山本藤光の文庫で読む500+α

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アドラー『人生の意味の心理学』(100分 de 名著)

2018-03-05 | 書評「ア行」の海外著者
アドラー『人生の意味の心理学』(100分 de 名著)

この「生きづらさ」をなんとかしたい。フロイト、ユングと並び称される心理学者アドラー。その思想のエッセンスを紹介した『嫌われる勇気』がベストセラーとなるなど、いま注目を集めている。過去は変えられなくても未来は変えることができると説き、多くの人々を勇気づけているアドラー心理学を、『嫌われる勇気』の共著者がわかりやすく解説。(内容紹介より)

◎過去は変えられないが意味づけは変えられる

アルフレッド・アドラー『人生の意味の心理学』(上下巻、アルテ、岸見一郎訳)を読みました。こんな難解な本がなぜ多くの人に読まれるのか、不思議に思いました。その後、岸見一郎『アドラー心理学入門』(ベスト新書)を読みました。さらにわからなくなりました。本書については、わからないまま「山本藤光の文庫で読む500+α」として推薦させていただいています。

そんな折に「NHK100分de名著」のアドラー心理学4回シリーズをみました。すばらしい内容で、一気に澱が落ちました。コメンテイターは岸見一郎でした。この人は書き言葉よりも、はるかにしゃべり言葉に優れていました。霧で有名な釧路の幣舞橋ですれ違った、ぼんやりとしたアドラーと岸見一郎の2人連れが、威風堂々とした姿で私の前に現れたのです。

アドラー心理学は大ブームになっています。著書は100万部超えということですから、この手の著作では異常現象といえます。「アドラーを知れば、人生は変わる」という惹句がきいているのだと思います。

心理学といえば、通常は人間をタイプ別にわけるのがあたりまえでした。つまり分析と観察の学問でした。アドラーの主張は、それらとは大いに異なります。人生を変えるための、実践指南書という形になっています。

アドラーは、フロイトの夢判断の勉強会に参画していました。しかし途中で決別することになります。アドラーは精神科医として戦争に従軍していました。そのときの体験が、独自の哲学を生んだのです。フロイトの「人間はなぜ闘うのか→人間には攻撃欲求がある」という図式が馴染まなかったようです。

アドラーは次のように考えます。「闘わないために何をすべきか→人間はみな仲間である」。

つまり個人にフォーカスをあてるのではなく、宇宙・世界・国・社会・組織などとマクロ的思考を原点において自分を考えます。そのうえで次のように考えます。「過去に起こったことは変えられない→しかしその意味づけは変えられる」

◎自分の弱みをさらけ出す

好きな人が前からやってきます。彼女は私から目をそらせて通り過ぎました。

Aくんの受け止め方:私に気がないから目をそらした
Bくんの受け止め方:私に気があるから恥ずかしくて目をそらした

Aくんの受け止め方は、明らかに劣等感からくるものです。そう考える方があきらめがつきやすく、無用の挑戦はしなくても済みます。こうしたAくんの性格は変えられません。しかし「受け止め方」(意識)は、訓練で変えることができます。ネガティブな思考をポジティブに変える訓練をするわけです。

アドラーは「3日もあれば変えられる」と書いています。ポイントは「劣等感」を、巧みにコントロールすることにあります。長所と短所という概念と、決別することが重要です。長所と短所は、変えることができません。短所である「背が低い」「髪の毛が薄い」などは、変えることができません。

長所と短所に変わる概念として、「強み」と「弱み」があります。この範ちゅうに「背が低い」や「髪の毛が薄い」は入り込んできません。つまり長所と短所は、他人との比較で生まれた概念なのです。

「私は赤面症であり、人前でうまく話すことができない」という弱みをもった人がいたとします。こんな人はたくさん存在しています。プレゼンやインタビューの冒頭で、「緊張しています」とか「ちょっとあがっています」などと、前置きする人を見かけたことがあると思います。「AだからBはできない」という概念を「AだけれどもBに挑戦しています」と変えるだけのことなのです。

だれもが他者からよく見られたい、ほめられたいと思っています。まずはこの欲求に封印することです。ありのままの自分を、さらけだす。ずっと意識してきた、他人の目や評価と決別すること。緊張しながらしゃべり切ったときの満足感を思い描くこと。アドラーはそんなふうに教えています。つまり巧みに自己評価できるようになることなのです。

他人の評価は変えられません。あの人あがっている、という他人の評価は変えられません。ただし先のように「あがっています」と言い切って、しゃべっている人への評価は変わります。「あがり症なのにがんばっているな」となるわけです。「他人は変えられないが、自分は変えられる」とアドラーは書いています。しかし私は自分の弱みをさらけだせば、他人の評価は変えられると思っています。

◎ゴールは対人関係

アドラー心理学のゴールは対人関係にあります。そこへ向かって、どうあるべきかを、アドラーはていねいに指南してくれています。自分の弱みを強みとして変換する概念は次のとおりです。

「自分は臆病である→自分は慎重派である」
「自分の考えはコロコロ変わる。朝令暮改→自分には閃きがある」
「自分を嫌う人がいる→自分は自由に正直に生きているのだ」

「100分 de 名著」は、すばらしい番組です。アドラーについては本来、『人生の意味の心理学』を推薦書とすべきです。しかしまずは本書またはビデオの視聴をしてみてください。おそらく目からウロコか、幣舞橋に風の状態になることでしょう。

NHKテレビテキスト『100分de名著』(2016年2月号)は、売り切れの店が多いようです。アドラーを少しだけかじってみようとするなら、本書で十分に味わうことができます。
山本藤光2016.03.06初稿、2018.03.05改稿

パトリシア・ハイスミス『太陽がいっぱい』(河出文庫、佐宗鈴夫訳)

2018-03-05 | 書評「ハ行」の海外著者
パトリシア・ハイスミス『太陽がいっぱい』(河出文庫、佐宗鈴夫訳)

イタリアに行ったまま帰らない息子ディッキーを連れ戻してほしいと富豪に頼まれ、トム・リプリーは旅立つ。その地でディッキーは、絵を描きながら女友達マージとともに自由な生活をおくっていた。ディッキーに心惹かれたトムは、そのすべてを手に入れることを求め、殺人を犯す…巨匠ハイスミスの代表作。(「BOOK」データベースより)

◎巧みな登場人物の心理描写

 最初にパトリシア・ハイスミスについて触れておきたいと思います。ハイスミスは1921年生まれのアメリカの女性作家です。彼女のデビュー作は交換殺人事件を扱った『見知らぬ乗客』(初出1950年)です。これがヒッチコック監督により映画化されて大ヒットし、ハイスミスを一躍有名作家にしました。本書は最近、河出文庫(白石朗訳)から復刊されています。

今回紹介させていただく『太陽がいっぱい』(河出文庫、佐宗鈴夫訳)の紹介の前に、パトリシア・ハイスミスについて事典で確認しておきます。

――ハイスミスは「小説と推理物語との総合を行って成功した完全な作家」であり、登場人物の心理描写にかけては、文学の世界を見渡しても、おそらく彼女の右に出る者はいない。ハイスミスの作品に充満している密度の高いサスペンスは、登場人物たちが抱く追い詰められた心理状態から生まれるものであり、それが読者をいわれなき不安感へと陥れるのである。(『海外ミステリー事典』新潮社)

