行政書士中村和夫の独り言

外国人雇用・採用コンサルティング、渉外戸籍、入管手続等を専門とする25年目の国際派行政書士が好き勝手につぶやいています!

祖国のない南米日系人達(その2)

2007-06-11 01:48:46 | 日系人について

 戦後の日本では、一握りの大地主による小作農支配から脱却させるべく、農地改革が始まり、多くの小作農民達が自作農民となったのでした。それでも、事実上の家督制度が残っていた農家では、やはり次男坊・三男坊は自分の田畑を持つことはなかなかできませんでした。地元で職があるわけもなく、かといって、都会は闇市を仕切るヤクザもどきの男達と進駐軍が跋扈する恐ろしい世界でした。

 南米に移住した親戚にお金や食料を送って欲しいと手紙を書いた者も、昭和20年代には多くおり、実際多くの移民達から食料や金銭が日本へ送られてきたのでした。それを聞いた農家の多くの若者達は、南米で一旗揚げられるのではないか?と希望を抱くようなっていたのでした。

 こんな若者達に対して、日本政府はブラジルをはじめとした南米諸国への移民の奨励を拡大し続けたのでした。口の悪い現地の南米人達は、「日本という国には貧乏人しか輸出品は無いのか」といって、内心蔑んでいた者もいたほどでした。今でこそ、トヨタ、ソニーといった世界的な企業がいくつもありますが、東京オリンピック以前までは、日本製品といえば、「安かろう、悪かろう」の代名詞でもあったのでした。

 しかし、東京オリンピックを境に、日本は世界に対して見事にその復興を見せつけたのでした。そして、昭和40年代、50年代と、冷戦やベトナム戦争で苦しむ米国、ソ連(今のロシア)を横目に、目覚ましい技術革新と世界市場への進出が行われ、日本製品イクオール高級品といった認識が世界に広がっていったのでした。そして、1988年頃には、日本国内で有り余った潤沢な資金をもとに、企業や個人はニューヨークの不動産をはじめとする世界中の資産や美術品を買いあさったのでした。いわゆる、これがバブル経済でした。

 一方、中南米といえば、1982年に起こったメキシコの債務不履行を契機に、すべての国々で不景気下のインフレが起こり始めたのでした。只でさえ、産業の無いこれらの国々の中でも、星ともいえるメキシコ、ブラジル、アルゼンチンといった強国が落ちぶれてしまえば、ペルー、ボリビアといった小国はひとたまりもありませんでした。物の値段は、毎日のように上がり続け、仕事はまったく無く、犯罪やテロで安心して生活できないこれらの国々での生活は惨憺たるものになってしまっていたのでした。アメリカ、ヨーロッパなどに親族のいる者達は、我先を争って母国から逃げ出しました。

 南米諸国の日系人達はというと、やはり、日本人の子である日系2世達が少しずつ逃げるように日本へやって来るようになっていたのでした。しかし、移民2世といっても、既に50歳代60歳代の者達が多くおり、日本語をあまり上手に話せなくなっていた人々がほとんどでしたから、単純作業の仕事しか職はありませんでした。

 しかし、折しも日本はバブル景気で、大変な人不足の為に、財界及び政界ではなんとしてでもこの目前の問題を早急に解決させる必要に迫られていたのでした。そんなところに、官僚達が出した提案は、かつて日本から追い出した日系移民達の末裔を活用してはどうかという提案でした。つまり、日本人の子である日系2世のみならず、日系3世とその配偶者まで就労できるようするとのアイデアでした。外国人の単純労働を認めたくない法務省としては、日系人という身分に関わる条件であれば、拒否する理由はありませんでした。かつて移民政策を率先して負い目のある外務省は、彼らに対する償いという意味からも大賛成でありました。産業界を代弁する通産省(現経産省)や、建設業界を抱える建設省も、勿論大賛成でした。

 こうして、出入国管理令は、大きき生まれ変わって、政令から法律となり、「出入国管理及び難民認定に関する法律」として1990年に施行されたのでした。ある意味では、有史以来、事実上鎖国状態にあった外国人に対する出入国管理がはじめて法律という欧米並みのシステムの形になった瞬間でした。それほど、日本は対外国人政策では欧米諸国よりも何十年も遅れていたのでした。

 この動きに驚喜したのは、南米に住む日系移民の子、孫、ひ孫達やその配偶者達でした。「これで、このテロとインフレの国から逃げられる」と、誰もがまだ見ぬ祖父母達の祖国日本、先端技術立国日本へ働きに行く事を夢見たのでした。いや、何も日系人とその家族ばかりではありませんでした。何とか日本へ渡るべく、子供の居ない、或いは、少ない移民1世に金銭で養子縁組を頼む者(入管法では養子は日系人として扱われません。)達も沢山現れ、それを商売とする者や日系人名の偽造旅券で渡航させる悪徳業者さえ出始めたのでした。

 しかし、多くの日系人達は、一度は祖国日本と決別をし、現地風の名前や読みに出生証明や身分証を変えて居た者が多数いたのでした。山田太郎と称するよりも、山田ホセと名乗った方が、現地でスムーズな生活が送れたからでした。また、現地官吏が聞き違えて作成した出生証明もそのままで放置したのでした。それは、子供達、孫達を差別と偏見から守る手段でもあったのでした。これらの者達は、先ずは裁判にて出生証明書の訂正判決を得なければならず、直ぐに日本へ渡ることはできませんでした。また、沖縄出身者の中には戦争で戸籍が滅失し、沖縄に生き残っている親族に証人となって貰って戸籍を回復しなければならない者もおりました。また、親族が戦争でほとんど行方不明で、祖父母の戸籍謄本がどこにあるのかも分からない3世達も数多くいました。更には、戦中戦後に生まれた世代の子供達の出生の届出を日本大使館にした者と、そうでない者との間で、同じ移民境遇や年齢でありながら、一方は日系3世として日本へ行ける者と、日系4世であるために日本へは行けない者との明暗を分けることに事になってしまったのでした。

 入管法では、日系3世とその配偶者までが就労できますが、日系4世は、3世の未成年の子として扶養される者以外には、就労することができないのです。つまり、戦後の焦土と化した日本へ戻ることを将来を含めて諦めて、大使館に子供の出生の届出と国籍留保の届出をしなかった当時の子供達すべては、原則として日本国籍を喪失し、その結果として、孫達は日系4世となるために、日本での就労はできなくなってしまったのでした。しかし、それは、ブラジル、ペルー、アルゼンチンといった移民が多かった国(他にアメリカ、カナダ、メキシコ、チリ)へ移民した日本人が対象であり、その他の小さな国であるボリビアやパラグアイなどに移民した日本人は対象外でした。ここでも、移民した国によって日系人の間で、更なる明暗を分けたのでした。

 こうして、現地南米で、苦難や差別をなんとかして乗り越えてきた移民日本人の末裔達は、再び見知らぬ東洋の国、”日本”という祖父母達の生まれた国に舞い戻ってきたのした。そしてそれが、再び彼らにとって苦難と差別のはじまりであることは知らなかったのです。いや、今でも苦難のはじまりであることさえ理解していない者達も多くいるのです。

(以下次号に続く・・・)

コメント (4)
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