昨日、名古屋入国管理局に、6~7年ほど前から依頼を受け続けている某日系人の更新取次申請に行ってまいりました。
9年前、はじめて名古屋入国管理局に行った時には、庁舎は名古屋市役所の近くの合同庁舎内にありました。それが、手狭になったので、審査部門だけを丸ノ内地区のビル内に移したのでした。そして、今現在は金城埠頭方面にある名古屋競馬場駅前に、立派な新庁舎が昨年完成したばかりでした。
ところで、名古屋駅に向かう帰りの電車の中で、ある工場労働者風の初老の日本人男性が私の真向かいの席に腰掛けていました。普通ならば、何も変わった事では無かったのですが、その初老の日本人男性、突然紙袋からブラジルのパスポートをおもむろに取り出したのでした。
てっきり、日本人だと思っていたのですが・・・。そう、彼は日系ブラジル人だったようです。しかし、どう見ても、ごくありふれた普通の初老の日本人工場労働者の風貌でした。
その日系人の額には深い苦労皺が刻まれており、手はいかにも機械や工具を使い慣れた厳つい手でありました。そして、その厳つい手の中には、出入国カードが挟まった真新しいブラジル旅券があったのでした。
おそらく、派遣切りとなってしまい、年齢からも再就職の道は険しい事から、ついに帰国を決めたようでした。
入国管理局で、今日受けた再入国許可証の期限である3年以内に、この日本に戻って来れるのだろうかと、この日系人老人は、まるでパスポートに尋ねているかのように見えたのでした。
老人は、次によれよれの紙袋から古いパスポートを引っ張り出し、1ページ1ページめくり始めたのでした。そして、その古いパスポートを眺める姿は、彼自身の日本での歴史を一つ一つ思い出しながら眺めているかのようでした。
おそらく、その初老の日系ブラジル人は、ブラジルでも成功者ではなかったのでしょう。そして、18年前に、日本という父母がいつも語ってくれた奇跡の復活を成し遂げた夢の故郷に、希望を膨らましてやって来たのでしたが・・・。
しかし、日本では、やはり彼は異端者である只のガイジンに過ぎなかったでした。それでも、子供達の為の学費をブラジルに送金し、ささやかながらブラジルに家も建てることもできたのでした。しかし、父母の故郷日本は、父母達が生前いつも言っていたような夢の国ではありませんでした。
その初老の日系人は、パスポートに貼られた何枚もの在留許可証印を眺めながら、光陰のように過ぎ去って行った日々を思い浮かべていたのでした。それは、決して楽な日々ではなかったのですが、それなりに充実していた日々だったのでしょうか・・・。
昨年末に突然解雇され、もう年齢的に職を見つける事が難しくなっていることは理屈では分かっていたのですが・・・。しかし、今日、彼は日本という国に決別する事を決めたのでした。
残念ながら私は、このような日系人に対しては無力でした。私は、その虚ろで、苦労皺だらけの顔の日系ブラジル人に、「本当に長年お疲れ様でした!お役に立てずに済みません。」と、心の中で叫んで、東京行きの新幹線に乗り遅れまいと、急いで階段を駆け下りて行ったのでした。