ハイスミスの「巧みな心理描写」を映像で表現するのは至難の業になります。のちに触れますが、原作と映画はまったく別物になっています。

◎映画とはまったく別物

パトリシア・ハイスミス『太陽がいっぱい』(河出文庫、佐宗鈴夫訳)は、アラン・ドロン主演映画で話題になりました。映画を観た人が、本書を読むと間の抜けたものになります。私は本書を読んだあとに、ビデオを観ました。この順序が逆でなかったことに、安堵しました。本と映画とは、まったく別物だったのです。そのことについて、丸谷才一は怒りのタッチで次のように書いています。

――映画と長編小説とでは登場人物名も違ふ。筋も違ふ。殊にエンディングが大きく違ふ。仕方がないから『才能あるリプリー氏』と書くことにしよう。以下、もう映画のことには触れない。(丸谷才一『快楽としてのミステリー』ちくま文庫P159)

丸谷才一が突き放したとおり、本書では完全犯罪が成就されます。しかし映画の方は、それが露見されてしまうのです。本書の原題「才能ある」とは、悪事の才能があるリプリー氏という意味です。それゆえ、映画のような終わり方になってはならないわけです。
小説の邦題は、映画の大ヒットにあやかってつけられたものです。小説の方には海面に輝く、まぶしい太陽は登場しません。

◎綱渡りの末に

 本書の三分の一までは、犯罪に関係のないやや間延びした展開です。ところが、そこから一気にスリリングなストーリーに変貌します。主人公のトム・リプリーは25歳の盗人です。
 ある日、トムの前に一人の紳士が現れます。彼は2年前に家を出た息子(ディック・グリンリーフ)を、ヨーロッパから連れ戻してもらいたいと依頼します。トムはその依頼を引き受けます。
 たくさんの資金をもらい、トムはディックの住んでいるモンジベロへと向かいます。モンジベロは、ナポリの南に位置する海辺の村です。

 その村でトムは、ディックと再会します。彼は稚拙な絵を描き、女ともだちのマージと遊びふけっていました。マージはディックに夢中でしたが、ディックの態度はつれないものです。
 やがてトムはディックと親交を深め、彼の豪邸に居候させてもらうことになります。

 マージはトムが同性愛者であるとの疑惑をもちます。ディックを奪われてしまう、と不安になります。ディッキーとトムは、同道を拒んだマージを残して、二人でサンレモへ行きます。
 トムはディッキーの優雅な生活をうらやましく思っていました。しかしその羨望は、しだいに憎しみに変化していきます。

二人はモーターボートを借りて、沖へと出ます。そしてトムはディッキーを殺害します。死骸は重しをつけて、海底に沈めます。そして血痕のついたボートも沈めます。

 その後トムは、ディッキーになりすまし、アリバイ工作をします。このあたりから読者はトムに寄り添い、ハラハラドキドキさせられることになります。

倉橋由美子は著作のなかで、エンディングをこんな具合に紹介しています。
――トムは息詰まるような綱渡りの末に、何とか逃げ切って、その犯罪を成功させてしまうのです。トムはディッキーの遺書を偽造してその財産の一部を頂戴し、それまでのうだつのあがらない生活におさらばするのです。(倉橋由美子『偏愛文学館』講談社文庫P153)

◎自らを開放する

主人公トム・リブリーについて書かれた文章があります。紹介させていただきます。

――リブリーは犯罪という手段を用いて、一般人の世界から逸脱することで自らを開放することに成功したコズモポリタンである。しかし同時に、元いた場所には決して戻ることができない故郷喪失者としての悲しみも背負っている。(杉江松恋『読み出したら止まらない!海外ミステリー』日経文芸文庫P75)

私には故郷喪失者とは読みませんでした。むしろ一般社会からの落伍者として位置づけました。

その後、トム・リブリーを主人公とした作品がシリーズ化されています。『贋作』『アメリカの友人』(いずれも河出文庫)などです。タイトルと原作とのギャップは別にして、引きずりこまれる傑作でした。
山本藤光2017.12.15初稿、2018.03.05改稿

横光利一『機械』(新潮文庫)

2018-03-05 | 書評「や行」の国内著者
横光利一『機械』(新潮文庫)

ネームプレート工場の四人の男の心理が歯車のように絡み合いつつ、一つの詩的宇宙を形成する「機械」等、新感覚派の旗手の傑作集。(文庫案内より)

◎語り手「私」の不可思議さ

宮沢章夫の『時間のかかる読書』が文庫(河出文庫)になったので、読んでみました。本書は、伊藤整文学賞・評論部門受賞作です。まるまる1冊が、横光利一『機械』(新潮文庫)について書かれています。朝日新聞社情報誌「一冊の本」に10年以上にわたり連載されていました。つまり宮沢章夫は、10年以上も横光利一『機械』と向き合いつづけたのです。

『機械』は文庫で40ページほどの短篇です。『時間のかかる読書』はあとがきや解説をふくめると、349ページもある大作です。これだけでも驚きですが、生ジュースを飲んでいるようなさわやかな1冊でした。

大正末期から昭和初期にかけて、新感覚派の運動が勃発しました。そのしかけ人は、横光利一でした。そしてその代表作といわれているのが『機械』なのです。

『機械』はネームプレート製作工場で働く、4人の男の心理を描いた作品です。横光利一はそれを、「四人称小説」と胸を張っていっています。できるだけ4人の男の内面に迫りたい。そんな思いが、こうした実験的な手法に走らせたのでしょう。

ネームプレート製作工場の主人は、底抜けの善人です。自分も貧しいのですが、お金をよく落とします。施してあげてしまいます。必然ネームプレート製作工場は、細君が経営することになります。「私」は主人のことを狂人だと思っています。

工場には単細胞の男・軽部が勤めています。軽部は「私」について、工場の秘密を盗みにきたスパイだと思っています。「私」は主人から、いっしょに研究をしてみないかと誘われます。それにたいして、化学式も読めない軽部が難癖をつけてきます。

ある日工場に、屋敷という頭のいい職人がやってきます。屋敷と軽部が殴り合いのけんかをはじめます。「私」は仲裁に入り、逆に2人から殴られてしまいます。

これから先には、ふれない方がよいと思います。『機械』の醍醐味は、語り手「私」の不可思議さにあります。それを紹介してしまうと、読書の楽しみが半減してしまいます。

◎知性豊かで鋭い感覚の持ち主

『機械』について、もっとも的確に言い表している2つの文章をを引用したいと思います。

――『機械』は、ネームプレート工場に勤める人々の心理の葛藤をオモチャ仕掛けのように描いている。作中の人々はみな正気なのに、すべて理知だけの機械みたいな異常な振る舞いをする人物に描かれている。普通は感情や情緒でとらえられるはずの他人の言動が、機械仕掛けのようにとらえられることで少しずつ歯車のように狂いを生じていき、どんどん人間関係が行き詰まっていく。(吉本隆明『日本近代文学の名作』新潮文庫より)

――『機械』は、自然主義から「私小説」にいたる近代日本文学の主流に対して、大胆不敵な挑戦を行い、少なくとも美学においては、「私小説」の存立を可能ならしめてきた、素朴実在論的な現実還元の方法を完膚なきまでに破砕してみせた。(「新潮日本文学14横光利一」の篠田一士の解説より)

