blog.mcnj

花、蝶、ペット、旅行など。
韓国文化の紹介。

韓国の散歩道 朝鮮戦争勃発の背景

2014-07-16 00:21:00 | 国際・政治

1945年8月15日、日本の無条件降伏によって、朝鮮の近代史がはじまります。
これに先立つ、8月7日、ヤルタ秘密協定(アメリカが、ソ連に、参戦を促したもの)に基づき、ソ連軍が、旧満州へ侵攻します。
関東軍は、軍事的に、対抗できないことを知り、朝鮮(旧日本)国境で防衛しようとしますが、これを果たせず、無条件降伏後も、朝鮮南部に後退を続けます。
アメリカは、朝鮮全土がソ連の息のかかった勢力に支配されるのを恐れ、38度線をもって、連合国とソ連で分断統治する案を連合国に打診、了承されます。
当時圧倒的優勢下にあったソ連が、安易に、この案を了承した意味は不明です。
そのまま、南下を続ければ、釜山まで、支配することは、容易だったと考えられております。
軍事分断の主目的は、日本軍の武装解除にありましたが、その後の、文民統制の方針で、アメリカとソ連では、大きな違いが見られます。
ソ連は、朝鮮人自身が、幸福を創出する条件造りを、ソ連が支援すると言う布告を出したのに対し、アメリカ(マッカーサー)は、この時点で朝鮮が独立したものとは認めず、日本統治時代の影響で、民主政治の基盤が脆弱であり、当面の間、朝鮮住民は、占領軍の命令下に置かれ、公用語も英語とすることを布告します。
これが、南部住民に、大きな不満をもたらします。
軍政下の南朝鮮は、食料不足、不正貿易などによって、悪質なインフレに見舞われ、住民は、苦しまされますが、米軍政府は、何ら、打つ手を持ちませんでした。

朝鮮人自身による、朝鮮国建国の動きは、日本降伏の日に、素早く始まります。
呂ウニョン、安チェホンらによって結成された「建国準備委員会」は、翌々日には、朝鮮総督府から治安維持、報道などの権限を受け、活動を始めます。
委員会は、建国に向けて中心的な役割を担いますが、実際の活動は、下部の共産主義者達でした。
彼らが開いた全国人民代表大会では、「朝鮮人民共和国組織基本法」が採択されます。
さらに、全国人民委員を選出して、事実上の新政府を発足させました。
これに、マッカーサーは大きく反対し、米軍政以外、いかなる政府の存在も認めないとして、弾圧に乗り出します。

朝鮮における民主勢力の台頭を恐れたアメリカは、モスクワに置いて行われた、米英ソ三国による、第二次世界大戦後の国際問題協議外相会議で、朝鮮半島の、10年「信託統治」を提案します。
ソ連は、これを5年に短縮する条件で、了承しました。
この、「モスクワ協定」が朝鮮民主勢力派の大きな不満の基となります。
(ちょっと、長くなりますので、中略とします)
朝鮮北部では、政府に準ずる組織として、「北朝鮮臨時人民委員会」が結成され、実質的な、北部中央政府として機能し始めます。
この組織が、比較的順調に機能し、旧地主、親日派などの資産階級の土地、資産を没収することになります。
これを恐れて、多数の地主、親日派が、南部に逃亡します。

旧共産勢力の台頭に手を焼いていたアメリカは、抗日戦争当時、地下潜伏抗日勢力が、中国重慶で立ち上げた臨時政府「大韓民国臨時政府」の要人が帰国してきたのを待って、李承晩を傀儡として、軍政の長期固定化を防ぐ代わりに「信託統治」を認めさせようとしますが、李はこれを拒否します。
ところが、翌1946年1月3日、突然、共産党が、「信託統治」受け入れを表明して、人民を驚かせます。(この辺のくだりは、松本清張の「北の詩人」に詳しい。)
この表明により、「信託統治」はスタートしますが、日本を敗戦に追いやったと自負し、独立は、自分達の成果だと考える民衆は、朝鮮全土に多く、今後の火種の基になりました。

1946年の凶作、市場への食糧の出回り不足など、住民の不満は高くなる一方でした。

米軍政は、これらの不満から、住民の目をそらせる意図で、さまざまな、事件をでっち上げ、民族派の弾圧に乗り出します。

朝鮮北部では、1946年7月22日、金トボン、金日成らにより、「北朝鮮民主主義民族統一戦線」が結成され、翌7月22日には、新民党、北朝鮮共産党が結成されます。
一方南部朝鮮では、左派共産党と、右翼勢力融合のため、呂ウニョンらが、左右合作を進めようと動き、南部の治安安定のために、必要と考えたアメリカもこれを支持しますが、呂らの、南部分断防止の目的の合作行為は、アメリカの、思惑とは、隔たりが大きく、頓挫してしまいます。
共産党は、南部朝鮮でも、住民の支持を集め、一大勢力に発展します。
軍政は、これを恐れ、戦前の治安維持法の様な法律(国土保安法)により、共産勢力の運動を弾圧します。
これに反対する勢力は、南朝鮮全土で、デモ、ストライキによって、抗議運動を展開しました。
住民の、反米軍闘争には、多くの事件がありますが、とりわけ大きかった事件を2つだけ挙げておきます。

