指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『桜姫東文章』

2022年05月12日 | 演劇

『桜姫東文章』を見て、私は次のことを思い出した。

 

                                         

この話は、僧清玄と公家の娘菊姫との話で、二人は、いろんな人間に変化して出会い、そして恋に落ちる。

これは、なにを意味しているのだろうか。それは、人間はある傾向の異性に引かれると言うことだと思う。

 

それよりも人間は、ある種の傾向を容貌を持った異性に常に惹かれるようにできているからだ、と考えたほうが辻褄があうように思う。それは、私自身のことを考えても、心引かれる女性は、大体同じで、ある種の傾向があると思う。「人間は、それぞれ異性に対して、独自の牽かれる傾向性を持っているものなのだ」と気がついたのは、区役所で生活保護の経理担当課長をやっているときだった。
「いつも同じような男に会い、その結果上手く行かなくなっていて、そこには学習効果がない」
生活保護を申請する女性の生活歴である。ご承知のように、生活保護を申請する場合は、その申請に至った理由、出生から現在までの生活歴を担当者に述べ、記録させて措置決定の是非を判断するようになっている。
それを読むとまさに様々で、言わば「日本の下層社会の実態の記録」とでも言おうか、実に興味深い叙述がなされている。その中で、特に女性に多いのが、相手の男の職業、風体がいつも大体同じと言うことである。
タクシー運転手は、ずっと運転手、自衛隊相手は自衛隊、ヤクザに付き合った女性は、次々とヤクザと一緒になる。
それは、どうしてなのだろうか。勿論、現在の日本のような階級的障壁の比較的小さい社会でも、社会的階層の格差はあり、個々の人間は同じ階層の人間と出会うしかないのだからと言えるだろう。
だが、それだけではないように私は思う。
やはり、各自には、それぞれが好きになる相手の傾向性が、遺伝子DNAに書かれていると考えた方が自然のように思う。だから、人間は常に自分の持つ、特定の傾向、風貌の相手を求めているのである。
それが、何度も似た女性に出会う、という筋書きになるのだと私は思う。

しかも、ここには上層から下層までの社会が描かれている。

まるで、日本のバルザックだと思えた。


演歌もニューミュージックもない「紅白歌合戦」

2022年05月12日 | 音楽

月曜日、なにもなかったので、ネットで1965年の『紅白歌合戦』を見た。

 

                                       

司会が、紅組が林美智子、白組は宮田輝だった。宮田は、とっくの昔に死んでいるが、林はご健在のようだ。

林は、この前年の朝ドラの『うず潮』の主演をやったからで、無名の女優だった。

審査員は、円地文子、松下幸之助、ファイティグ・原田などだった。

最初は、三沢あけみと井沢八郎で、高校時代に三沢あけみが好きな同級生がいたことをもいだした。

サッカー部の男で、変な趣味だと思ったが、たしか一橋大に行ったと思う。

春日八郎は、「大阪の灯」、西田佐知子が「赤坂の夜」

坂本九「ともだち」、雪村いずみは黒塗りで「スワニー」 今では問題になる化粧だろう。

山田太郎「新聞少年」、園まり「逢いたくて逢いたくて」

東海林太郎が、叙勲をしたので、特出で「赤城の子守歌」

アイ・ジョージの「赤いグラス」 弘田三枝子「恋のクンビア」

ジャニース「マック・ザ・ナイフ」 江利チエミ「芸者音頭」などなど。

全部を見たわけではないが、演歌もニューミュージックもないことに気づいた。

1965年、昭和40年は、そんな時代だったと思った。

全体としてみれば、民謡調の曲が多く、ポピュラー系は、外国曲をそのまま歌っていた感じだった。