行政書士中村和夫の独り言

外国人雇用・採用コンサルティング、渉外戸籍、入管手続等を専門とする25年目の国際派行政書士が好き勝手につぶやいています!

日系人のルーツ探しと、戸籍のお話(シリーズ第4回 その1)

2007-06-15 18:12:26 | 行政書士のお仕事

 「祖父の戸籍を取って欲しい」そんな依頼が舞い込むことがあります。家系図作りではありません。さりとて、相続確定手続でもありません。さて、何の為でしょうか?

 答えは、「日系人の呼び寄せ」の為なのです。”なあ~んだ!また、日系人か!”と、嘆かないで下さい。これが結構面白い仕事なんです。最近は、もうほとんどありませんが、90年代は盛んに行われたようです。

 さて、こんな依頼をされたら、皆さんだったらどうされますか?分かるのは、アルファベットによる氏名と生年月日、出身県、それと移民した年くらいしか分かりません。フルネームの漢字や、勿論、正確な本籍、住所さえも分かりません。当時のパスポートの写しもありません。 ん~!と言って直ぐに答えられたら、もう立派なプロですよ。本当に!

 ちなみに、当時のパスポートですが、例えば次のように書かれてあります;

 右ハ、呼寄に依リ秘露国ヘ(以下余白)、赴クニ付通路故障ナク旅行セシメタル且必要ナル保護扶助ヲ興ヘラレム事ヲ其ノ筋諸官ニ希望ス

 昭和九年十一月五日

 日本帝国外務大臣 従三位勲一等 廣田 弘毅

 あの、文官として唯一A級戦犯で処刑された元総理大臣でもあった廣田弘毅が出てくるあたり、歴史を感じます。確か、大隈重信なんて書いてあったのもありました。

 今の日本国パスポートには書かれてありませんが、昔の旅券には、本籍地、戸主との続柄、職業、身長、特徴などが書かれてありました。国によっては、今でもパスポートにこれらの事項や、はたまた両親の名前までが記載されている旅券などもあります。日本国旅券は住所とか連絡先とかを記載する場所はありますが、自分で書きますから、実際書いている人は少ないみたいですね。

 さて、こういった本籍地が書かれた旅券の写しがあれば、行政書士であれば除籍謄本又は、戸籍謄本、或いは、改製原戸籍を簡単に職務請求で取得できます。ん~???何やら分からない専門用語が出て来ましたか?それでは、以下のサイトで戸籍についてのお勉強をしてからに致しましょう!

  http://www004.upp.so-net.ne.jp/hitosen/index.html

 長くなりそうですので、次回に続くという事で・・・。最近長いブログばっかりでウザイ! そんなことおっしゃらないで、どうかどうかご辛抱をm(_ _)m。

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祖国のない南米日系人達(その3 最終回) 

2007-06-13 18:27:39 | 日系人について

 日系人達は、10人が10人「お金が貯まったら母国に帰って家を買い、そしてビジネスでも始めよう!」皆そう思ってやって来るのです。だから、当初、日系人達は自分たちのこと自ら「デカセギ」と呼んでいたのであったのですが・・・。

 しかし、日系人が日本に来るようになって、もう17年になるのです。もう、「デカセギ」という言葉は誰も使わなくなりました。それは、帰国して、母国に家を買っても、或いは、ビジネスを始めても、ほとんどの者達は、やがては日本に戻ってくるからなのです。

 みんな、食べる物も節約して、3Kと呼ばれる肉体労働に従事し、毎日残業をして、場合によっては休日さえも返上してお金を貯めているのです。日本人に”出稼ぎ日系人”と冷笑されても、本国の家族の為に送金し、家を買うための貯金をしたのでした。そして、日本でのキツイ仕事とおさらばして、故郷に立派な家を建て、店舗を開いた者も多かったのでしたが・・・。

 しかし、彼等はなぜか日本に戻って来てしまうのです。残業が少なくなって、90年代初頭のようには、今では稼げる仕事などまず無いにもかかわらず・・・。しかし、強盗や誘拐の心配も無く、夜は安心して眠れるのです。

 会社(工場)では、ガイジン、ガイジンといわれ、社員の同僚達とは待遇や給料は明らかに違います。給料を比較しても、日系人の給料は安いのです。しかし、給料の支払が遅れたり、会社が潰れてただ働きとなる心配はほとんど無いのです。ある意味、諦めて気楽に働けば、それなりには楽しいのです。

