奈良

不比等

古都奈良・修学旅行と世界遺産の街(その2817)

2024-06-24 08:15:00 | 奈良・不比等

北円堂を知らずして奈良の歴史は語れない

「保田与重郎」について。----------

保田與重郎(やすだ よじゅうろう1910.4.15~1981.10.4)は、日本の文芸評論家。--------

奈良県十市郡桜井町(現桜井市)生れ。旧制奈良県立畝傍中学校/旧制大阪高等学校を経て/東京帝国大学(文学部/美学美術史学科)卒。---------

大阪高校時代には/マルクス主義に触れ/蔵原惟人や中条百合子の作品を評価。---------

ドイツロマン派に傾倒し/近代文明批判と日本古典主義を展開した。1936“日本の橋”で池谷信三郎賞受賞/批評家としての地位を確立した。----------

1938“戴冠詩人の御一人者”で透谷文学賞受賞。亀井勝一郎/中島栄次郎と“日本浪漫派”創刊に関わり/太平洋戦争終了まで/戦争を正当化し/戦線の拡大を扇動(?)する論陣を張る。--------

1948公職追放。戦争中の論調から/言論ばかりか/その存在が黙殺されるも/1958京都の鳴瀧に山荘“身余堂(しんよどう)”を構え/以後同地で過ごした。佐藤春夫は、東の詩仙堂と並べて/“西の身余堂”と絶賛し/川端康成は詩仙堂よりも保田邸の方がずっと優れていると断じたと云う。---------

1960年代後半から日本浪漫派が再評価されると同時に/論壇に復権し/“祖国”を創刊する傍ら匿名で時評文を書いていた(絶対平和論/日本に祈る)。--------

1981肺がんのため他界。大津市の義仲寺/再建に尽力したことから/墓所は同寺と/桜井市脇谷公園にある。---------

保田與重郎は、戦争協力者として占領軍から危険人物扱いされて//文壇の重鎮であったのだが/転向文士も数多(あまた)いた中で/節を曲げなかった所為か/戦後その文藝の実力を/発揮させる機会を奪われた一人となった。

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