横光利一は、知性豊かで鋭い感覚の持ち主です。残念ながら、多くの作品は入手できません。文壇では横光利一を高く評価している人がたくさんいます。小林秀雄は「私小説論」(新潮文庫)のなかで、多くのページを割いて横光利一をとりあげています。難解なので引用しませんが、小林秀雄も一目置いていた作家が横光利一なのです。

最後に川端康成が引用した、横光利一の文章作法について紹介しておきたいと思います。

――文学が文字を使用しなければならぬ以上は、「話すように書く」ことよりも、「書くように書」かれねばならぬ。それでなければ、文字の真価が出て来ないのは、当然である。(横光利一「文芸時評』昭和3年12月、川端康成『新文章読本』タチバナ教養文庫より)

横光利一は、あまり読まれていない作家です。ぜひ『機械』を読んでみて、おもしろかったら他の作品にひろげてください。
(山本藤光:2010.10.25初稿、2018.03.05改稿)

堂場瞬一『チーム』(実日文庫)

2018-03-05 | 書評「て・と」の国内著者
堂場瞬一『チーム』(実日文庫)

箱根駅伝出場を逃がした大学のなかから、予選で好タイムを出した選手が選ばれる混成チーム「学連選抜」。究極のチームスポーツといわれる駅伝で、いわば<敗者の寄せ集め>の選抜メンバーは、何のために襷をつなぐのか。東京~箱根間往復217.9kmの勝負の行方は―選手たちの葛藤と激走を描ききったスポーツ小説の金字塔。巻末に、中村秀昭(TBSスポーツアナウンサー)との対談を収録。(「BOOK」データベースより)

◎15年間で100冊

堂場瞬一は2000年『8年』(集英社文庫)で、小説すばる文学新人賞を受賞しデビューしました。つづいて2001年『雪虫』(中公文庫)を上梓しています。スポーツ小説、警察小説とジャンルの異なる分野での発表は、当時大いに話題になりました。ここまでは順調に読むことができましたが、その後は足早に書きつながれて、追いつくことが不可能になりました。。

なんと15年間で100冊のハイスピードです。ネット上では100冊への、カウントダウンもおこなわれています。紹介させていただく『チーム』(実日文庫)は、97冊目の作品のようです。私はデビューからの2作品と97作目しか読んでいませんが、堂場瞬一は若い読者から圧倒的な支持をうけています。

堂場瞬一『チーム』(実日文庫)を読んだのは、ひょんなきっかけからです。吉野万理子の新作『チーム!』(小学館文庫)を買いに行きました。書店の書棚には、上巻と中巻しかありませんでした。下巻を探していて偶然に目にしたのが、同じタイトルの堂場瞬一の著作だったのです。結局、吉野万理子の『チーム!』下巻は翌月の配本だということがわかりました。

そんな理由から堂場『チーム』を読むことになりました。卓球小説を読むつもりだったのが、駅伝に様変わりしたわけです。15年間で100冊のペースなのだから、なかには雑な作品もあるだろう。そんな不安もありましたが、次のインタビュー記事を読んで迷いは消えました。。

――でも僕は<子ども>には興味がないのです(笑)。頂点を極めて頂点を転がり落ちる一歩手前ぐらいの人に関心があります。スポーツ選手というのはエゴが肥大化していて、最終的には「お前さえいなければ」の世界。でも人に勝ちたいというのは、人間の基本的な欲望。それを書かない手はない。(「ブックサービス」インタビュー記事より。発表日時不明)

◎無地のタスキに集う

堂場瞬一『チーム』は、非常にレベルの高い作品でした。箱根駅伝は知っていましたし、学連選抜(現在は「学生連合」と呼称を変更しています)というチームの存在も理解していました。本番に出場できなかった大学の、寄せ集めチーム。そんな軽い理解を、堂場瞬一は力強い筆致で叩きのめしてくれました。

登場人物のキャラクターが立っています。主人公の浦大地は城南大の4年生です。3年のときに箱根の最終10区を走り、大ブレーキとなりシード権を失った張本人です。シード落ちした大学で競う予選会でも、城南大はあと一歩というところで涙をのみました。

浦大地は、学連選抜のチームメンバーに選出されます。母校の名誉のために走るのではない、学連選抜に浦は疑問を持ちます。なんのために走るのか。予選会で好タイムを出した選手が、学連選抜という無地のタスキのもとに集います。

だれもが露骨には口にしませんが、目標を失って抜け殻状態になっています。寄せ集めチームの監督は、予選会で11位だった吉池が務めます。吉池は一度も箱根を経験していません。そして今回がはじめての箱根挑戦であり、2日間が終わったら引退が決まっています。監督は浦を。急造チームのキャプテンに指名します。

チームには、3度の箱根で区間賞を獲得した山城も合流します。山城は、チームワークなるものの価値を認めていません。だれとも交わろうとせず、自分のために走るという姿勢を貫きます。

バラバラのチームから、10人のエントリーが決まります。浦はアンカーで、その前の9区を山城が走ることになります。母校の色を染めたタスキではない無地のタスキは、本番直前になっても張りを失ったままです。

◎なんのために走るのか

箱根駅伝の幕開けです。本書は2部構成になっており、緊迫の2日間は第2部で展開されます。堂場瞬一は、苛酷なレースの模様を、絶妙な手法で表現してみせます。走っているランナーの胸中の描写。監督車に乗った吉池の胸中。携帯で実況を聞くマネージャー、沿道の声援。そしてレース展開を見守る仲間たちのやりとり。さらに駅伝コースの景色。

テレビで見慣れた箱根の風景やランナーの孤独が、手に取るようにわかりました。レース展開の模様は、実況マイクが故障したために、お伝えすることができません。東京~箱根間往復217.9kmの苦闘の模様は、本書をお読みいただくことでカバーしてください。

なんのために走るのか。だれのために走るのか。吉池は報道陣を前に優勝宣言をします。果たしてレースの行方はどうなるのか。浦はどうチームをまとめるのか。山城はチームのために走るのか。

私のマイクは完全に壊れて、これ以上発信できません。昨日『チーム2』を買い求めました。浦と山城のその後が描かれているようです。とりあえず「読む本」にエントリーしましたが、その前に吉野万理子『チーム!』を読まなければなりません。選手の荒い息遣いが、まだ聞こえます。大手町のゴールを目前にせまっています。
山本藤光:2015.12.25初稿、2018.03.05改稿

ロフティング『ドリトル先生航海記』(岩波少年文庫、井伏鱒二訳)

2018-03-05 | 書評「ラ・ワ行」の海外著者
ロフティング『ドリトル先生航海記』(岩波少年文庫、井伏鱒二訳)

靴屋のむすこのトミー少年は,大博物学者ロング・アローをさがしに,尊敬するドリトル先生と冒険の航海に出ることになって大はりきり.行先は海上をさまようクモサル島.島ではロング・アローを救い出し,ついに先生が王さまに選ばれ活躍しますが,やがてみんなは大カタツムリに乗ってなつかしい家に帰ります。(アマゾン内容紹介)