 勿論、出世どころか、保証、特に厚生年金や健康保険にも加入していないから、年金は貰えないのです。だから、とても不安ではあるのですが、日本国籍が取得できれば、なんとかなると思っているのです。

 子供達の教育のこともあります。日本で教育を受けさせる方がレベルが断然高いのです。しかし、家ではポルトガル語、スペイン語ばかりで話すから、子供達の日本語の成績ばかりか、どの教科の成績も良くはないのです。だから、イジメに遭うことも多く、義務教育でさえ中退してしまう子供達も多いのです。それでも、母国の学校に行くよりよっぽどマシだと彼らは日系人達は思っているのです。

 自分たち日系人達が、日本社会で最低レベルに近い生活をしているらしいことは、彼らは分かっているのです。しかし、本国での最低のレベルの生活に比べたら、こちらの方が断然良いのです。

 さすがに、子供達には、自分たちのようになって欲しくはないと皆思っているのです。そして、その子供達への教育は、日本で受けさせたいと思っているのです。

 また、最近は、永住許可が貰い易くなりました。だから、毎月が家賃並の長期ローンが組めるので、家賃並の支払で家が買えてしまいます。ローンは家賃並ではありますが、請負業者に勤務しているので、仕事が無くなると支払が滞ってローンが払えなくなり、破綻する者も結構いるのです。でも、家賃並だから、滞納して買った家が差し押さえになったとしても、大して深刻ではないし、腹も立たないのです。そう!また、やり直せば良いと思ってしまうのです。

 ただ、もう母国へ帰る気は起こりません。かといって、このまま、年金のないまま日本で暮らして行ける自信も無いのです。

 そう、彼等南米日系人は、祖国として南米での生活を忘れ去ろうとしています。と、いうか、彼等は再び日本に移民しようとしているのです。かつて、祖父母や曾祖父母達が辿ってきた道と同じように。

 その不安を忘れるさせるのが、同胞達の存在なのです。彼等とビールを飲み、サッカーを見たり、或いは、母国のTVドラマの話しをしていれば、気が休まるのです。そうでもしないと、キツイく、キケンで、キタナイ仕事は、やはり辛いのです。

 どうなる!南米日系人達!

 君たちは、また先祖達と同じ道を運命として歩んで行くのか!

 そして、日本社会に同化してゆけるのか!

 学校中退者が多い子供達に、未来はあるのか!

 私は本当に心配しているのです。だから、彼等に正社員になるよう常に勧めています。若い人達には年金加入を勧めています。子供の居る親達には、学校を中退させないよう、常に声をかけています。「あなた達と同じように子供達をしたいのですか?」と。それが、若かかりし頃の私を育ててくれたラテンアメリカへの恩返しだと、私は思っているからなのです。

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祖国のない南米日系人達(その2)

2007-06-11 01:48:46 | 日系人について

 戦後の日本では、一握りの大地主による小作農支配から脱却させるべく、農地改革が始まり、多くの小作農民達が自作農民となったのでした。それでも、事実上の家督制度が残っていた農家では、やはり次男坊・三男坊は自分の田畑を持つことはなかなかできませんでした。地元で職があるわけもなく、かといって、都会は闇市を仕切るヤクザもどきの男達と進駐軍が跋扈する恐ろしい世界でした。

 南米に移住した親戚にお金や食料を送って欲しいと手紙を書いた者も、昭和20年代には多くおり、実際多くの移民達から食料や金銭が日本へ送られてきたのでした。それを聞いた農家の多くの若者達は、南米で一旗揚げられるのではないか?と希望を抱くようなっていたのでした。

 こんな若者達に対して、日本政府はブラジルをはじめとした南米諸国への移民の奨励を拡大し続けたのでした。口の悪い現地の南米人達は、「日本という国には貧乏人しか輸出品は無いのか」といって、内心蔑んでいた者もいたほどでした。今でこそ、トヨタ、ソニーといった世界的な企業がいくつもありますが、東京オリンピック以前までは、日本製品といえば、「安かろう、悪かろう」の代名詞でもあったのでした。

 しかし、東京オリンピックを境に、日本は世界に対して見事にその復興を見せつけたのでした。そして、昭和40年代、50年代と、冷戦やベトナム戦争で苦しむ米国、ソ連(今のロシア)を横目に、目覚ましい技術革新と世界市場への進出が行われ、日本製品イクオール高級品といった認識が世界に広がっていったのでした。そして、1988年頃には、日本国内で有り余った潤沢な資金をもとに、企業や個人はニューヨークの不動産をはじめとする世界中の資産や美術品を買いあさったのでした。いわゆる、これがバブル経済でした。

