石坂洋次郎『青い山脈』(新潮文庫)
物語は、東北地方の港町を舞台に、若者の男女交際をめぐる騒動をさわやかに描いた青春小説である。『青い山脈』は、日本国憲法が施行された翌月から連載され、民主主義を啓発させることにも貢献した。また、すでに教育基本法(昭和22年法律第25号)と学校教育法(昭和22年法律第26号)も施行されていたが、『青い山脈』が連載された1947年度(昭和22年度)には学校教育法に基づく学校はほぼ皆無の状況である。(ウイキペディアより)
◎戦後の大ヒット作品
もうすぐ古希を迎えようという私の高校時代、もっとも愛読されていたのは石坂洋次郎でした。現代の若者が読んだら、きっと吹き出してしまうかもしれません。ふと懐かしくなって、半世紀ぶりに再読しました。
石坂洋次郎『青い山脈』(新潮文庫)が発表されたのは、終戦から2年後の1947年です。まだまだ封建的な考え方が支配する世の中であり、男女の恋愛も自由ではありませんでした。
――「地方の高等女学校に起こった新旧思想の対立を主題にして、これからの日本国民が築き上げていかねばならない民主的な生活の在り方を描いてみよう」と作者が意図したのがこの新聞小説である。新聞小説の復活はこの作品をきっかけとしてはじまったといえよう。健康で明るく、ユーモアに満ちた石坂文学は、映画化の成功もあって、戦後最初のミリオン・セラーとなった。(小田切進・尾崎秀樹『日本名作事典』平凡社P19)
石坂洋次郎は戦前に、『若い人』や『石中先生行状記』などを発表しています。しかし前者は不敬および誣告罪で告訴され、後者はわいせつということで発禁処分を受けています。そんな石坂洋次郎は戦争が終わり、水を得た魚のように朝日新聞に『青い山脈』の連載を開始しました。
石坂洋次郎の小説は、それまでの私小説にうんざりしていた読者層を、わしづかみにしました。
――石坂作品は、性や男女交際の解放、民主化を明るい日差しのもとにさらして虫干ししたとも言えます。(佐高信・談、井上ひさしほか編『座談会・昭和文学史・第3巻』集英社P240)
石坂作品は丹羽文雄、石川達三、船橋聖一などとならんで、風俗小説と呼ばれました。なかでも『青い山脈』は、何度も映画化されました。私が観たのは、吉永小百合のものでした。原作の冒頭は主人公の寺沢新子が、乾物屋へ米を売りつける場面になっています。対応に出たのは、六助という浪人生でした。ところが映画では、米ではなく卵を売りつける場面になっていました。
原作の『青い山脈』は、2通のラブレターが物語の中核になっています。今では大騒ぎするほどのことではありませんが、当時はこれが大問題だったのです。このあたりの古さが、現代の読者からはじき出された要因なのでしょう。若い人には終戦直後のおとぎ話程度の受け止め方で、ぜひ読んでみていただきたいと思います。
1通のラブレターは体育教師から、同僚の若い英語教師・島崎雪子に宛てられたものです。雪子の机の上に1冊の本がおいてありました。ラブレターはそこに挟みこまれました。ところがその本は雪子が同僚の女教師から借りていたもので、ラブレターがはさまったままに返却されます。このラブレターは、やがて学校や町をあげての大騒動に決着をつける材料となります。
◎ニセのラブレター事件
『青い山脈』は成熟していない戦後民主主義を問う、当時においては意欲作でした。島崎雪子は、東北の女学校の若い英語教師です。彼女は民主化から取り残された、町民や生徒が歯がゆくて仕方がありません。そんな雪子のもとに、女学校5年生の寺沢新子が相談にきます。
新子は1通のラブレターを差し出し、男を装ってクラスの誰かが書いたものだと言います。文面は「恋しい」を「変しい」と誤記されており、稚拙なものでした。島崎雪子は毅然として、教室内で犯人探しをします。犯人は松山浅子のグループであることが判明し、雪子は激しく叱責します。