慶尚北道大邱大衆蜂起事件。
参加者100万人。警察署破壊、警察官殺害。
軍政は、最後は、戦車を繰り出し鎮圧。

済州島事件。
済州島は、もともと、南北統一派が多いところでした。
三・一記念集会において、警官の阻止運動で、死者が出ると、全島に運動が波及、済州島人民自衛隊と、国防警備隊(労働党の強い影響下にあった)が共同で、右翼事務所などを襲撃、本土からの軍隊と交戦。
住民の死者6万余(全島民数、約36万)。

一方、このころから、米ソ間の国際問題の意見の相違が顕著になり、冷戦に突入して行きます。

南では、大統領制移行を決議、7月24日に、国会における間接選挙の形で、李承晩が選ばれ、大韓民国設立を宣言しました。
これにより、アメリカは、軍政を終了します。

一方、北の北朝鮮人民会議は、8月に朝鮮全域での、最高人民会議代議員選挙を実施、北から212名、南から360名の代議員を選出(南は秘密選挙)、その最高人民会議で、全国向けの正式憲法を採択、全国に発令します。
そして、「朝鮮民主主義人民共和国」の創設を宣言、初代首相に、金日成が就任しました。

これによって、分断国家が事実的に確定したのです

アメリカは、国連監視付きの朝鮮南北同時総選挙を実施することを国連に提案、決議させます。
監視団が視察に訪れた時、南の軍政府、右翼団体はこれを歓迎しましたが、北が、これを拒否したため、調査団は、同時総選挙を断念、南朝鮮の、単独選挙を提案しました。
この選挙で勝ったのは、李承晩派で、話し合い統一を主張した協商派や、左翼団体は、ボイコットしたため、李承晩の圧勝の結果でした。
当選後、李承晩は、独裁政治をしき、軍部の親北派や、済州島事件に派遣された時に麗水で反乱を起こした兵士他9450名を粛清、他に、軍内のレッドパージで、兵士8000人を殺害しました。
李承晩は、もはや、話し合い統一は無理として、「北伐(武力統一)」を主張するようになります。
話し合統一の指導者だった金九は、何者かに暗殺されてしまいます。
李承晩の圧政はさらに進み、反北伐に組する人物の逮捕に乗り出し、建国後1ケ月で、逮捕者9万人、年末までに、47万8000人に達しました。
このうち、15万4000人が投獄され、刑死・獄死者は、9万3000人に上りました。

北は、南の話し合い統一論者が殺されるのを座視できなかったのでしょう。
やがて、1950年6月25日、38度線の越境となります。

同じ民族間での悲しい出来事でしたが、日本の占領に続き、大国のエゴの間で揺り動かされた小国の、悲しい歴史と言えましょう。

                     ----------------
本稿は、全世界史 17 朝鮮史 武田幸男編(山川出版社)を参考にしました。
本日のオマケ。
Img_0871_2_2
Img_0868_2_2
Img_0870_3_2
Img_0875_2
Img_0873_2_2
Img_0874_2_2

この男 「吾輩の党」代表

2013-12-20 05:04:11 | 国際・政治

この男、昔は、いい男であった。

古い体質の政党に見切りをつけて飛び出し、新党を立ち上げた時は、国民の支持を得たものであった。

それが、今では、国民の期待が、いずれにあるかを見失っている。

長いこと、党を牛耳っていると、どうしても、こうした弊害に落ち入ってしまう、好例である。

表題の通り、党名を変更することを、アドバイスしたい。


選挙

2013-07-10 23:46:00 | 国際・政治

21日は、予定があって投票場へいけないので、期日前投票をしてきました。

大勢がもう、決まったようなことが言われておりますので、投票率は、低くなるだろうと思って行きましたが、何と何と、たくさんの人が来ていて、普段の投票場よりも、にぎやかでした。

