寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

クマ蝉やジージー蝉も鳴き始めました

2015年07月19日 23時38分05秒 | 日記・エッセイ・コラム

 昨日夕方になってクマ蝉が鳴き始めました。そして今日の朝

ジージー蝉も鳴き始めました。そして気象庁は東日本の梅雨

明けを宣言しました。

 エルニーニョ現象が発生したと行って雨期が長引くという予

想は外れたようです。農作物にとっては良いことです。

 天候によって農作物に影響が出るのは仕方のないことかも

しれませんが極端に出ると困りますね。1994,5年頃のことを

思い出しました。日本は梅雨明けもなく9月になっても雨が降

り続くという天気でした。

 そのために、稲作は不作でいろいろな国から米を輸入しま

したね。私もタイ米を買ってきてどう炊いたら美味しく食べられ

るかを工夫してみました。野菜も極端に不足して、東南アジア

から緊急輸入しましたね。日本に輸出すれば収入が増えると

いうことで生産国の人達が野菜不足になってしまったという

話しもありました。

 今年はそのようにならなくて済みそうです。しかし暑い日が

続くと今度は電力問題が出てきます。世界経済が流動的で

安定しない現状で天候も大きな経済変動要因になっている

ようです。意味が少し異なるかもしれませんが、経済学者の

いう経済連関の考え方も違った立場で見ると面白いかもし

れませんね。


下村文部科学相のは国立大学に対する通知

2015年07月19日 21時28分48秒 | 日記・エッセイ・コラム

 下村文部科学相は6月に「特に教員養成系や
人文社会科学系学部・大学院は、組織の廃止や
社会的要請の高い分野に転換する」などを求め
る通知を出した。
 
 この通知にはいろんな問題が含まれているよ
うだ。
 かって1960年代に同じようなことがあった。
当時、私が在籍していた理学部化学科では有機
化学全盛の時代であった。有機科学系の教授達
は化学イコール有機化学と豪語していた。その
教授と何か(多分予算配分のことだったような気
がする)のことで議論することがあった。

 そ教授は、いまは有機化学が化学科の代表の
ようなものだからそれを中心にいろんなことを考
えていくのが当然だと行った。私はそれに反対
した。

 大学はもちろんある程度は社会の必要に対応
して研究をし、卒業生を出していくことは認める。
しかし、大学は社会がどう変化しようと大学だか
らこそ多様な分野の学問を真摯に追求す可能な
場でなければならないのではないか。そのときは
無駄と思っていたことが将来必要になるこ
ともあるだろう。必要になってから改めて始め
るのは大変な時間と労力と予算が必要になると
いった。
 もちろんこの意見に対しても私自身もある種
の疑問を持っていた。

  SF小説でこんな話があった。未来の社会で
は総てのことがコンピュータによって管理さ
れ、人間は快適な生活をしていた。ある日、
筆算で加減乗除を出来るコドモが現れた。社
会は騒然としてこの子供は歴史始まって以来
の天才だということになった。コドモが
”1+1=2”
というのを紙に書いてやってみせるとそのこと
を証明するためにたくさんの学者やコンピュ
ータが動員された。そして長い時間が掛かっ
て間違いがないことを実証した。

 私たちはこのような社会を造ってはいけない
と思う。文部科学大臣の通知は大きなリスクを
含んでいることを承知して、国立大学は未来の
社会を見据えた学科・学部・大学院の廃止・転
換をを考えていかなければならないだろう。


横須賀の砲台跡 公開へ

2015年07月18日 19時13分38秒 | 日記・エッセイ・コラム

今日の読売新聞夕刊に横須賀に残されていた
砲台跡が公開されることになったという。
この砲台は1843年旧川越潘が築いたのが始まり、
その後1889年(明治19年)旧陸軍が砲台を整備した。
しかし1934年に放題としての役目が終わった。

砲台といえば世界遺産にもなっているものもある。
砲台の多くは河口や湾口などに設置され
外国軍船の侵入を監視し、場合によっては
国土防衛のために砲撃した。
日本でも明治維新直前に外国艦船へ砲撃を加えた
長州藩や薩摩藩などの例がある。
 
