1945年8月15日、日本の無条件降伏によって、朝鮮の近代史がはじまります。
これに先立つ、8月7日、ヤルタ秘密協定(アメリカが、ソ連に、参戦を促したもの)に基づき、ソ連軍が、旧満州へ侵攻します。
関東軍は、軍事的に、対抗できないことを知り、朝鮮(旧日本)国境で防衛しようとしますが、これを果たせず、無条件降伏後も、朝鮮南部に後退を続けます。
アメリカは、朝鮮全土がソ連の息のかかった勢力に支配されるのを恐れ、38度線をもって、連合国とソ連で分断統治する案を連合国に打診、了承されます。
当時圧倒的優勢下にあったソ連が、安易に、この案を了承した意味は不明です。
そのまま、南下を続ければ、釜山まで、支配することは、容易だったと考えられております。
軍事分断の主目的は、日本軍の武装解除にありましたが、その後の、文民統制の方針で、アメリカとソ連では、大きな違いが見られます。
ソ連は、朝鮮人自身が、幸福を創出する条件造りを、ソ連が支援すると言う布告を出したのに対し、アメリカ(マッカーサー)は、この時点で朝鮮が独立したものとは認めず、日本統治時代の影響で、民主政治の基盤が脆弱であり、当面の間、朝鮮住民は、占領軍の命令下に置かれ、公用語も英語とすることを布告します。
これが、南部住民に、大きな不満をもたらします。
軍政下の南朝鮮は、食料不足、不正貿易などによって、悪質なインフレに見舞われ、住民は、苦しまされますが、米軍政府は、何ら、打つ手を持ちませんでした。
朝鮮人自身による、朝鮮国建国の動きは、日本降伏の日に、素早く始まります。
呂ウニョン、安チェホンらによって結成された「建国準備委員会」は、翌々日には、朝鮮総督府から治安維持、報道などの権限を受け、活動を始めます。
委員会は、建国に向けて中心的な役割を担いますが、実際の活動は、下部の共産主義者達でした。
彼らが開いた全国人民代表大会では、「朝鮮人民共和国組織基本法」が採択されます。
さらに、全国人民委員を選出して、事実上の新政府を発足させました。
これに、マッカーサーは大きく反対し、米軍政以外、いかなる政府の存在も認めないとして、弾圧に乗り出します。
朝鮮における民主勢力の台頭を恐れたアメリカは、モスクワに置いて行われた、米英ソ三国による、第二次世界大戦後の国際問題協議外相会議で、朝鮮半島の、10年「信託統治」を提案します。
ソ連は、これを5年に短縮する条件で、了承しました。
この、「モスクワ協定」が朝鮮民主勢力派の大きな不満の基となります。
(ちょっと、長くなりますので、中略とします)
朝鮮北部では、政府に準ずる組織として、「北朝鮮臨時人民委員会」が結成され、実質的な、北部中央政府として機能し始めます。
この組織が、比較的順調に機能し、旧地主、親日派などの資産階級の土地、資産を没収することになります。
これを恐れて、多数の地主、親日派が、南部に逃亡します。
旧共産勢力の台頭に手を焼いていたアメリカは、抗日戦争当時、地下潜伏抗日勢力が、中国重慶で立ち上げた臨時政府「大韓民国臨時政府」の要人が帰国してきたのを待って、李承晩を傀儡として、軍政の長期固定化を防ぐ代わりに「信託統治」を認めさせようとしますが、李はこれを拒否します。
ところが、翌1946年1月3日、突然、共産党が、「信託統治」受け入れを表明して、人民を驚かせます。(この辺のくだりは、松本清張の「北の詩人」に詳しい。)
この表明により、「信託統治」はスタートしますが、日本を敗戦に追いやったと自負し、独立は、自分達の成果だと考える民衆は、朝鮮全土に多く、今後の火種の基になりました。
1946年の凶作、市場への食糧の出回り不足など、住民の不満は高くなる一方でした。