皆さん、関心がおありのようです。

そう言えば、原発、TPP、消費税、社会福祉、デフレ脱却、選挙制度、尖閣諸島、竹島、北方領土、拉致問題など、国民生活にかかわる問題が、山積する選挙ですね。

今の首相を含めて、明治維新以来、16人も宰相を出している県もあるそうですが、日本国内では、一人も宰相を出していない県がほとんどです。

当地方でも、数年前、初めて総理を出すチャンスがありましたが、郵政民営化の旗の前に、あえなく、沈んでしまいました。

その後、政権交代の熱気が燃え上がり、めでたく、その目的を達しましたが、内部分裂により、潰え去ったことは、つい、先日のことです。

あの熱気は、なんであったのかと、いまだに、国民の、熱しやすく冷めやすい体質に、合点がいきません。

mcnjなりきに総括してみますと、未熟な政治家、未熟な政党に、政治を任せられない、と言うことになるのでしょうか。

そうは言っても、旧来の、古い体質の政党にも、なおさら、政治を任せたくありません。

また、国民に、耳あたりのいい政策ばかり並べて、実現性のない公約を掲げる政党にも、入れたくはありません。

八方塞がりのような、今回の選挙で、いっそのこと、棄権しようか、白票を投じようかと考えましたが、やはり、国民の権利行使が、いちばん大切だと考えて、1票を投じてきました。

憲法は、権力に対する、国民の、権利と義務を定めたものです。

憲法第97条の改正問題も、今回の選挙の、大きな争点の一つですが、現憲法に定められた、日本国民の義務として、投票の義務、納税の義務があります。

まずは、投票場に足を運んで、名簿の前で、誰に入れようか、どの政党に入れようか、自分で

考えてみることが、この国をよくしていくための、第1歩だと思います。


宴の後

2012-12-19 12:47:26 | 国際・政治

選挙の結果を見て、有る程度予想はしていたが、目の前に突きつけられて見ると、余りに、民意の振れ幅の大きさに、唖然として、穴に閉じこもっていたが、気を取り直して、自分なりに総括して、今後の参考とすべく、記して残す事にした。

民主党の敗因。

①設立時の矛盾。

 自民党への対抗意識から、多数を目指し過ぎて、将来に対する方向性の無い寄せ集め集

 団としてスタートした。

②指導者の感性。

 小沢一郎。

  田中角栄のDNAに影響された、政治と金を最優先に、権力志向を目指した男。

 鳩山由紀夫。

  お人好しが取り得だけの世間知らず。

  母親から貰った金で造った自分の党との意識が、最後まで足かせとなって、党員の足を

  引っ張った。

 菅直人。

  市民活動家上がりの意識が抜けきらないまま、政治力学のバランス感覚に欠けたままに

  終った。

 野田佳彦。

  政経塾上がりの理想主義者。

  選挙の勝ち方を2の次に理想に走り、党を自滅に導きながら、税と社会保障の一体改革

  に筋道を付けたとして、政治家としての後世に一定の名を残した。

  その他。

  他にも総括すべき人間はいるが、ここでは、小沢の他は、総理経験者に限定した。

③選挙戦略。

  前回大勝した、小沢の荒唐無稽なマニフェストに振り回されて、まともな政治が出来ず、

  国民にあいそをつかれた事に対するフォローが充分出来ていなかった。

  また、これまで、税の問題で戦って、選挙に勝った党はなかったのに、次期政権が確実

  な、自民党にやらせないで、敢て、解散を先送りせずに、自から、無謀な、一体改革に挑

  んだ、書生気質の野田の判断ミスが責められるべきである。

民主党の今後の進め方。

  小選挙区制度における、2大政党の一方としての地位を維持する体力は、大幅に削がれ

  たと見るべきであり、当分は、そのチャンスは無かろう。

  民主主義の根本に立ち返られる、有意ある有志を集め、国民の支持を得るべく、地道な

  努力を続けるしか無かろうと思われる。

自民党の勝因。

  前回選挙のはね返りを考慮すれば、有る程度の、自民優位は考えられたが、これほどの

  大勝を得るとは、考えられなかった。

  民主の自滅、多党化による候補者乱立が、小選挙区制における、自公選挙協力を、有効

  に作用せしめた事にあり、取りたてて、自民の功績と言える程のものは見当たらない。     

自民党の政治。

  まだ、組閣も済んでいない段階での論評は控えるが、安部晋三個人の資質から見て、

  期待も、危惧も相半ばする感がある。

  国民は、彼の行動を、注視して行く必要があろう。

その他政党。

  みんなの党。

  民主無き後、2大政党の片割れとなる期待は大である。

  自民から、悪政を取り除いた政策を掲げるなら、国民の期待を担う事も夢ではなかろう。

  日本維新。

  橋下徹については、前に、もう少し見極めてから判断する必要が有ると書いた事がある。

  ここへ来て、馬脚を現した感がある。

  更に見守りたい。

  もう一人については、論評の価値も無い。余命とともに終りとなろう。

  その他。の党については、強いて、論評する必要はなかろうと思う。

  ただ、公明党については、暴走しようとする自民のご意見番としての役割を期待したい。