そのことが古い因習と伝統を重んじる学校や町で、大きな問題となります。雪子は反動教師としてPTAや理事の前で吊しあげられます。雪子は校医である青年・沼田に対応を相談していました。沼田は六助などの協力を得て、理事会に参加しています。ドタバタの理事会には触れませんが、芸者が出てきたり、理事会の模様を速報する若者が登場したり、大いに楽しませてくれます。
石坂洋次郎は、同郷の先輩作家・葛西善蔵からの離脱が出発点です。石坂は葛西善蔵の酒乱ぶりに辟易し、その作風の踏襲も断念しています。石坂文学の成立には、反面教師としての葛西善蔵があったのです。
――『葛西善蔵のこと』の中で、石坂は次のように書いている。「善蔵のきびしい訓練のムチの下から逃れ去った私は、一転して安易の道をたどり、通俗小説の流行作家として今日に至っている」と。孤高か、平俗か――おそらく葛西の孤高を継承したならば、石坂は通俗作家の運命からは免れたかもしれない。(磯田光一『殉教の美学』冬樹社P314)
こんな時代もあったのかくらいの受け止め方で、戦後の大ベストセラー小説に触れてみてはいかがですか。時代は大きく変わり、性も男女交際も様変わりしています。しかし石坂洋次郎が描いた自然は、いまなお色鮮やかに残っています。石坂洋次郎が描き続けた風景は、次の3カ所に限られますが。
――私には三つしか描ける風景の対象がないのだ。一つは私が生まれ育った津軽の周辺のそれ、つぎは働きざかりの年ごろの十三、四年間、教師として暮らしていた秋田県横手市の周辺のそれ。いま一つは、上京以来二十余年住み着いた大田区田園調布の周辺のそれ。(毎日新聞社学芸部『私の小説作法』雪華社P32)
(山本藤光:2016.05.30初稿、2018.03.09改稿)
物語は、東北地方の港町を舞台に、若者の男女交際をめぐる騒動をさわやかに描いた青春小説である。『青い山脈』は、日本国憲法が施行された翌月から連載され、民主主義を啓発させることにも貢献した。また、すでに教育基本法(昭和22年法律第25号)と学校教育法(昭和22年法律第26号)も施行されていたが、『青い山脈』が連載された1947年度(昭和22年度)には学校教育法に基づく学校はほぼ皆無の状況である。(ウイキペディアより)
◎戦後の大ヒット作品
もうすぐ古希を迎えようという私の高校時代、もっとも愛読されていたのは石坂洋次郎でした。現代の若者が読んだら、きっと吹き出してしまうかもしれません。ふと懐かしくなって、半世紀ぶりに再読しました。
石坂洋次郎『青い山脈』(新潮文庫)が発表されたのは、終戦から2年後の1947年です。まだまだ封建的な考え方が支配する世の中であり、男女の恋愛も自由ではありませんでした。
――「地方の高等女学校に起こった新旧思想の対立を主題にして、これからの日本国民が築き上げていかねばならない民主的な生活の在り方を描いてみよう」と作者が意図したのがこの新聞小説である。新聞小説の復活はこの作品をきっかけとしてはじまったといえよう。健康で明るく、ユーモアに満ちた石坂文学は、映画化の成功もあって、戦後最初のミリオン・セラーとなった。(小田切進・尾崎秀樹『日本名作事典』平凡社P19)
石坂洋次郎は戦前に、『若い人』や『石中先生行状記』などを発表しています。しかし前者は不敬および誣告罪で告訴され、後者はわいせつということで発禁処分を受けています。そんな石坂洋次郎は戦争が終わり、水を得た魚のように朝日新聞に『青い山脈』の連載を開始しました。
石坂洋次郎の小説は、それまでの私小説にうんざりしていた読者層を、わしづかみにしました。