 一方、中南米といえば、1982年に起こったメキシコの債務不履行を契機に、すべての国々で不景気下のインフレが起こり始めたのでした。只でさえ、産業の無いこれらの国々の中でも、星ともいえるメキシコ、ブラジル、アルゼンチンといった強国が落ちぶれてしまえば、ペルー、ボリビアといった小国はひとたまりもありませんでした。物の値段は、毎日のように上がり続け、仕事はまったく無く、犯罪やテロで安心して生活できないこれらの国々での生活は惨憺たるものになってしまっていたのでした。アメリカ、ヨーロッパなどに親族のいる者達は、我先を争って母国から逃げ出しました。

 南米諸国の日系人達はというと、やはり、日本人の子である日系2世達が少しずつ逃げるように日本へやって来るようになっていたのでした。しかし、移民2世といっても、既に50歳代60歳代の者達が多くおり、日本語をあまり上手に話せなくなっていた人々がほとんどでしたから、単純作業の仕事しか職はありませんでした。

 しかし、折しも日本はバブル景気で、大変な人不足の為に、財界及び政界ではなんとしてでもこの目前の問題を早急に解決させる必要に迫られていたのでした。そんなところに、官僚達が出した提案は、かつて日本から追い出した日系移民達の末裔を活用してはどうかという提案でした。つまり、日本人の子である日系2世のみならず、日系3世とその配偶者まで就労できるようするとのアイデアでした。外国人の単純労働を認めたくない法務省としては、日系人という身分に関わる条件であれば、拒否する理由はありませんでした。かつて移民政策を率先して負い目のある外務省は、彼らに対する償いという意味からも大賛成でありました。産業界を代弁する通産省(現経産省)や、建設業界を抱える建設省も、勿論大賛成でした。

 こうして、出入国管理令は、大きき生まれ変わって、政令から法律となり、「出入国管理及び難民認定に関する法律」として1990年に施行されたのでした。ある意味では、有史以来、事実上鎖国状態にあった外国人に対する出入国管理がはじめて法律という欧米並みのシステムの形になった瞬間でした。それほど、日本は対外国人政策では欧米諸国よりも何十年も遅れていたのでした。

 この動きに驚喜したのは、南米に住む日系移民の子、孫、ひ孫達やその配偶者達でした。「これで、このテロとインフレの国から逃げられる」と、誰もがまだ見ぬ祖父母達の祖国日本、先端技術立国日本へ働きに行く事を夢見たのでした。いや、何も日系人とその家族ばかりではありませんでした。何とか日本へ渡るべく、子供の居ない、或いは、少ない移民1世に金銭で養子縁組を頼む者(入管法では養子は日系人として扱われません。)達も沢山現れ、それを商売とする者や日系人名の偽造旅券で渡航させる悪徳業者さえ出始めたのでした。

 しかし、多くの日系人達は、一度は祖国日本と決別をし、現地風の名前や読みに出生証明や身分証を変えて居た者が多数いたのでした。山田太郎と称するよりも、山田ホセと名乗った方が、現地でスムーズな生活が送れたからでした。また、現地官吏が聞き違えて作成した出生証明もそのままで放置したのでした。それは、子供達、孫達を差別と偏見から守る手段でもあったのでした。これらの者達は、先ずは裁判にて出生証明書の訂正判決を得なければならず、直ぐに日本へ渡ることはできませんでした。また、沖縄出身者の中には戦争で戸籍が滅失し、沖縄に生き残っている親族に証人となって貰って戸籍を回復しなければならない者もおりました。また、親族が戦争でほとんど行方不明で、祖父母の戸籍謄本がどこにあるのかも分からない3世達も数多くいました。更には、戦中戦後に生まれた世代の子供達の出生の届出を日本大使館にした者と、そうでない者との間で、同じ移民境遇や年齢でありながら、一方は日系3世として日本へ行ける者と、日系4世であるために日本へは行けない者との明暗を分けることに事になってしまったのでした。