◎優れた井伏鱒二の訳

『ドリトル先生航海記』が単行本(新潮モダン・クラッシッス、福岡伸一訳、初出2014年)になっていたので、懐かしくなって手にとりました。本書は小学生のときに、図書館で借りて読んでいます。医学博士であり博物学者であるドリトル先生は、犬や鳥や魚と話すことができます。覚えていたのはそれだけで、まったく新鮮な物語として堪能しました。

その後、小学生の孫たちに読ませようと、岩波少年文庫『ドリトル先生航海記』を買い求めました。訳者の井伏鱒二は「山本藤光の文庫で読む500+α」で『山椒魚』(新潮文庫)を紹介しています。

単行本(福岡伸一訳)のあとがきには、次のような文章があります。
――スタビング君がはじめてドリトル先生と出会い、ドリトル先生の家を訪ねることになるシーンは、何度読んでも心温まる。とても美しい一節です。ドリトル先生の物語のエッセンスがすべてここに凝縮されているといってもいい。(福岡伸一あとがき)

というわけで、2つの本のこの場面を再現してみたいと思います。引用文は大雨に遭遇したスタビング少年が、駆けだしているシーンです。

――ところが、かけ出してからすぐに、私はなにかやわらかいものに、どんと頭をうちつけました。私は道にしりもちをつきました。私は、だれにつきあたったのだろうと顔をあげました。すると、私の目の前に、しんせつそうな顔の、ふとった小柄な人が、これも私と同じように、ぬれた道の上に、しりもちをついているのです。その人は、古ぼけたシルクハットをかぶって、小さな黒いカバンを手に持っていました。(井伏鱒二訳P27)

――いくらも行かないうちに、やわらかいものに頭をぶつけて、気づいたときには尻もちをついていました。いったい何にぶつかったのだろうと、顔をあげました。目のまえでやはり尻もちをついているのは、見るからにやさしそうな顔をした小太りの小柄な男の人でした。古ぼけたシルクハットをかぶって、手には小さな黒い鞄を持っています。(福岡伸一訳P25)

2つの訳文には、大きな差異は認められません。福岡伸一は井伏訳を尊重し、大きな手入れは避けました。そのうえで、原文に忠実に手入れをしたのです。それだけ先達の井伏鱒二の訳文が優れていたのでしょう。もちろん、井伏訳には現代にふさわしくない用語がたくさん出てきます。そのことは巻末で編集部の説明があります。どちらの訳文を選んでいただいても構いませんが、井伏鱒二訳を推薦作とさせていただきました。

◎浮島の王様 

ヒュー・ロフティングの「ドリトル先生」シリーズは、全部で12巻あります。そのなかで『ドリトル先生航海記』(岩波少年文庫、井伏鱒二訳)は2作目となります。

第1作『ドリトル先生アフリカゆき』(岩波少年文庫)では、医者だったドリトル先生がオウムのポリネシアから動物言葉を学び、獣医として活躍するにいたる経緯が書かれています。アフリカのサルの国で疫病が大流行し、ドリトル先生はサルの救助のためにアフリカに渡ります。

今回紹介する『ドリトル先生航海記』は、先に引用した少年トミー・スタビンズが語り手になっています。少年の視点からとらえていますので、ドリトル先生の表情や心の動きが手にとるようにわかります。そうした意味で、本書はシリーズを代表する作品といっても過言ではないと思います。

ドリトル先生はオウムのポリネシア、犬のジップ、猿のチーチー、アヒルのダブダブを助手にしていました。そこに9歳の少年スタビンズが加わったわけです。小学生のとき初めて本書を読んで、「桃太郎」の世界を重ねていた記憶があります。猿、鳥、犬を引き連れた桃太郎とドリトル先生が二重写しになったのだと思います。

ドリトル先生が一目置いているロング・アローが消息不明になったとの知らせが舞いこんできます。ドリトル先生一行は、偉大なる博物学者ロング・アローを探す目的で、南大西洋の浮島(クモサル島)へ向けて航海に出ます。船は途中で難破してしまいますが、一行はなんとかクモサル島へとたどり着きます。そして洞窟に閉じこめられていたロング・アローを救出します。

やがてドリトル先生は、浮島の王様に推挙されます。住人を乗せたまま、島はどんどん押し流されています。これ以上、ものがたりに触れることは控えます。楽しんでください。

◎殺処分される馬

前記のように、本書にはたくさんの差別用語が出てきます。その点について、ロフティングが本書を執筆した時代を理解しておかなければなりません。

――ロフティングが生まれた一九八六年は、大英帝国の最盛期、イギリスは世界中に植民地をたくさんもっていた。その時代の常識の多くは、今となっては非常識になっている。(神宮輝夫『監修:ほんとうはこんな本が読みたかった』原書房P89)

『ドリトル先生航海記』の誕生秘話について、書かれている文章があります。

――第一次世界大戦中に従軍していたロフティングは、兵士らが傷ついたときに手厚く看護されるのに、同じ危険を冒している馬はケガをすれば処分されること知った。馬も同じように看病すべきだ、そのためには馬の言葉を話す医者がいなければ……と考えたのがドリトル先生誕生のきっかけとなった。(定松正編『イギリス・アメリカ児童文学ガイド』荒地出版社P73)

本書を堪能できたら、ぜひ読んでいただきたい一冊があります。ドリトル先生が活躍した時代のイギリスが、よく理解できます。南條竹則『ドリトル先生の英国』(文春新書130)がそれです。
山本藤光2017.05.21初稿、2018.03.05改稿

コレット『青い麦』(光文社古典新訳文庫、河野万里子訳)

2018-03-05 | 書評「カ行」の海外著者
コレット『青い麦』(光文社古典新訳文庫、河野万里子訳)

コレットは14歳年上から16歳年下までの相手と、生涯に三度結婚した。ミュージック・ホールの踊り子時代には同性愛も経験した。恋愛の機微を知り尽くした作家コレットが、残酷なまでに切ない恋心を鮮烈に描く。(「BOOK」データベースより)

◎若い男女の恋愛などなかった時代

『青い麦』は大学時代に、新潮文庫(堀口大学訳)で読んでいます。そのときは翻訳がごつごつしていて、あまり好感を持てませんでした。古い翻訳なので仕方がないかと諦めていました。今回光文社古典新訳文庫(河野万里子訳)で読み直す機会がありました。

読んでみて、『青い麦』はまったく別の物語になっていると感激しました。翻訳もリズミカルで、少女の心のひだも繊細に描かれていました。そして何より、空咳みたいだった会話に余韻が生まれていたのです。そのあたりについては、のちほど紹介させていただきます。

 本稿を書くにあたって最初に、これから読む読者に大切なことを伝えさせていただきます。読み終わって解説文を読んで、この文章は冒頭にあるべきだと感じたからです。

―― 一九二三年にコレットが発表した『青い麦』は、今日の視点からフランス文学史を振り返ってみるとき、非常に画期的な作品であるということができます。というのも、この小説においては、「若い男女の恋」が語られているからです。(本書解説、鹿島茂)

鹿島茂はこう前置きしたうえで、この時代の恋愛について次のように続けます。

――若い男女の恋、少なくともブルジョワ階級以上の若い男女の恋というものは、コレットが『青い麦』を執筆する一九二〇年代までは、「なかった」と見なしてもかまわないのです。