――石坂作品は、性や男女交際の解放、民主化を明るい日差しのもとにさらして虫干ししたとも言えます。(佐高信・談、井上ひさしほか編『座談会・昭和文学史・第3巻』集英社P240)
石坂作品は丹羽文雄、石川達三、船橋聖一などとならんで、風俗小説と呼ばれました。なかでも『青い山脈』は、何度も映画化されました。私が観たのは、吉永小百合のものでした。原作の冒頭は主人公の寺沢新子が、乾物屋へ米を売りつける場面になっています。対応に出たのは、六助という浪人生でした。ところが映画では、米ではなく卵を売りつける場面になっていました。
原作の『青い山脈』は、2通のラブレターが物語の中核になっています。今では大騒ぎするほどのことではありませんが、当時はこれが大問題だったのです。このあたりの古さが、現代の読者からはじき出された要因なのでしょう。若い人には終戦直後のおとぎ話程度の受け止め方で、ぜひ読んでみていただきたいと思います。
1通のラブレターは体育教師から、同僚の若い英語教師・島崎雪子に宛てられたものです。雪子の机の上に1冊の本がおいてありました。ラブレターはそこに挟みこまれました。ところがその本は雪子が同僚の女教師から借りていたもので、ラブレターがはさまったままに返却されます。このラブレターは、やがて学校や町をあげての大騒動に決着をつける材料となります。
◎ニセのラブレター事件
『青い山脈』は成熟していない戦後民主主義を問う、当時においては意欲作でした。島崎雪子は、東北の女学校の若い英語教師です。彼女は民主化から取り残された、町民や生徒が歯がゆくて仕方がありません。そんな雪子のもとに、女学校5年生の寺沢新子が相談にきます。
新子は1通のラブレターを差し出し、男を装ってクラスの誰かが書いたものだと言います。文面は「恋しい」を「変しい」と誤記されており、稚拙なものでした。島崎雪子は毅然として、教室内で犯人探しをします。犯人は松山浅子のグループであることが判明し、雪子は激しく叱責します。
そのことが古い因習と伝統を重んじる学校や町で、大きな問題となります。雪子は反動教師としてPTAや理事の前で吊しあげられます。雪子は校医である青年・沼田に対応を相談していました。沼田は六助などの協力を得て、理事会に参加しています。ドタバタの理事会には触れませんが、芸者が出てきたり、理事会の模様を速報する若者が登場したり、大いに楽しませてくれます。
石坂洋次郎は、同郷の先輩作家・葛西善蔵からの離脱が出発点です。石坂は葛西善蔵の酒乱ぶりに辟易し、その作風の踏襲も断念しています。石坂文学の成立には、反面教師としての葛西善蔵があったのです。
――『葛西善蔵のこと』の中で、石坂は次のように書いている。「善蔵のきびしい訓練のムチの下から逃れ去った私は、一転して安易の道をたどり、通俗小説の流行作家として今日に至っている」と。孤高か、平俗か――おそらく葛西の孤高を継承したならば、石坂は通俗作家の運命からは免れたかもしれない。(磯田光一『殉教の美学』冬樹社P314)
こんな時代もあったのかくらいの受け止め方で、戦後の大ベストセラー小説に触れてみてはいかがですか。時代は大きく変わり、性も男女交際も様変わりしています。しかし石坂洋次郎が描いた自然は、いまなお色鮮やかに残っています。石坂洋次郎が描き続けた風景は、次の3カ所に限られますが。
――私には三つしか描ける風景の対象がないのだ。一つは私が生まれ育った津軽の周辺のそれ、つぎは働きざかりの年ごろの十三、四年間、教師として暮らしていた秋田県横手市の周辺のそれ。いま一つは、上京以来二十余年住み着いた大田区田園調布の周辺のそれ。(毎日新聞社学芸部『私の小説作法』雪華社P32)
(山本藤光:2016.05.30初稿、2018.03.09改稿)