住宅価格は坪単価で語られることが多い。
坪30万円と坪60万円と聞けば、坪30万円のほうが安いと思う。
しかし、単純にそう判断していいのだろうか。
坪単価は施工費を坪数で割っただけの数字にすぎない。その数字だけで本当の高い安いは判断できないのではないか。
住宅は長期間使うものだ。使用期間という時間軸を考えずに真の高安を判定できないと思う。
坪30万円の家が30年後に解体されたとしよう。
家族が30年間に家にかけた1坪あたりの年間費用、という見方をするならば、30万円÷30年で、1万円/年だったということになる。
ということは、坪60万円の家を60年維持すれば、1坪あたりの費用は同じく1万円/年である。
結果論で言えば、1坪にかかった年間コストという面で両者は同等だ。
つまり坪単価の高い家でも、もしかしたら坪単価の低い家より贅沢な使い方ではないということもあるかもしれないということ。それは家の使用期間をみてはじめて判定できる。
建築プロデューサーの朝妻さんのブログで、家づくり川柳を募集しているが、そこにおそまつながら一句投稿しておいた。
「どの家も 長く使えば ローコスト」
私は長く使ってローコストにするために、30年後に家の有様を見たとき、「取り壊すのもやむなし」と考えたくなる家ではなく、「取り壊すのは惜しい」と思えるようになる家をめざしたつもり。
家の建て替えに乗り出したとき、築38年部分と築55年の古屋部分を眺めて、築55年の方を残すという決断をしたのは、まさにそちらのほうが「取り壊すには惜しい」と感じられたという体験からだ(*)。まあまあ持たせた築38年のほうは惜しさはあったが「取り壊すのもやむなし」と思えてしまった。
我が古屋は新築当時、決して安い坪単価ではなかったはずだが、今では胸を張って「ローコスト」と言えるようになっている。
しかも、いまとなっては年々貴重な存在になっていくというオマケまでついている。
今回、時間当たりのコストという面で家を考えてみたが、時間当たりの価値ということも考えてみたい。
坪30万円と坪60万円と聞けば、坪30万円のほうが安いと思う。
しかし、単純にそう判断していいのだろうか。
坪単価は施工費を坪数で割っただけの数字にすぎない。その数字だけで本当の高い安いは判断できないのではないか。
住宅は長期間使うものだ。使用期間という時間軸を考えずに真の高安を判定できないと思う。
坪30万円の家が30年後に解体されたとしよう。
家族が30年間に家にかけた1坪あたりの年間費用、という見方をするならば、30万円÷30年で、1万円/年だったということになる。
ということは、坪60万円の家を60年維持すれば、1坪あたりの費用は同じく1万円/年である。
結果論で言えば、1坪にかかった年間コストという面で両者は同等だ。
つまり坪単価の高い家でも、もしかしたら坪単価の低い家より贅沢な使い方ではないということもあるかもしれないということ。それは家の使用期間をみてはじめて判定できる。
建築プロデューサーの朝妻さんのブログで、家づくり川柳を募集しているが、そこにおそまつながら一句投稿しておいた。
「どの家も 長く使えば ローコスト」
私は長く使ってローコストにするために、30年後に家の有様を見たとき、「取り壊すのもやむなし」と考えたくなる家ではなく、「取り壊すのは惜しい」と思えるようになる家をめざしたつもり。
家の建て替えに乗り出したとき、築38年部分と築55年の古屋部分を眺めて、築55年の方を残すという決断をしたのは、まさにそちらのほうが「取り壊すには惜しい」と感じられたという体験からだ(*)。まあまあ持たせた築38年のほうは惜しさはあったが「取り壊すのもやむなし」と思えてしまった。
我が古屋は新築当時、決して安い坪単価ではなかったはずだが、今では胸を張って「ローコスト」と言えるようになっている。
しかも、いまとなっては年々貴重な存在になっていくというオマケまでついている。
今回、時間当たりのコストという面で家を考えてみたが、時間当たりの価値ということも考えてみたい。
と言う知り合いがいます
家族の関係がその思いになるらしいのです
そうですよね
あかちょうちんをはしごしないと帰らない夫さんも世の中にはたくさんいるらしいですね
家族の関係と時間あたりの価値とは比例するような気がします
家で過ごす時間のことも考えねばなりませんね。
「帰りたくなる家」はきっといい家でしょう。
30年しかもたない(住みたくない)家はメンテナンスが出来ない家でもある訳で、団塊世代の方が競って建てた時期の家はほとんどがこれに当たるような気がします。
建てた当初はピカピカで自慢のマイホームが、今や薄汚くなってしまっているお宅をよく見かけます。
メンテナンスの費用をケチったばかりに寿命を短くして、逆にLCAが膨大にならないようにしたいものです。
家庭のことを深く考えず、いきおいで行動している人が多かったような気がしています。もちろんすべてとはいいませんが。
大事に使う、というのは美徳のはずが、あの世代が社会の中心になってきたあたりから、そうでなくなってきたような・・・。
源が無限にあると勘違いして、消費するのが日本のために役立つと未だに思っている方々が世の中を動かしているのですから「つけ」は後世代に回されているのです。
考え方自体を変えないと数十年しかもたない「きれいな」家がつくられ続けていくのかもしれませんね。
すみません、愚痴ってしまいました。