つまり若い男女の恋は、常道ではなかった時代の作品だったのです。この前提を抑えて本書を読んでいただくと、その斬新さに驚かれることでしょう。

◎互いを異性として意識

本書の主役は16歳のフィリップ少年(愛称フィル)と15歳のヴァンカ少女です。2人はブルジュワ家庭のこどもで、毎年夏にヴルターニュ海岸に避暑にきています。これまでは単なる遊びともだちだった2人は、お互いを異性として意識するような年齢になりました。しかしそれを素直に表現できないまま、いつものように口ゲンカをしたり避けあったりを繰り返します。

そんなフィリップに、避暑地にきていた30歳ほどの貴婦人から誘惑の手が伸びます。フィリップは成熟した女に夢中になり、彼女の別荘へ足繁く通いはじめます。そんなフィリップの行動を、ヴァンカは知ってしまいます。ヴァンカの心は千路に乱れ、失意の底に沈んでしまいます。

ある日、女から別荘を発つとの連絡が入ります。それを知り、追いかけようとしたフィリップをヴァンカが殴ります。そして、大切なことを叫びます。この言葉の引用は控えます。このあたりの少女心理の微妙さを、みごとに解説している文章があります。

――フィリップと彼女(補:30歳ほどの貴婦人)の仲に勘づいたヴァンカのなかでは、急速に「女」が成長し、悲しみ、諦め、怒り、そして嫉妬とめまぐるしく感情が移り変わり、その嫉妬がスプリングボードとなってフィリップに体をゆだねることになるのである。(『明快案内シリーズ・フランス文学』自由国民社、品田一良・文、P183)

松本侑子は著作『読書の時間』(講談社文庫)のなかで、次のように書いています。少し長くなりますが、紹介させていただきます。

――本書の魅力は、やはり次の二つだろうか。/一つは、フランスの田舎の海辺の描写の確かさ。描写から海の匂い、強い陽射しが感じられ、海水浴や岩場の景色が浮かぶ。(中略)もう一つは、思春期の男女の感じやすい心の揺れであり、しかもそれが立派に大人の恋人たちの嫉妬であり、鞘当てであり。絶望であるところだ。(同書P151-152)

松本侑子は同書のなかで、堀口大学訳を絶賛しています。彼女にはぜひ、河野万里子訳に触れていただきたいと思います。いっぽう中沢けいは、あえて訳者名を伏せていますが、集英社文庫(手塚伸一訳)を読んで、「訳者によってこんなに違うのか」と初めて実感したと書いています。その著作のなかにおもしろい見識がありますので、紹介させていただきます。

――少年と少女を描いたこの小説をまさか今一度読みたくなることがあるとは五年前には想像がつかなかった。ある日ある時、それがコレット五十歳の作品であることを思い出し、彼女がほんとうに描きたかったのはヴァンカでもないフィルでもない、女盛りの例の貴婦人ではないかと予断が走った。(中沢けい『書評・時評・本の話』河出書房新社P83)

◎息子に「小僧」はないと思います

私が違和感を覚えた訳文と、読み終えた新訳とを比較してみます。

■新潮文庫(堀口大学訳)
「もう帰るのかい?」
彼女は、被り物を、一皮むくような具合に引っぺがした。そして固いブロンドの髪を揺すぶりながら言った。
「昼食(おひる)にお客様が一人あるのよ! 着替えをするようにとパパが言ってたわ」
 彼女は駆けていた。全身濡れたままで、大柄で男の子みたいな身体つきながら、がっちりとした骨組みと伸びやかな目立たない筋肉のために、さすがにほっそり見えた。(P11)

■光文社古典新訳文庫(河野万里子訳)
「もう帰るの?」
ヴァンカはまるで頭から一皮むくみたいにスカーフを取り、硬いまっすぐな金髪を振った。
「お昼にお客さんが来るでしょ! それなりの格好をしろって、パパが言ってたから」
 全身濡れたまま、彼女は走りだした。背が高くて男の子のようだが、のびやかで目立たない筋肉のおかげで、ほっそりとしたシルエットだ。(P16)

もうひとつ、父とフィリップの会話場面です。ここがいちばん引っかかった箇所です。

■新潮文庫(堀口大学訳)
「ここにいたのかい、小僧?」/「そうです、パパ」/「あんたひとりなのかい? ヴァンカは?」「僕、知りません」(P102)

■光文社古典新訳文庫(河野万里子訳)
「おう、ここにいたのか」/「はい、お父さん」/「ひとり? ヴァンカは?」「いや、知らないです」(P148-149)

どうですか? ぎくしゃくしていた親子の会話が、みごとに弾んでいます。それにしても、息子に「小僧」はないと思います。フィリップの愛称はフィルですから、私は小僧をフィルに置き換えて読みました。

最後にコレット大好きな、作家の熱い文章で結びます。

――ところが、コレットはちがう。これはどういうのだろう? 何年をへだてて読んでも、刺激され、ゆすぶりたてられ、老いて硬ばり、冷えて青ざめた心が熱を持ってしまう。コレットの本のページが好ましい熱気を帯び、いつか私の心も、ポッと引火するのである。(田辺聖子・文『私を変えたこの一冊』集英社文庫P72)

コレット『青い麦』は、「海外小説100+α」のリスト外においていました。(以前は4ジャンルで400+αでしたので)それで紹介できなかったのですが、今回4つのジャンルを「125+-α」に増やしましたので、胸を張って推薦させていただきます。できれば、光文社古典新訳文庫で読んでください。この作品は、kindleでも読むことができます。

山本藤光2017.05.03初稿、2018.03.05改稿

渡辺淳一『失楽園』(上下巻、講談社文庫)

2018-03-05 | 書評「ら・わ行」の国内著者
渡辺淳一『失楽園』(上下巻、講談社文庫)

凛子と久木はお互いに家庭を持つ身でありながら、真剣に深く愛し合ってゆく。己れの心に従い、育んだ「絶対愛」を純粋に貫こうとする二人。その行きつく先にあるものは…。人間が「楽園」から追放された理由である「性愛=エロス」を徹底的に求め合う男女を描き、人間とは何かを問うた、渡辺文学の最高傑作。(「BOOK」データベースより)

◎医者から作家専任への道

 夏はウィークリー・マンションを借りて、札幌で過ごします。そのとき必ず訪れるのは、北海道文学館と渡辺淳一文学記念館です。昨年、渡辺淳一文学記念館へ行って驚きました。中国人だらけだったのです。中国では、渡辺淳一と村上春樹が大人気のようです。
 渡辺淳一は1933年に北海道で生まれ、北海道大学理類に進学しました。そして整形外科医として、札幌医大に勤務しました。仕事の傍ら小説を書いていましたが、彼を決定的に変えたのは和田寿郎教授の心臓移植手術でした。彼は院内で疑義を唱えました。
その後『白い宴』(角川文庫、発表時のタイトルは『小説・心臓移植』)を上梓し、院内を騒然とさせます。世間にはこの小説のために、渡辺は地方の炭鉱病院に左遷されたとする文章もあります。しかしこの説については、当時の上司であった河邨文一郎・札幌医科大学名誉教授が次のように書いています。

