風竿の「人生の達人」烈伝

愛すべき友、仕事・趣味の磯釣り・ゴルフ・音楽、少しの読書などにまつわるあくまで「ヒト」に重点をおいたブログです

助六とゆでたまご

2015年09月06日 13時02分45秒 | 風竿日記

秋になると運動会の季節到来

最近は春に運動会をやる学校もあるようだが、それは学校行事が多すぎての学校側の都合であろう。

正しくは「天高く馬肥ゆる秋」に挙行するのが、正しい日本の小学校なのだ。

スポーツの秋というではないか。

母を小学1年生の3学期で亡くした私の運動会は、他の同級生が、大勢の家族連れで応援する中

孤独な運動会であった。

徒歩で入賞して、ノートを貰っても誰も誉めてはくれなかった。

とりわけ、昼休みの時間が一番嫌だった。

みんなが家族でお弁当を食べている時、講堂の陰で、やはり親が来ないクラスメートと淋しくお弁当を開くのだ。

「おう、寿司か。よかねぇー」

と回りから羨ましがられて言われても、私は・・・・

「チェッ!またこれかあ・・・・。」

と思っていた。

私のお弁当は母親代りのばあちゃんが、他所で働いていたので、いつも駅の近くの新八寿司というところから届けられる、いなり寿司と巻き寿司が仲良く詰められたもの。

今で言う助六なんであった。

当時の日本は等しく貧しかったので、寿司なんてそれは立派なものであったのだが、私は一つも嬉しくはなかった。

ありきたりのものでも良いので、みんなが愉しく食べている過程の団欒のようなお弁当が食べたかったのである。

それに決まって、ゆでたまごが二個添えられていた。

ばあちゃんが、朝、茹でて一緒に添えてくれたもの。

後添えの母が我が家に来てくれた時は、微かに授業参観とか運動会の応援とかを期待したものだが、

今で言うキャリアウーマンを気取っていた継母は、一度も運動会に顔を出すことはなかったし、お弁当もばあちゃんの役目になっていたのである。

寿司を急いで食べて、ゆでたまごを喉に詰まらせながら頬張ると、水道の水を、空を向いてゴクゴクと呑み、

同じ境遇の友達と、学校の横にあった大きな堤で石投げをして遊んだ。

手がちぎれるほどに石を投げて遊んだのである。


小学校2年から6年まで、毎年運動会と遠足のお弁当メニューは変わることは無かった。

気遣ってくれたばあちゃんには悪いのだが・・・・・。

 

だから、助六は今でもあまり好きではないのである。

奥さん、そこんとヨロシク