行政書士中村和夫の独り言

外国人雇用・採用コンサルティング、渉外戸籍、入管手続等を専門とする25年目の国際派行政書士が好き勝手につぶやいています!

祖国のない南米日系人達(その1)

2007-06-09 02:49:11 | 日系人について

 唐突ですが、Wikipediaに書かれてある「日系人」に関する記載があまりにもひどすぎたので、怒りを込めて、日系人について私が知っている限りの事実を以下に書きたいと思います。Wikipediaに書かれてあるように日系移民は決して一時的な出稼ぎ労働者として国を出たのではありません。国策として日本を追い出された棄民(ドミニカ移民に対する外務省の詐欺まがいの行為は裁判でも断罪されています!)なのです。日系移民が盛んだった頃は、今のように輸入食料品が溢れていたような時代では決してありません。100%米や食料品の自給自足を国是としていた頃の話しなのです。そんな慢性的な貧困による食糧不足の解消策の一環として、移民政策があった事を私達は決して忘れてはいけないと思います。

 1980年代、3Kという言葉が流行したのを覚えている方々も多いと思います。「キケン」「キツイ」「キタナイ」の3つの要素を持つ仕事の事で、それに「給与が少ない」のKを入れて4Kという人もいました。例えば、産業廃棄物の分別、養鶏場や養豚場、大手下請の町工場、建設解体作業、食品加工工場、お弁当工場、農作業、水産加工業、クリーニング、清掃等々と数え上げたらきりがありません。

 こういった職種が3K、4Kで無くなった訳ではありませんし、不景気で日本人の若者や中高年がわんさと押しかけている訳でもありません。では、ここ10年あまりで、どうして3K、4Kとの声が聞かれなくなったのでしょうか?

 それは、日本に35万人以上居ると言われている南米系日系人とその家族達がこういった職種に就労しているからなのです。勿論、研修・技能実習を悪用して、8万人程の外国人(主に中国人)も近年は目立って増えてはきていますが、やはり、主流は南米系の日系人なのです。

 もし、彼らが一挙に祖国のブラジル、ペルー、ボリビア等々へ帰国してしまったら、おそらくかなりの業種が機能しなくなってしまうと思われます。特に、入管法が改正されてから彼ら南米日系人を季節作業員としてこき使ってきた自動車部品産業やお弁当などの食品加工産業は大打撃となり、場合によっては閉鎖に追い込まれる業種も出てくるでしょう。

 ですから、私達は知らない間に、彼ら南米日系人が作った車に乗り、彼らが手を加えた弁当を食べ、彼らが加工したデザートを楽しみ、そして、捨てたゴミを選別して貰っているのです。それも、私達がまったく知らない、見えない裏方の仕事として、彼ら南米日系人は日夜働き続けているのです。

 彼ら南米系日系人は、中国人などの外国人と比べて、出世欲、事業意欲は極めて低いのです。それは、彼らが享楽的な南米人気質である事とはまったく関係はありません。それは、彼ら日系人の本能に備わった防衛機能であるとも言えるのです。

 第2次大戦中、南北アメリカの多くの日系人は敵国人として、その財産を没収され、多くの国で、不当にも収容されたのでした。つまり、ビジネスマンとして、現地でどのように成功しようとも、一夜にしてすべてを失うという苦渋の歴史があったのでした。だからこそ、その子孫達は、そのおぞましい経験を決して忘れることができなかったのでした。ですから、多くの日系人達は、本能的に目立たないような職種に就いたり、目立たないように自分たちの同胞のみとの行動をとってしまう傾向があるのです。それは、彼らの生き残るすべでもあったのでした。

 いわゆる移民1世と呼ばれる移民日本人のほぼ全員は、小作農(自分の農地を持たずに、農地を借りて耕作している農民のこと)か、やせた土地や気候の厳しい土地に暮らす苦しい農家の次男・三男坊でした。まして、今の日本のように、ほとんどの家庭で子供に高等教育など与えられる余裕などまったくなかった時代だったのでした。ですから、お米などの産地といわれるような比較的豊かな土地(県)からの南米への移住者はほとんどいないのです。

 彼らは、日本で飢えに苦しむよりは、豊かな南米に夢と活路を求めて、1ヶ月かかって船底で、船酔いに苦しみながら、海を渡ったのでした。しかし、陸に上がって、そこに待ち受けていたのは夢でも希望でもありませんでした。与えられた土地は、広さはあっても、耕作に適さないやせた土地か、荒れ地だったのでした。絶望して命を絶ったものもいれば、マラリア、デング熱などの熱帯伝染病にて倒れた者も多数いました。そして何よりも、彼らを苦しめたのは、彼らの事を、珍しい生き物や奴隷のように思って、接していた現地の人達の差別でした。

 そんな苦しく長い長い年月を経て、ある者は国家元首まで上り詰めた者もいました。また、事業家として大成功した者もいました。しかし、多くの日系人長老達は、「そのうちに、必ずしっぺ返しにあう!」と眉をひそめていたのでした。それは、もう、彼ら日系人の体の芯まで染みついた、自衛本能のような感覚だったのでした。

 第2次世界大戦で敗れた祖国日本の国土は、焦土と化していました。大都市では飢えで死ぬ者も多々いると、伝えられていました。南米日系人達は、望郷の念を抱きながら、少なくとも食べるに困らない南米での生活に少なからずホットしていたのでした。たとえ、現地の人々に蔑まれても、祖国日本に住むより余程幸せだと思ったのでした。大使館が再開すると、子供の出生を届けるよう、日本人会などを通じて呼びかけもありましたが、「あの焦土と化した祖国の民に戻ることなどとても出来ない」と多くの日系1世達は、到底そんな事は考えませんでした。自分の子供達の出生届けをするデメリットはあっても、メリットは当時は何もないよう思えたのでした。また、時間的な(当時、田舎から大使館のある大都市に出るには、場所によっては、2日も3日もかかるところもあったのでした。)余裕もなければ、まして、届出だけの為に旅費を出費する金銭的な余裕など、どこにもありませんでした。

 しかし、それが、のちに子供達や孫達、そしてひ孫達の人生に大きく影響するなどとは、当時は誰も考えていませんでした。

(以下、次号につづく・・・)

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