――とんでもない。あれは注文小説に忙しくなった渡辺君がなるべく暇な病院にしばらく出張したいと希望した結果にすぎない。(『ロマンの旅人・渡辺淳一』北海道新聞社P135)

 渡辺淳一は、医療の傍ら中間小説作家を目指しました。結局、1970年(33歳)に『光と影』(文春文庫)を発表したと同時に作家活動に専念することになります。この作品は、総理大臣・寺内正毅をモデルとしたもので、医療(『白い宴』)・恋愛(『失楽園』)と同時に評伝という新たなジャンルを確立しました。

渡辺淳一作品の実質的な原点は『阿寒に果つ』(中公文庫、初出1973年)にあると思います。北海道で一番の進学校・札幌南高校へ入った彼は、そこで一人の女性に出会います。加清純子。2人は熱い交際をしますが、高校卒業前に彼女は行方不明になります。渡辺が北大へ入学したとき、純子は阿寒湖を見下ろす釧北峠の雪のなかから発見されます。損傷のない美しい遺体でした。
純子の死については、『阿寒に果つ』の第1章に書かれています。小悪魔的な魅力のある少女だったようです。おそらく渡辺淳一は彼女のことが書きたくて、執筆活動をスタートさせたはずです。純子の面影は、渡辺作品の随所に現れています。
渡辺淳一作品には必ずモデルが存在する、と書かれたりしています。しかしそれらのモデルと重なって、加清純子は渡辺を支配し続けているのだと思います。

◎『うたかた』を越えた

『失楽園』(上下巻、講談社文庫、初出1997年)は、ミリオンセラーになりました。日経新聞に連載されていましたので。ストーリーは小刻みに展開します。
妻のある男性と夫をもつ女性。こののっぴきならぬ恋を渡辺淳一は、これでもかとばかりに読者に突きつけてみせました。
同じような物語は、『うたかた』(講談社文庫)として7年前に発表しています。この作品も不倫を描いたものです。52歳の作家と35歳の着物デザイナーの絶対的な愛が描かれています。この作品では絶対愛の証として、剃毛をします。この行為について、渡辺淳一は次のように語っています。

――選ばれた者だけにゆるされた、選ばれた者だけの秘儀である。一見淫らなようで、剃るほうも剃られるほうも、その行為に一つの祈りを籠めている。(川西政明『評伝・渡辺淳一』集英社文庫P228)

作品中にも逸話が挿入されていますが、渡辺淳一は「阿部定事件」と「有島武郎心中事件」を念頭において、さらなる絶対愛の世界に挑みました。男は久木祥一郎。50歳半ばで出版社に勤務しています。女は38歳のカルチャーセンター書道講師・松原凛子。彼女は某医学部教授夫人でもあります。2人は久木の友人であるカルチャーセンターの責任者の紹介で出会います。2人とも連れ合いのある身でありながら、激しく求め合うようになります。
展開については触れないでおきますが、凛子は先に紹介した2つの事件に傾倒していきます。凛子は身体を重ねながら「怖い」を連発します。少し引用してみます。

――「わたし、怖いわ、怖いのよ」(中略)「わたしたち、きっといまが最高なのよ。いまが頂点で、これからは、いくら一緒にいても、下がるだけなんだわ」(下巻、P270)

 凛子のこの境地は、やがて心中へと加速されます。凛子の境地について、栗坪良樹編『現代文学鑑賞辞典(東京堂出版)では、「静かでけだるい哀しみ」と解説しています。本を読み終えたとき、私はまさにそんな感覚になりました。本書は渡辺淳一のねらいどおりに、確実に『うたかた』を越えていました。
(山本藤光2017.03.09初稿、2018.03.05改稿)

佐川光晴『生活の設計』(『虹を追いかける男』双葉文庫所収)

2018-03-05 | 書評「さ」の国内著者
佐川光晴『生活の設計』(『虹を追いかける男』双葉文庫所収)

ぼくが屠畜場で毎日ナイフを持って働いている理由?よし、説明してみよう!キツイ仕事ゆえ、午前中で終業だから、共働きの妻にも幼い息子にも都合がいい。ぼくの体質にも最適なんだ。しかし…各紙誌で話題、爽快な新潮新人賞受賞作。(「BOOK」データベースより)

◎10年半場で働く

不覚でした。佐川光晴『生活の設計』(新潮社)は、文庫化されていないと思いこみ、「山本藤光の文庫で読む500+α」のリストに入れていませんでした。先日『虹を追いかける男』(双葉文庫)を読もうとツンドクの山から引っ張り出しました。何とそこに、所収されていたのです。

というわけで、久しぶりで再読しました。ちなみに本文にそえた写真は、単行本のものです。
佐川光晴作品は『縮んだ愛』(講談社文庫)、『おれのおばさん』(集英社文庫)と、デビュー作以降読みつないできました。やっぱり新潮新人賞受賞作(2000年)の『生活の設計』がいちばん好きです。

佐川光晴は自伝エッセイ『牛を屠る』(双葉文庫)のなかで、次のように書いています。

――十年半に及ぶ勤務の後、私は場で働く日々を描いた小説「生活の設計」で作家としてデビューした。幸い好評を得たが、仕事の想いは存分に述べたのだからと、その後はを主題にした小説を書くことはなかった。(本文P12)

まさに『生活の設計』は、特異な自伝的小説なのです。私は本書を読んだときに、丸山健二のデビョー作『夏の流れ』(講談社文芸文庫、「山本藤光の文庫で読む500+α」推薦作)と重ねていました。丸山健二の方は、死刑囚を収容する刑務所刑務官が主人公でした。

本書は三島由紀夫賞の候補になりましたが、残念ながら落選しています。選考委員である筒井康隆は、自分は推薦したがという前提で次のように書いています。

――他の選考委員たちからは、被差別ではない主人公が場に就職した心理の掘り下げがないことに疑問が出たが、なぜその職業に惹かれ、就業したのか自分でもよくわからず、説明もできないということはよくあることで、無理に説明しようとして心理描写などに陳腐なペダントリイを入れる、ということをせず、準拠枠が「野火」だけであったのがいい。(筒井康隆『小説のゆくえ』中公文庫P179)

◎なぜ場で働いているか

主人公「わたし」は、汗かきで下痢に悩み続けます。大学を卒業して入社した出版社は、1年で倒産します。「わたし」は場に勤務しはじめます。

「わたし」には、妻と保育園に通う息子がいます。妻は役者をしており、旅芝居で全国行脚をしています。妻の両親は地元の名士です。「わたし」は、妻の両親の敷地に建てた家に住んでいます。そして「わたし」は、なぜ場で働いているかを常に考え続けています。

『生活の設計』は、ユーモアにあふれる奇妙な小説です。なにしろ作品の舞台が場であり、そこに勤める仲間がリアルに描かれています。

主人公はいつも、社会の偏見に思いをはせます。それでいて、家族のためには最適な職場であるとも考えています。仕事は午前中だけで、午後はたっぷりと家族のために、費やす時間があるのです。