話は少しずれるが、小笠原諸島の父島や母島には
山や谷の斜面にたくさんのトーチカがあった。
そしてわが町にも海や川筋そして道路に面した
小山や丘陵の斜面にもたくさんのトーチかがある
住民の有志が詳細な測量・調査をして
1冊の書籍にまとめている。

そろそろ戦争の記録が失われようとしている中
最近になって忘れてはならない戦争の爪痕を
記録しておくのは有意義かもしれない。


ヒグラシ蝉の初鳴きがありました

2015年07月18日 19時13分38秒 | 日記・エッセイ・コラム

 ヒグラシ蝉の初鳴きがありました
 今日18:47頃
 今年初めてヒグラシ蝉を初鳴きを
 耳にしました

多くの人があのカナカナカナという
もの悲しげな鳴き方を聞いて
ヒグラシ蝉は晩夏から秋口に鳴く蝉と
思っているようです(私もそうでした)

  ヒグラシ蝉は漢字で秋蝉とも
 書くことがあるようで
  俳句では秋の季語になっています

これから毎朝未明から7時くらいまでと
夕方薄暮になる頃から日没過ぎまで
賑やかに合唱します。
寝不足にならないように気を付けます


国立競技場計画について

2015年07月17日 22時56分07秒 | 日記・エッセイ・コラム

 安倍総理大臣はオリンピック・パラリンピック東京招致の

プレゼンテーションでイラク生まれのイギリス在住のザハ・

ハデイド氏のデザインしたものを例にしてアピールした。

それが功を奏したのか2020年ノオリンぴっぅ・パラリン

ピック開催地に東京が選ばれた。

 そのデザインを基にした建設費は当初1300億円程度

といわれた。それがいつの間にか2520億円に膨らんだ。

しかしその金額には含まれていない基本的な設備がいろ

いろあるという。 日本では当初の建設費が建設途中で

増加するというのが一般的だったように思う。その中には

建設中に資材の価格高騰などが理由として挙げられた。

  今回もそういうことなのかと呆れていたが、首相の鶴の

一声で、国民の理解が得られないということで建設計画

の抜本的な見直しを指示することになったという。

 これほど大きな事業になると、いろんな思惑が生じる

こともあるだろうが、国際的な事業であることを認識して

世界に恥じないような行動をしてほしいと思う。

 


安全保障関連法案への懸念

2015年07月16日 23時47分21秒 | 日記・エッセイ・コラム

安倍首相は国民の理解が得られていないといいながら
同法案を委員会で116時間議論したとして採決し、
本日衆議院で可決してしまった。
そして参議院へ送られた。

筆者も報道や委員会の議論をTV放映で見てきたが、
何故か消化不良のようで気持が悪い。
安倍首相が国民の理解を得ていないということが
その理由ではないかと自己診断する。

数を頼みにやりたい放題やるのは、
自民党のこれまでやってきたことではあるが。
それでも選挙でこの政党を支持するのはやはり
信頼する人が多いということなのだろうか。

個人的には日本の安全を守るのは我々自身である、
と考えるのは当然のことと思う。
日本国の国民と領土を守るために憲法を改正して
自衛隊の守備範囲を明確にすることには異存はない。
しかし、何か不透明な影がちらちら
見えるのはどうしてだろうか。

現状は、世界の警察と自負してきたアメリカ合衆国の
陰に隠れて日本の防衛をほとんど全面的に依存してきた。
しかしアメリカ合衆国は経済的負担が大きいことと
多くの若い人達の生命の犠牲にすることについて
国民の疑問に答えることが出来なくなってきた。

それで日本にも相応の責任を持つようにと、
今度の一連の安保法案を急に法制化することにしたようだ。
この法案は数を頼んで秋には成立するだろう。 
だが、他国を侵略するため自衛隊を
派遣しないことを明確に国民に示してほしい。


台風11号接近

2015年07月16日 23時00分29秒 | 日記・エッセイ・コラム

今年も台風の季節が来ましたね。

台風11号が四国から紀伊半島の範囲を

目指して接近してきました。

勢力は少し弱くなったようですが。

被害が少なくて済むことを願っています。

気象庁の衛星写真を拝借して掲載しました。

台風の眼がしっかりして大きいですね。

進路に当たる地域の方々は、

くれぐれも防災に配慮して下さい。

 