米軍政は、これらの不満から、住民の目をそらせる意図で、さまざまな、事件をでっち上げ、民族派の弾圧に乗り出します。
朝鮮北部では、1946年7月22日、金トボン、金日成らにより、「北朝鮮民主主義民族統一戦線」が結成され、翌7月22日には、新民党、北朝鮮共産党が結成されます。
一方南部朝鮮では、左派共産党と、右翼勢力融合のため、呂ウニョンらが、左右合作を進めようと動き、南部の治安安定のために、必要と考えたアメリカもこれを支持しますが、呂らの、南部分断防止の目的の合作行為は、アメリカの、思惑とは、隔たりが大きく、頓挫してしまいます。
共産党は、南部朝鮮でも、住民の支持を集め、一大勢力に発展します。
軍政は、これを恐れ、戦前の治安維持法の様な法律(国土保安法)により、共産勢力の運動を弾圧します。
これに反対する勢力は、南朝鮮全土で、デモ、ストライキによって、抗議運動を展開しました。
住民の、反米軍闘争には、多くの事件がありますが、とりわけ大きかった事件を2つだけ挙げておきます。
慶尚北道大邱大衆蜂起事件。
参加者100万人。警察署破壊、警察官殺害。
軍政は、最後は、戦車を繰り出し鎮圧。
済州島事件。
済州島は、もともと、南北統一派が多いところでした。
三・一記念集会において、警官の阻止運動で、死者が出ると、全島に運動が波及、済州島人民自衛隊と、国防警備隊(労働党の強い影響下にあった)が共同で、右翼事務所などを襲撃、本土からの軍隊と交戦。
住民の死者6万余(全島民数、約36万)。
一方、このころから、米ソ間の国際問題の意見の相違が顕著になり、冷戦に突入して行きます。
南では、大統領制移行を決議、7月24日に、国会における間接選挙の形で、李承晩が選ばれ、大韓民国設立を宣言しました。
これにより、アメリカは、軍政を終了します。
一方、北の北朝鮮人民会議は、8月に朝鮮全域での、最高人民会議代議員選挙を実施、北から212名、南から360名の代議員を選出(南は秘密選挙)、その最高人民会議で、全国向けの正式憲法を採択、全国に発令します。
そして、「朝鮮民主主義人民共和国」の創設を宣言、初代首相に、金日成が就任しました。
これによって、分断国家が事実的に確定したのです
アメリカは、国連監視付きの朝鮮南北同時総選挙を実施することを国連に提案、決議させます。
監視団が視察に訪れた時、南の軍政府、右翼団体はこれを歓迎しましたが、北が、これを拒否したため、調査団は、同時総選挙を断念、南朝鮮の、単独選挙を提案しました。
この選挙で勝ったのは、李承晩派で、話し合い統一を主張した協商派や、左翼団体は、ボイコットしたため、李承晩の圧勝の結果でした。
当選後、李承晩は、独裁政治をしき、軍部の親北派や、済州島事件に派遣された時に麗水で反乱を起こした兵士他9450名を粛清、他に、軍内のレッドパージで、兵士8000人を殺害しました。
李承晩は、もはや、話し合い統一は無理として、「北伐(武力統一)」を主張するようになります。
話し合統一の指導者だった金九は、何者かに暗殺されてしまいます。
李承晩の圧政はさらに進み、反北伐に組する人物の逮捕に乗り出し、建国後1ケ月で、逮捕者9万人、年末までに、47万8000人に達しました。
このうち、15万4000人が投獄され、刑死・獄死者は、9万3000人に上りました。
北は、南の話し合い統一論者が殺されるのを座視できなかったのでしょう。
やがて、1950年6月25日、38度線の越境となります。
同じ民族間での悲しい出来事でしたが、日本の占領に続き、大国のエゴの間で揺り動かされた小国の、悲しい歴史と言えましょう。