買いものに行き、保育園に息子を迎えに行き、食事の準備をします。これが「わたし」には幸せなのです。

読者は終始、主人公のだらだらした瞑想と、叙述につき合わされます。こんな具合です。

――なにしろ、その『埼玉県営と畜場』なる場は、その頃わたしたちが住んでいたアパートから電車でわずか二駅先の、それどころか無理をすれば自転車ででも通えるという、まさにお誂え向きの場所にあったからで、偶然にしてはあまりに見事な出来栄えに、わたしは思わず、ことによると結婚も失業も全てはなにものかがわたしをそこへ導くために仕組んだことなのではないだろうかと思ったほどだ。(本文より)

この叙述が面白いと思った方には、ぜひ読んでほしいと思います。「わたし」がこねまわす思考のパズルに、何度も笑ってしまうことでしょう。

最後に本書を総括して、説明している文章を紹介させていただきます。

――これは食肉処理場で働く語り手「わたし」が、同僚が世間体の悪さを気にして転職したのをきっかけに、自分だったら他人に「なんでそんなとこで働いているの?」と訊かれたらどう答えるか思い悩み、その理由を四苦八苦考えようとする作品である。(石川忠司『現代小説レッスン』講談社現代新書P144)

佐川光晴は未来に向けて、順調に歩んでいます。今後も追っかけをつづけたいと思います。
(山本藤光:2001.03.10初稿、2018.03.04改稿)

後藤武士『読むだけですっきりわかる日本史』(宝島文庫)

2018-03-05 | 書評「こ」の国内著者
後藤武士『読むだけですっきりわかる日本史』(宝島文庫)

世界のなかでも類い稀なる急成長を遂げてきた国、日本。この国の歴史は、良い時代、悪い時代それぞれに生きた先人達の、貴重な体験談の宝庫である。私たち現代人にとっても、人生をよりよく生きるためのヒントが満載だ。本書は、その歴史を完全網羅。そして、教科書では取り上げられない目からウロコの意外なエピソードも紹介。漫画のようにすらすら読めてクセになる、楽しい日本史決定版。(「BOOK」データベースより)

◎書斎の特等席の書物たち

 高校時代、最も苦手な科目は歴史でした。しかし読書を重ね書評を書くようになってから、無視するわけにはいかなくなりました。私の書斎の特等席には、何冊かの繰り返しめくっている本があります。ちょっと列記してみます。

・『新明解国語辞典』(三省堂)
・『類語例解辞典』(小学館)
・『記者ハンドブック』(共同通信社)
・『新詳高等社会科地図』(帝国書院)
・後藤武士『読むだけですっきりわかる日本史』(宝島文庫)
・後藤武士『読むだけですっきりわかる世界史・完全版』(宝島文庫)
・『一日一題・心に残る逸話と名訓』(光文書員)
・『現代歳時記』(成星出版)

『新明解国語辞典』のユニークさについては、「山本藤光の文庫で読む500+α」の赤瀬川原平『新解さんの謎』(文春文庫)を紹介ずみです。そちらをお読みください。

――現在残されている物から知ることの出来る、人間社会の移り変りの過程や、そこに見られる個個の出来事。(新明解国語辞典)

後藤武士の著書は通読してから、辞書がわりに活用しています。しかし日本史の方には索引がありますが、世界史の方にはついていません。必然世界史は、ネット検索をすることになります。

◎レンジでチンみたい

後藤武士『読むだけですっきりわかる日本史』(宝島文庫)は非常に読みやすく、スラスラと通読できます。300頁ちよっとのなかに、日本史が凝縮されています。まるで冷凍食品をレンジでチンみたいな感覚で読みました。

冒頭の章「旧石器時代」を拾ってみます。最初に、日本には旧石器時代はなかった、との紹介があります。旧石器時代は、打製石器時代のことです。それを後藤武士は、「だせえ(ださい)石器だ」とひねりを加えてみせます。
そして「旧石器時代」の存在を証明したのは、納豆売りの行商人・相沢忠洋だったと説明されます。打製石器発見の知らせを聞いて、考古学者が動きます。

――ある大学の教授とチームが派遣され、さらに調査した結果、旧石器が本物であることがわかった。ところがだ、発見者がその教授であることにされ、相沢青年の功績はまるで無視された。(本文P17)

 このあくどい教授の名前は、「相沢忠洋」でネット検索すると出てきます。本書はコンパクトにまとめたものなので、さらに知りたい事項はこうして補うことになります。
 ネット検索によると、相沢は発見した石片を持って、桐生から東京まで自転車で何度も往復しています。ところが、どこの大学もとりあってくれません。そして、

――この石器を相沢から見せられた明治大学院生芹沢長介(当時)は、同大学助教授杉原荘介(当時)に連絡し、黒曜石製の両面調整尖頭器や小形石刃などの石器を見せた。赤土の中から出土するという重大性に気づいて、同年9月11日~13日、岩宿の現地で、杉原、芹沢、岡本勇、相沢ら6人で小発掘(本調査に先立つ予備調査)が行われた。(Wikipedia)

このように、後藤武士『読むだけですっきりわかる日本史』をベースとして、どんどん知見は広がります。

◎知識のベースキャンプ

 三島由紀夫『金閣寺』(新潮文庫)を読んだとします。ちょっと「金閣寺」を学ぼうかなと思います。本書を開きます。きちんとした史実に加え、次のような説明がなされています。

――現在30代以上の大人の人にはなつかしい「一休さん」というテレビアニメがあったけれど、そこではよく「将軍様」こと義満がこの金閣寺で、一休さんにとんちでやりこめられていたものだ。(本文P139-140)

ちなみに、酒井順子『金閣寺の燃やし方』(講談社文庫)は、三島由紀夫『金閣寺』と水上勉『金閣炎上』(新潮文庫)にスポットをあてた力作です。「山本藤光の文庫で読む500+α」では、近いうちに紹介させていただきます。

楽しく読むことができる専門書。知識のベースキャンプになる本を探すのは、きわめて大切なことです。そんな意味で後藤武士『読むだけですっきりわかる日本史』は、お勧めの一冊です。高校時代に本書があったら、歴史は苦手科目になっていなかったと思います。
山本藤光2017.08.05初稿、2018.03.05改稿

一気読み「ビリーの挑戦」071-076

2018-03-05 | 一気読み「ビリーの挑戦」
一気読み「ビリーの挑戦」071-076
071cut:チャンス到来だ、おめでとう
――12scene:5月のオフイス
影野小枝 ここは漆原さんになってからの、夕暮れの釧路オフイスです。以前との違いがわかりますか?
寺沢(大きな声で)ただいま……。
漆原(顔を上げて、大きな声で)おかえり。
チームメンバー(顔を上げて)お疲れさま。
寺沢(ノートパソコンを立ち上げ、プリンターに向かう。出力された1枚の紙片を持って、上司の席へ)漆原さん、きょうの日報です。
漆原(日報を見ながら)きょうの目玉は、川上先生だったよな。浮かぬ顔をしているけど。
寺沢 きょうは不発でした。真剣にデータを見てはくれたのですが……。
漆原 やったじゃないか。一歩前進だよ。
寺沢(笑いながら、頭をかき)そうですかね。
漆原(日報に赤ペンで、丸印を書きこむ)だっていままでは、データに見向きもしなかったのだろう。チャンス到来だよ、おめでとう。
(チームメンバーが、漆原の席に集まる)
影野小枝 このシーンを見て、同じオフイスが様変わりしていることを、理解していただけると思います。以前のオフイスと、どこが違っているのでしょうか。おわかりですよね。
漆原(1枚の紙片を取り出し)見ろよ、川上先生の攻略が、未来軸へと移動した。
影野小枝「未来軸へ移動した」は、のちほど触れるとして、帰社した直後のMRがなぜすぐに日報を提出できたのでしょうか。喫茶店で日報を書いてから、戻ってきた? 答えはブー、です。何か秘密がありそうですね。探ってみましょう。