 入管法では、日系3世とその配偶者までが就労できますが、日系4世は、3世の未成年の子として扶養される者以外には、就労することができないのです。つまり、戦後の焦土と化した日本へ戻ることを将来を含めて諦めて、大使館に子供の出生の届出と国籍留保の届出をしなかった当時の子供達すべては、原則として日本国籍を喪失し、その結果として、孫達は日系4世となるために、日本での就労はできなくなってしまったのでした。しかし、それは、ブラジル、ペルー、アルゼンチンといった移民が多かった国(他にアメリカ、カナダ、メキシコ、チリ)へ移民した日本人が対象であり、その他の小さな国であるボリビアやパラグアイなどに移民した日本人は対象外でした。ここでも、移民した国によって日系人の間で、更なる明暗を分けたのでした。

 こうして、現地南米で、苦難や差別をなんとかして乗り越えてきた移民日本人の末裔達は、再び見知らぬ東洋の国、”日本”という祖父母達の生まれた国に舞い戻ってきたのした。そしてそれが、再び彼らにとって苦難と差別のはじまりであることは知らなかったのです。いや、今でも苦難のはじまりであることさえ理解していない者達も多くいるのです。

(以下次号に続く・・・)

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祖国のない南米日系人達(その1)

2007-06-09 02:49:11 | 日系人について

 唐突ですが、Wikipediaに書かれてある「日系人」に関する記載があまりにもひどすぎたので、怒りを込めて、日系人について私が知っている限りの事実を以下に書きたいと思います。Wikipediaに書かれてあるように日系移民は決して一時的な出稼ぎ労働者として国を出たのではありません。国策として日本を追い出された棄民(ドミニカ移民に対する外務省の詐欺まがいの行為は裁判でも断罪されています!)なのです。日系移民が盛んだった頃は、今のように輸入食料品が溢れていたような時代では決してありません。100%米や食料品の自給自足を国是としていた頃の話しなのです。そんな慢性的な貧困による食糧不足の解消策の一環として、移民政策があった事を私達は決して忘れてはいけないと思います。

 1980年代、3Kという言葉が流行したのを覚えている方々も多いと思います。「キケン」「キツイ」「キタナイ」の3つの要素を持つ仕事の事で、それに「給与が少ない」のKを入れて4Kという人もいました。例えば、産業廃棄物の分別、養鶏場や養豚場、大手下請の町工場、建設解体作業、食品加工工場、お弁当工場、農作業、水産加工業、クリーニング、清掃等々と数え上げたらきりがありません。

 こういった職種が3K、4Kで無くなった訳ではありませんし、不景気で日本人の若者や中高年がわんさと押しかけている訳でもありません。では、ここ10年あまりで、どうして3K、4Kとの声が聞かれなくなったのでしょうか?

 それは、日本に35万人以上居ると言われている南米系日系人とその家族達がこういった職種に就労しているからなのです。勿論、研修・技能実習を悪用して、8万人程の外国人(主に中国人)も近年は目立って増えてはきていますが、やはり、主流は南米系の日系人なのです。

 もし、彼らが一挙に祖国のブラジル、ペルー、ボリビア等々へ帰国してしまったら、おそらくかなりの業種が機能しなくなってしまうと思われます。特に、入管法が改正されてから彼ら南米日系人を季節作業員としてこき使ってきた自動車部品産業やお弁当などの食品加工産業は大打撃となり、場合によっては閉鎖に追い込まれる業種も出てくるでしょう。

 ですから、私達は知らない間に、彼ら南米日系人が作った車に乗り、彼らが手を加えた弁当を食べ、彼らが加工したデザートを楽しみ、そして、捨てたゴミを選別して貰っているのです。それも、私達がまったく知らない、見えない裏方の仕事として、彼ら南米日系人は日夜働き続けているのです。

 彼ら南米系日系人は、中国人などの外国人と比べて、出世欲、事業意欲は極めて低いのです。それは、彼らが享楽的な南米人気質である事とはまったく関係はありません。それは、彼ら日系人の本能に備わった防衛機能であるとも言えるのです。

 第2次大戦中、南北アメリカの多くの日系人は敵国人として、その財産を没収され、多くの国で、不当にも収容されたのでした。つまり、ビジネスマンとして、現地でどのように成功しようとも、一夜にしてすべてを失うという苦渋の歴史があったのでした。だからこそ、その子孫達は、そのおぞましい経験を決して忘れることができなかったのでした。ですから、多くの日系人達は、本能的に目立たないような職種に就いたり、目立たないように自分たちの同胞のみとの行動をとってしまう傾向があるのです。それは、彼らの生き残るすべでもあったのでした。

