指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『奔れ!助監督』 中田新一(早稲田出版)

2013年12月23日 | 映画

中田新一は、畑山博の小説『海に降る雪』の映画化で監督デビューした人で、その前は長い間主に独立プロで助監督をしてきた。

彼がその名を轟かしたのは、作品によってではなく、映画『パンダ物語』の撮影の時、主人公でアイドルだった八木さおりに暴行したという、日本映画史に残るスキャンダルだった。

本のなかでも触れられているが、勿論暴行などはなく濡れ衣なのだが、裏には、八木さおりが映画作りにまったく無知で、演技もひどかったので何度も撮り直しをした。

するとバカな八木さおりがプロダクションに文句を言い、それを製作会社田中プロの田中寿一プロデューサーが、中田監督を交代させたいために発表した大嘘だったのだ。

当時すでに中国には奥地に行かないとパンダがいなくて、まったく撮影が進行せず、大幅に撮影延期となるのを心配した田中寿一の策謀だった。

だから、中田新一の後、新城卓が監督になって映画はできたが、散々なできで、大ズッコケに終わった。

この時、中田新一は、自分が撮影したフィルムは一切使用させず、さらに和解金として、田中プロから2,000万円を貰ったそうだ。

この悪辣で知られた田中寿一も、その後は失敗が続き、決局田中プロは倒産、妻の烏丸セツ子とは離婚、そして死んでしまったそうだが、三船敏郎を裏切った報いといもうべきだろうか。

 

中田新一は、早稲田の文学部在学中からフジテレビで『若者たち』や『奥さまニュース』のADをしていた。

『若者たち』の演出の森川時久がフジを辞めて映画を作ることになった時、中田は彼について独立プロの新星映画社に入り、助監督を目指して、製作進行、ほとんどが車の運転手の雑用係で映画界生活を始める。

大手映画会社が新人を取らなくなった1960年代、映画界に入るには、そうした方法しかなかったのである。

その後、東宝の衛星会社で文芸作品を作っていた芸苑社の佐藤一郎の下で企画と助監督を経験し、今井正、熊井啓、そして森谷司郎の『八甲田山』に付く。

また、角川春樹映画の深作欣二や佐藤純也作品の助監督も経験する。

映画製作の裏側が分かって大変興味深いが、中でも『妻と女の間』の時の豊田四郎監督の姿が面白い。

中田は、芸苑社の使いの者として、ただ脚本を届けに来ただけたった。

だが、豊田四郎は中田に向かって脚本のことを根ほり葉ほり聞き、中田は非常に参り、「その鋭さはまるで剣客のようだった」と言っているが、さもありなん。

実は、豊田はそうやって脚本を確かめていたのだろう、何も知らない使いの者とは、普通の観客と同じで、彼らにも理解できるかと。

その後、映画『ドン松五郎』が大ヒットし、違う人間が撮った続編が失敗した件も面白い。

全体として、細部に誤解もあるが、彼の正直で嘘のない性格は良くわかった。

誤解の最たるものは、1948年の東宝争議のことをレッドパージと混同していることである。

東宝争議は、私は『黒澤明の十字架』に最初に記述したのを初めとして、ここでも何度か書いたが、共産党員が東宝にいたから起きたわけではない。

戦時中に航空教育資料製作所という陸海軍用の「軍事マニュアル映画」を多数作っていた東宝が、戦後は注文主を失ったから起きたものである。

共産党員云々なら、それは他社の松竹、大映にも多数存在していたわけで、その証拠に1950年のマッカーサーの命令による映画各社でのレッドパージでは、松竹や大映からも多数の共産党員が追放されている。

この辺のことは、私が『黒澤明の十字架』(現代企画室 2013年4月刊)で日本で最初に記述したことなので、映画界の人間が知らないのも仕方ないのだが。

中田の監督デビュー作映画『海に降る雪』は、暗いメロドラマ風の作品なのになぜか東宝系で公開され、大げさに荘重な予告編を何度も見させられた。

当時、なぜ公開されたのか非常に不思議に思ったが、その理由も分かったが、ここには書かない。

ともかく映画界も人間関係の社会であることが良くわかった。

 



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