指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『君が死んだあとで』

2021年05月27日 | 映画
1966年10月8日に、羽田の弁天橋で死んだ山崎博明の生い立ちから、高校、大学時代を描いたこの作品で、私が思い出したのは、この10月8日には、私には羽田に行っていないことだ。その前日、10月7日に日比谷公園の学生の総決起集会に行くと、社青同(社会主義青年同盟解放派)の連中が、異常な興奮でやってきて、法政大学で中核派(マルクス主義学生同盟中核派)に、「解放派の幹部が拉致されリンチされたので、逆襲に行くのだ」と演説していた。
それは、佐藤首相が南ベトナムに行くことに反対する運動だったが、こんな仲間割れしているようでは、明日は大したことにはならないと思い、羽田には行かなかった。その後、11月12日には羽田でのデモに参加し、大鳥居駅付近で、機動隊との投石合戦をやった。
当時、首都圏での中核派の拠点は、法政と横浜国大で、特に法政は最重要拠点だったが、そこに社青同解放派が、なぜか法政に入って活動を始めたからだ。理由は、従来早稲田が拠点だった社青同(社会主義青年同盟)解放派に対して、次第に中核が早稲田でも人数を増やしていて、しばしば衝突していたからだ。この映画では、法政大の中核に対して、社青同解放派とブンド(社会主義学生同盟)が一緒に駆けつけて衝突寸前になったと表現されているが、私の記憶では、違うと思う。ブンドは、「中核と解放派の衝突など、我々には関係ない」と思っていたからだ。
この中核や革マル(革命的共産主義者同盟革マル派)との「内ゲバ」、殺し合いは実に愚かしいことで、その淵源をたどれば、ロシア共産党の閉鎖性に行き着くと私は思う。
スターリン主義に象徴される、ロシア共産党の閉鎖性、秘密主義、反市民性は、戦前に日本共産党に受け継がれ、それは戦後は黒田寛一の指導と理論によって、革命的共産主義者同盟なる、思想グループである中核、革マルによって拡大再生産されて、1960年代の日本の新左翼運動に巣喰うことになる。革マル、中核が、本質的に思想グループであったために、互いに相手を殲滅することになってしまう。なぜなら、思想グループであるために、その成功、不成功は、相手を思想的に折伏することにしかあり得ないからだ。そして、相手を説得できなければ、身体を消滅させる、つまり殺すしかなくなるからだ。
その点、大衆運動を目的としていたブンドは、運動が盛上がり、政治的目的を達成すれば、それで良いので、内ゲバとは無縁だったのだ。
私は、この日は、家にいて、昼のニュースで、京大生の死を知った。
だが、このとき私が思ったのは、「これは党派の中の死だ」と言うことだ。1960年6月15日の東大生樺美智子さんの死は、国民的運動の中の死だったことの大きく違う。この映画では、山崎君の「国民葬」には、中核派以外の全党派が参加したと言っているが、これも違い、中核派以外はほとんど参加しなかったはずだ。

                             

大阪のかなり貧困な家庭に育った山崎博明は、府立大手前高校に入り、成績優秀だったが、同時に周囲の社会への批判意識から、社会科学研究会に入り、学園祭で反戦パレードをやった後、京大文学部に入り、中核派の活動家になる。
そして、当時最大の政治的問題だったアメリカのベトナム戦争への反対運動に参加するようになる。
この辺は、大手門の高校の同級生の、詩人の佐々木幹朗、作家の三田誠広らによって証言される。その他多くの同級生が、大手門から京大、同志社、立命館、さらに岡山大に等に行き、中核派として活動したことが語られる。
この辺は、関西の学生運動はほとんど知らなかった私には、初めて知ることだった。

そして、後半では東大全共闘議長の山本義隆が出てきて、各政治的党派のエゴイズムと内ゲバの愚かしさが語られ、その通りだと思う。
最後、ベトナムの戦史博物館に、山崎博明君の羽田での死が、ベトナムの人たちへも反アメリカの重要な事跡の一つだったことが、証される。
「へえ、そうなの」と思う。
山崎博明君の死亡原因は、その日に死体を見聞した兄によって、頭蓋骨の損傷であり、警察が言うような、学生が乗っ取って運転した放水車に弾かれたものでないことは明らかだったようだ。

城内は、かなりの観客がいたが、途中で凄い鼾があった。予備知識のない人には、映像は、普通の男女の証言だけなので、理解は難しかっただろうと思った。
横浜シネマリン





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