 いわゆる移民1世と呼ばれる移民日本人のほぼ全員は、小作農(自分の農地を持たずに、農地を借りて耕作している農民のこと)か、やせた土地や気候の厳しい土地に暮らす苦しい農家の次男・三男坊でした。まして、今の日本のように、ほとんどの家庭で子供に高等教育など与えられる余裕などまったくなかった時代だったのでした。ですから、お米などの産地といわれるような比較的豊かな土地(県)からの南米への移住者はほとんどいないのです。

 彼らは、日本で飢えに苦しむよりは、豊かな南米に夢と活路を求めて、1ヶ月かかって船底で、船酔いに苦しみながら、海を渡ったのでした。しかし、陸に上がって、そこに待ち受けていたのは夢でも希望でもありませんでした。与えられた土地は、広さはあっても、耕作に適さないやせた土地か、荒れ地だったのでした。絶望して命を絶ったものもいれば、マラリア、デング熱などの熱帯伝染病にて倒れた者も多数いました。そして何よりも、彼らを苦しめたのは、彼らの事を、珍しい生き物や奴隷のように思って、接していた現地の人達の差別でした。

 そんな苦しく長い長い年月を経て、ある者は国家元首まで上り詰めた者もいました。また、事業家として大成功した者もいました。しかし、多くの日系人長老達は、「そのうちに、必ずしっぺ返しにあう!」と眉をひそめていたのでした。それは、もう、彼ら日系人の体の芯まで染みついた、自衛本能のような感覚だったのでした。

 第2次世界大戦で敗れた祖国日本の国土は、焦土と化していました。大都市では飢えで死ぬ者も多々いると、伝えられていました。南米日系人達は、望郷の念を抱きながら、少なくとも食べるに困らない南米での生活に少なからずホットしていたのでした。たとえ、現地の人々に蔑まれても、祖国日本に住むより余程幸せだと思ったのでした。大使館が再開すると、子供の出生を届けるよう、日本人会などを通じて呼びかけもありましたが、「あの焦土と化した祖国の民に戻ることなどとても出来ない」と多くの日系1世達は、到底そんな事は考えませんでした。自分の子供達の出生届けをするデメリットはあっても、メリットは当時は何もないよう思えたのでした。また、時間的な(当時、田舎から大使館のある大都市に出るには、場所によっては、2日も3日もかかるところもあったのでした。)余裕もなければ、まして、届出だけの為に旅費を出費する金銭的な余裕など、どこにもありませんでした。

 しかし、それが、のちに子供達や孫達、そしてひ孫達の人生に大きく影響するなどとは、当時は誰も考えていませんでした。

(以下、次号につづく・・・)

コメント
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日本語はむずかしい~!

2007-06-06 13:19:08 | うんちく・小ネタ

 仕事柄さまざまなお国の方々と接しています。日本人と間違える程、ペラペラの日本語を話す方、まだまだ日本語がたどたどしい方、日本語を話せても話そうとしない方、まったく日本語を覚えようとしない方等々、いろいろな方々がいらっしゃいます。

 私はといえば、しゃべる事、書くことは仕事のみならずとも嫌いではありません。と、いうか大好きです。しかしながら、このブログに対する世間の声は「やわらかさに欠ける、堅い、一般受けしないetc.」酷評されております。

 となりの物知りのおじさん曰く「文は人なりです。文章は中村さんそのものですよ!」とのことだそうです。この仕事に就いて、いつの間にやら9年目ですから、行政書士なる職業にどっぷりと首まで浸かっている結果なのでしょか??「やわらかく、やさしく、そして、一般受けする」というスタイルは、私自身の姿ではきっと無いのでしょうから、無理に迎合したくはありません!と、言ってはみたものの、これは強がりで、本当は「やさしく、やわらかく、一般受けするブログを書いてみた~い」と思っているのです。

 在日外国人の方々にとっては、どんなに日本語が上手く話せても、ことわざや熟語などの類いはやはり相当難しいようです。そういう私自身も、「情けは人のためならず」は、「情けをかけていけない」と、10年前の42歳まで、ず~と思い込んでいた訳でして。なんと!意味が全く逆であったとは・・・、外国の方々のことなどとても言える資格はなさそうです。トホホホ~。

 このブログを読んで頂いている限られたマニアックな方々(??)とは「袖スリ合うも多少の縁」ということで、何かのご縁を感じつつ大事にしたいと思います。

 あ!そうなんですか!「袖スリ合うも多生の縁」なんですか?日本語は難しい~!

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