暑い日が続きますね

2015年07月14日 12時11分19秒 | 日記・エッセイ・コラム

 日本列島は全国的に30℃以上、特に石川県、山形県、

埼玉県などは37度を超す気温になりましたね。北関東地

方でも35℃以上の地域が多かったようです。熱射病には

くれぐれも注意しましょう。気温が高く南からの熱い風が一

層身体にこたえますね。もう数字いつもすると梅雨が明け

ると思うのですが、その後は夏本番ですよ。幼い子どもや

高齢者は特に水分と少量の塩分補給を忘れないようにし

ましょうね。

 5月末頃にヨーロッパへ行ったときのことですが、ミュンヘ

ンでは降雪にあったことがありましたし、コペンハーゲンで

は30℃以上の気温にヘキエキしたことがありました。この

時期は真夏ですから、とくに北半球の北部は日照時間が

長くコペンハーゲンやストックホルムでは夜は薄暮のよう

な感じになりますね。そのために旅行者は寝不足になり昼

間は暑さによわります。

 それらに地域は日本のような梅雨がないので5月は真夏

なのですね。日本は梅雨があるために真夏の時期が8月

にずれ込むのです。この2,3日のように晴れるとそれはも

う真夏真っ盛りなのですから厚くなるのは当然です。

 ラジオやTVで適切にエアコンも利用しましょうといってい

ます。めいっぱいの我慢を避けて暑さを乗り越えましょう。

 