072cut:朝書きの日報の効果
――12scene:5月のオフイス
影野小枝「おはよう」と、元気なあいさつが飛び交っています。カバンに書類を入れる人。資料について、意見交換している人。電話が鳴りました。
石川 ありがとうございます。R製薬でございます。
影野小枝 そうそう、帰社したMRの日報の話でしたね。オフイスに戻るなり、なぜMRは日報を提出できたのか。ちょっとのぞいてみます。
田中(パソコンに何やら入力している)
影野小枝 おはようございます。ごめんなさい。お仕事の邪魔をしてしまって。あら、日報じゃないですか。日付が今日になっていますけど……。
田中(顔を上げて)これ、今日の日報です。
影野小枝 今日の日報ですか?
田中 そうです。本日分の日報を、毎朝作成しています。
影野小枝(首を傾げる)えっ?
漆原 本日の訪問計画を、入力しています。何時にどこへ行き、どんな製品を宣伝するのか、どんな手段でそれを実施するのか。どんな成果が上がるのか。そこまでを、出る前に書いてしまうのです。
影野小枝 だって、お会いできない先生もいるでしょう?
田中 そんなときは、コメント欄に「会えず」と書けばいいのです。
漆原 この方法を採用してから、訪問の目的がクリアになり、訪問効率が上がりました。
田中 待合室や車のなかで、コメントをちょこちょこと書きこめば、その日の日報は一丁できあがりというわけです。
影野小枝 だから、帰ってくるなり、日報を提出できたのですね。

073cut:未来軸へ移動している
――12scene:5月のオフイス
影野小枝 いかがですか。日報は、出がけにほぼ完成しています。だから、MRは会社へ戻るなり、上司と日報をはさんで、楽しそうにやり取りができたのですね。あのシーンをちょっと巻き戻してみましょう。
(071cutの再現)
影野小枝 ここです。上司は、部下の本日の重点活動を掌握していました……。なぜでしょうか?
漆原 朝書き日報には、一軒だけコメント欄に成果を思い描いたものを記入してもらっています。その日いちばん大きな仕事の成果を思い描く。大切なことです。
(日報をズームアップ)
影野小枝 これって、日報というよりも、本日の活動計画ですね。
漆原 そう、ここを抑えておけば、帰社したMRとポイントを絞って話ができるわけです。
(071cutの再現を継続)
影野小枝 ああ、ここです。漆原さんは日報を見ながら「やったじゃないか」「おめでとう」を連発しています。これって、MRに元気を与えますよね。どうして、こんなにスムースに共感や賞賛ができるのでしょうか。「未来軸に移動している」ともいっています。何か、日報に仕掛けがあるようですね。

074cut:日報の仕掛け
――12scene:5月のオフイス
(日報のブランクフォーム。次第に左側の訪問先、宣伝品目、方法の欄が埋まりはじめる。コメント欄はまだブランクのままである)
影野小枝 出がけには、半分以上が埋まっているのですね。これって、逆転の発想です。日報はオフイスへ戻ってから書くもの、という常識が根底からくつがえっています。
漆原「朝書き日報」により、MRの一日に起伏が生まれました。その日、成功したらそれを翌日のバネにする。失敗だったら、今日を翌日の糧にする。そのことは、コメント欄を見てもらえればわかります。
(コメント欄をズームアップ)
影野小枝 これが本日の目玉の面談ドクターですね。さて、どうして上司とMRは、元気なやり取りができたのでしょうか。探ってみます。
(コメント欄に文字が浮かぶ。次のような文章が書かれている)

「川上先生についての日報」
◎一日の成果を思い描いての記述
新規処方の確実な感触を得る
◎日報のコメント欄の記述
・これまではデータすら見てもらえなかった。
・本日はじっくりと見ていただけ、二度ほどうなずいてくれた。
・相変わらず話してくれないが、次回は処方を依頼する。

影野小枝 シンプルなコメントですけど……。
漆原 わかりますか。日報の書き方に秘密があります。

075cut:共感、賞賛、共有の話法
――12scene:5月のオフイス
漆原 さっきのコメント欄を、もういちど見ていただきましょう。3行に分けて、書かれていますね。こうすれば、分かりやすくなるんですよ。
(日報の各行の先頭に、上から「過去」「現在」「未来」の文字を挿入する)
熊谷 そうです。目玉先については、「前回・今回・次回」のメモを書いているんです。
影野小枝 それがどうして、あのような心地よい会話になるのですか?
漆原 過去は、現在よりも常に厳しい状況にありますよね。
影野小枝 はい。
漆原 だから過去を質問すると、「たいへんだったな」と共感できるのです。
熊谷 現在は今日の活動ですから、厳しい過去から一歩前進しているのが普通です。
漆原 したがって、今日の活動を確認し、賞賛してあげられるわけです。
影野小枝 共感に、賞賛ですか……。
漆原 そして、未来は「おい、何か困っていることはないか」と声をかけ、MRとゴールを共有し、支援することになります。
影野小枝 過去、現在、未来を書かせて、共感、賞賛、共有と反応するわけですね。これは、すごく元気の出る展開ですね。
熊谷 日報提出が楽しくなります。
漆原 一人のドクターについて、MRの活動が未来軸へと移動していれば、活動は順調ということになります。これは「PPF」という手法なのです。過去、現在、未来の英語の頭文字からつけた名前です。
影野小枝 この日報は、重要な顧客の攻略履歴になっているのですね。しかも元気な会話が生まれています。

076cut:毎日に起伏が生まれる
――12scene:5月のオフイス
影野小枝 ビデオ製作会社の打ち合わせです。
監督 いいね、「朝書き日報」か。ネーミングはダサいけど、逆転の発想だよ。
製作 原作者がいっていたけど、『人間系ナレッジマネジメント』(山本藤光著、医薬経済社)を読んだ多くの企業が導入したようだ。
助監督 それにしても、毎朝多くの顧客を思い浮かべて、成果を予測するのはたいへんそうですけど。
製作 いちばん大きな成果だけを、思い描けばいいって書いてあるだろう。たくさん書かせるのは、思い描きにウソが混じるので、ご法度とのことだった。
監督(台本を読みながら)思い描くから、毎日に起伏が生まれる。成功したらそれが明日へのバネになり、失敗したら明日への糧になる。いいね、このコピーは、テロップで流そう。
助監督「PPF」は、ちょっと難解ですね。
製作「PPF」を日報に取り入れてくれた企業もあるようだ。前回、今回、次回を書くことにより、営業マン自身も攻略具合を直視できるから、活動にもインパクトが生まれる。「未来軸へと動いていないぜ」が、流行語となったりするらしい。またデータベースとして、顧客攻略履歴を整理している企業もあるようだ。