な物なので説明不可能なのですが多分今までやってきた作品が私にはあわなかったのでしょう。
そんなわけで一歩マイナス面からまづこの作品を見なくてはいけなかったのですが、無駄な心配でした。

いや、榎木孝明さん、古手川裕子さん、ありがとう、私は田中一村をそして彼の姉を目撃しました。(ちなみに榎木氏は私と同い年)
そう、スクリーンには本当に田中一村が居たのです!とくに奄美に行ってからの一村に関してはドキュメンタリーを見る想いです。
動く一村がそこにいる!本当にそう思いました。もちろん彼の半生は何冊かの本、画集で心得ています、あのエピソードが抜けてるとか、もっとこうだったらとか考えてしまうのはファン追っかけとしてはしょうがないことですし、わずか2時間の映画の中に要約して表現しなくてはいけないことなので問題なしです。

ようするに田中一村という人によっては奇人変人、しかし自分が画を描き始めた頃、何か表現として物を作り出した頃の純粋さを一生維持しつづけた「純粋芸術家」の生涯が記録されただけで満足です。

この作品は、現在画を描いたり、彫刻を作ったりするすべてに人に見てもらいたい。
作品で生活することはもちろん悪いことではないし、それが出来る人はすばらしいことだと思うけれど、かつて自分の作った作品が売れるとか売れないかなど全く考えずに、時間も忘れてただひたすら描きたい物を描き続けた頃、作りたい物を作り続けた頃を思い出すためにも、一生純粋に絵描きであった男の生涯を見てもらいたい、そう思わせてくれた映画でした。

そして、野望をもちましたぞ!来年には奄美に行きます!一村の終焉の地を訪ねます。

あぁ、夢が一つ生まれました。
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ダビンチコードが話題沸騰中?

2006年05月19日 08時05分01秒 | 美術
本も映画も観てないけど、TVで特番沢山やってるから見た様な気になっちゃうね。

原作本は娯楽本でしょ?で、それに沿って映画作ってる訳だから単なる娯楽作品ってわけだし、ダビンチの作品やなんかの都合の良いところだけつまみ食いしてアナグラム的な遊びをしてる訳だから、調子に乗ってTVもダビンチは何もかもお見通し的な番組作ると恥ずかしいことになるよね。
最後の晩餐という有名な絵をもって昔の作家と違うアプローチをしているのはタブーだった真実を描こうとしたとかって言ってるようだけれどさ。

よ~っく考えよう♪何時のお話?
キリストって(本当はイエスね)2000年前の人でしょ、でダビンチさんが居たルネサンス時代は?
ダビンチさんて1500年頃の人ですよ。我々現代人とたった500年しか違わない。
今なら、世界中のネットワーク使って資料も豊富、色々科学的に解析も出来る(絵の具の成分とかね)訳だからダビンチさんのことも多分こうだったろうって推測することはかなり真実に近いところまで解ると思う訳よ。

それでも、さすがにイエスのいた2000年前はかなり難しい、もっと大昔のことだと解ることもあるけれど多分一番解りにくいんじゃないこの2000年前位から1500年前位が。卑弥呼とかもわかんないしね。ようするに混沌とした時代だったんじゃないかと、中国当たりは解るようだけれど、それでも資料が残ってる邪馬台国ですらいまだにどこか確定出来ないしね。

そう考えると、ダビンチさんがどんなに頭よくたって我々現代人がダビンチさんのこと調べる500年前より更に昔のダビンチさんが調べるイエスさんの1500年前なんて解る訳無いでしょ。というか、解らないから最後の晩餐のイエスの顔もいわゆる長髪のやせ形・白人というステレオタイプ(固定観念)で描いちゃってる訳で、こんな人の真実なんて信用出来ないのではないかと。あの「聖骸布」だって作り物だからね。
最近じゃ短髪の筋骨隆々としたゴッツイ人である可能性があるって当時のイスラエルあたりの人の骨格や時代背景、風俗から当時の平均的男性の顔も作られてる位だしね。

今回、キリスト教関係者がぶつくさ言ってるのはキリストとマグダラのマリアの婚姻と子供の話だよね。

ちょ・ちょっとまてよ!(by 堀)