台風と激しい雷光の想い出

2015年07月09日 13時01分01秒 | 日記・エッセイ・コラム

 今日本の南方の海上に台風が3個(9,10,11号)発生して

そのうち2個(9,11号)は日本をうかがっているようです。9

号は既に南大東島は強風圏に入っていて今日中には宮古

島付近に到達するということです。進路に当たる地方の方は

強風、高波、高潮には十分に気を付けて下さい。

 台風11号の進路はまだ不確定ですが本土に近づくかもし

れません。今後の気象通報に注意しましょう。

  私が台風に興味を持ったのは中学1年生の頃でした。当

時はアメリカ空軍の飛行機が台風観測をしていたようでした。

今のようにコンピュータなどという器械はなく観測は総て目

視によるといわれていました。飛行機は台風の中に突っ込

んで観測をしたと言います。その他に定点観測といって太

平洋上の特定の海域に船をおいて気象観測をしていまし

た。1978年には廃止されてしまいましたが、6ヶ月とか1年

近くも太平洋上に観測船を漂白させる人達は大変なことだ

ったと思います。

 そんな頃、私は新聞広告で台風の眼という本を見つけて

とりよせました。内容はもううろ覚えですが、ある漁師が息

子を連れて漁に出かけた先で台風に遭遇した様子が書い

てありました。その中でフト風が止み空には星がきれいに

見えました。しかししばらくすると再び海が荒れ出したが、

ようやく港に戻ったという話だったと思います。一時風が止

み星が見えたというのが台風の眼に入ったということを父

親が息子に教える部分に興味を持ったのですね。それ以

来私は気象について興味を持ちました。

 そして大学へ入り、ワンダーフォーゲル部に所属して合

宿に行くと、毎日ラジオの気象通報を聞きながら白地図に

気圧・風向・風力・気温などを書き込んで天気図を描く練

習をしました。それは山の天気を予想するために必要な

ことだったのですね。

 いまでも時々、空を見上げては雲の形・雲の動き(進む

方向・その早さな)などを眺めることがあります。

 そんな習性によって危難を避けることが出来たこともあ

りました。

  それはある年の8月に1人で妙義山へ行ったときのこ

とです。国鉄(現JR)松井田駅に降りて妙義山を目指して

歩き出しました。数時間の後に頂上へ着き、周辺の名所

岩石群・石門を見ていると山麓から湿っぽい熱い風が吹

き上がってきるのに気がつきました。上州といえば雷で

有名なところですから、これはもしかしたらと思って昼食

は歩きながら食べ、下仁田方面へ急いで下山を始めま

した。名前を忘れましたがバス終点の小さな神社の前に

着き待っていましたがバスはなかなか来ませんでした。

気温は次第に高くなり心配していたら、バイクに乗った方

が来て今日は日曜日だからバスはもう少ししたの停留所

までしか来ないよといってバイクの後ろに乗せてくれまし

た。バス発車前にバス停に着くことが出来ました。お礼を

いっているとちょうどバスが来たのですぐに乗り込みまし

た。発車時刻まで待っている間に太陽が陰り辺りが暗く

なってきたと思ったらものすごい雨が降ってきました。そ

のときはまだ雷光はありませんでした。バスが発車してし

ばらくすると雨雲の外へ出て日光が輝いていました。しか

し停留所に着くと雨雲に追い付かれてまた雨の中に入る。

ということを繰り返して下仁田駅に着くとすごい雨になっ

ており稲妻が薄暗い空に輝いていました。列車を待って

いるうちに激しく雷光がとどろき始めました。あのようにも

のすごい数の落雷の様子を間近に見たのは初めてでし

た。

 もう少し下山が遅れたらどうなっていたのかと思うと恐ろ

しくなりました。

 これほど経験と知識が役に立ったのは初めてでした。

 


恩師奥山典生元教授が亡くなったという報せをもらいました

2015年07月07日 22時48分39秒 | 日記・エッセイ・コラム

 恩師の奥山典生教授が亡くなったとという報せを先生の研

究室出身の卒業生が知らせてくれました。

 奧山先生にはいろいろな想い出があります。先生は太って

いましたが敏捷な動きをする方でした。そして学問的にも優

れた業績を残されました。

 私が学生の頃生化学の教授は佐竹教授でしたがそこの助

教授をしていたのが奧山先生でした。講義を聴いたことはな

いのですが練習実験では大変お世話になりました。

 これから思い出話を少し書こうと思います。

 奧山先生は何事に対しても真摯な気持ちをもって対応され

る方でした。先生が教授になったとき助教授の選考をするこ

とになり人事委員会が発足しました。その中に私も加えて頂

くことになり先生と真剣な話し合いをすることになりました。

 先生はご自分の研究室出身のS氏を迎えたいと考えてい

たようでした。しかしS氏の評判は芳しいとは言えないところ

があり、同じ研究室では運営に差し障りが出るのは目に見

えているということで反対意見が出ました。しかしS氏も熱心

な研究者で考え事をしながら歩いていて階段から転げ落ち

るといった逸話もある方でした。

 私は学生時代にワンダーフォーゲル部で一緒に山へ行く

機会があり、数回同行したことがありました。そのときの様

子では協調性がなく自分勝手に行動して仲間に迷惑をか

けることが頻繁にありました。そのことを知っている他の委

員もその点を心配していたのです。

 奧山先生は、私と2人でS氏のことを話し合いたいと行っ

てこられました。私は奧山先生の性格をいろいろ伝え聞い

たことから少しは理解していましたので同意しかねていま

したら、君が何をいっても絶対に怒らないから知っているこ

とを話してほしいというので承諾し話し合いをしました。大

学近くの小さな喫茶店で話し合いをしました。途中で先生

の顔色がサーッと青くなり拳が震えてきました。私は”しま

った言い過ぎた”と思ったのですが後の祭りだと覚悟をしま

した。

 先生は君の話はわかった。しかし彼は当研究室にとって

は必要な人材であるからぜひ採用したいとの強い意向をし

めされました。

 結局S氏が採用されましたが、すぐに奧山先生と激しい議

論?になることがしばしばあるという話が伝わってきました。

 奧山先生は、私に液体クロマトクラフィー研究会で発表す

る機会を与えて下さったり、私が宇宙関係の研究をするよう

になったときにいろいろ相談に乗って下さったりと大変お世

話になりました。感謝の気持ちでいっぱいです。

 奧山先生のお宅へお邪魔したとき、壁一面に白樺林の壁

紙が貼ってあり驚いたこともありました。

 奧山先生の訃報を1ヶ月も過ぎてから知ることになったの

でご家族にお悔やみを申し上げる機会がありませんでした。

 文末になりましたが、

 恩師奧山典生先生のご冥福をお祈りします。