これはユダヤ教の方では昔から解決済みでないの?
イエスはユダヤ教の改革派的あるいは素朴派的な位置だった訳で、キリスト教じゃなかったよね。ユダヤ教で言うと「ラビ」という聖職者なわけで、当時ユダヤ教の聖職者は結婚・妻帯していることが信用度を増す上で当たり前のことだったのは普通に本に出てくるもの。
ただ、偶像崇拝好きなギリシャ・ローマキリスト主義が広まってからは、キリスト教側からはイエスの神聖を守りたいが故にそのことはタブーにしているけど、イエス=ユダヤ教徒と考えるべきだから妻帯していて当たり前な状況だと思うのよね。

単純にダビンチさんはイエスとその周りの人を使って実はただの普通の人を描きたかっただけじゃないのって気がする。有名な岩窟の聖母子像だっけ、あれも最初の作品はごくごく普通の親子の絵を描いちゃってる位で、それにクレームつけられちゃったからしぶしぶ聖なる印を付け加えた、けど、作品としてはイマイチないやみな作品を納品したりしてる位だからね。
当時絵を描くと言えば宗教画か肖像画ぐらいしか無かった時代で、それでも普通の絵が描きたいなぁって思っちゃった天才が異端審問にかけられない方法を模索した中での製作って事何じゃないかと、私は思ったりした訳です。
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あら!奇遇ですねぇ

2006年01月16日 09時58分09秒 | 美術
中学生の頃はアトリエに通う紅顔の美少年♪なんちって。

中学時代の数年間、中馬込にある行動美術会の重鎮田中稔之先生のアトリエに毎週日曜日通っていたのだけど、先日会社も会員になっている芝法人会の会報の表紙でその先生の絵に突然遭遇!びっくりしたぁ。

日曜になると蒲田から「代田四丁目行」という西口の「緑屋」前から出てるバスに揺られて「学研前」まで行くわけだ、油絵の具の入ったカバンとイーゼルを肩に。それはもう毎週の事なのだけど、先生のアトリエでクロッキーをやったり静物画を描いたりでテレビン油の臭いに囲まれた日曜の午前中を過ごしたりするわけ。

もともと小学校の頃から絵画教室に通ってて絵を描くのは大好きだったけど、中学に入って一年の時の担任が生徒のそう言った才能・能力をとっても理解してくれる先生で知り合いの絵描きさんのつてで田中画伯を紹介してもらったんだけど、教え方の上手なちょっぴり「岸田森」似の素敵な先生だった。

考えてみればうちの親も何の足しにも成らない「絵」なんてぇものの教室やアトリエに通わせるというのも変な親だと思う。当時はその数年後には倒産してしまうような町工場の一職工にすぎなくて、母親だって内職やパートをしていた生活状態だったのにそろばん塾や学習塾でなく「画家のアトリエ」に通わせるというのは一体どういう考え方だったんだろう。

明らかに進学や生活を考えたら世間的には「いい加減に夢を見るのはやめなさい」って話だよね、なぜかうちの親は私に関しては進学について何の強制もしなかった、もちろんその後美術学校に行くようになった時も自由にして良いよ状態だった。
姉の方は小さい頃からずっと決めていた教師になるという目的の為に、自分でその通り生きていったわけだし、これに関しても自分の意志で自由にやっていた。

父親が言うには女は万が一嫁に行けなかったことを考えて資格を持たせたい、男は仕事さえ選ばなければ何したって生きていける、っていうことなので実際その通りだと思いつつあれほど自由にさせてもらっていたのはやっぱり普通じゃないと思う。

まぁ今は「仕事さえ選ばなければ」の結果、まぁそこそこの生活をしていられるわけだし、趣味の世界もたっぷり楽しんでいるわけだ。
結局、なんだかんだ言っても子供の性格や特質をかなりよく分かっていた両親と、どうしたらいいのかという時に方向やきっかけを提示してくれた教師とのおかげで豊かな経験を若いあのころに蓄えられたことは大変な財産なんだなぁと、懐かしい絵の表紙をみて思ったりしてみたわけ。
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