テレビを見ていたら
某人気者の女子アナが、どこか田舎に旅をして、
野原に咲く花々を見ながら、
「自然のままなのに、こんなに美しいなんて・・」って、言ってたんだ
聞いた私は、「え?」って、違和感を感じた。
「自然のままだからこそ、美しいんでしょ!?」
でもさ、
テレビ業界という、形を重んじる世界にいる人は、
人の手を加えてこその美ってのを、毎日毎日、探求しているんだね・・
それに気づいて、私は、おもしろかったんだ
どっちがいいかなんて、言えないよ。
きっと、どちらも、真実。
ありのまま、素(す)のままが美しいってのも、真理だし、
美を追求し尽くして、それを表現するってのも、真理
私のブログのサブタイトルは、
ナチュラルに、スタイリッシュに、スピリチュアルに
一見、矛盾したこの言葉の羅列には、ちゃんと意味があったんだって、
自分でも、今、気づいたりして・・
<ありのままでいることが大切>って、本当にあちこちで言われるけどさ、
あなたは、自分のありのままが、どんなか、知っている?
たとえば、私は、昨日、
あることを思い出して笑いこけた後、その笑い声の余韻も消えないうちに、
その裏にある自分の思いに気がついて、涙が出て止まらなくなった
笑いたかったのもありのままだし、
泣きたいのもありのままだけど、
自分の深いホンネに気がつくのに、少し、時間がかかったんだ
そう、
ありのままって言われたって、決して、揺るぎない存在感があるわけじゃなくて、
それはそれは、移ろいやすく、不安定なことってある
どっしり、しっかり、安定したものが、<ありのまま>じゃなくていいんだよ
ある映画の中の話なんだけどね、
演劇を志すある青年がいて、その親友が、交通事故で亡くなった。
その青年は、葬儀に出席しながら、号泣したんだけど、
「その拳の握り方はカッコ良くない。」とか、
「今は、少し抑えめに泣いて、もう少し後に嗚咽して泣くんだ。」とか、
自分の中の演出家の声が渦巻いて、ずっと、自分を見ているんだ・・
それが嫌になって、
その青年は、演劇を辞めた・・
私には、
この青年の苦悩が、とっても良く分かるんだ。
表象の美を追求することは、どこか、偽物とか、真実でないこととか、
世間一般に、そう思われている。
見た目に美しいことと、内容に価値があることは、別の次元だって常識があって、
両方が両立することは、稀ってことにしておかないと、
皆の生活意欲が、そがれるから
美人で頭も良くて性格もいい・・なんて人がごろごろいたら、
自分はそうでないと思っている人は、
生きていく自信を喪失するかも知れないから、そんなことは滅多にないことにしようって、
どこか、国家的な機密機関が情報操作しているみたいにさ。。
本当は、そんな人、結構たくさんいるってこと、
「フォルテネージュ」のクライエントさんやビオダンサ仲間を見ていると、よく思うことだよ
確かに、
表象を美しく創り込んでいくことって、スピリチュアルではないって偏見が存在する。
じゃあ、人からどう見られるかなんて、まったくおかまいなしにすれば、
必ず、スピリチュアルな真実にたどりつけるの??
たとえばね、
郷ひろみは、オンとオフの使い分けに悩んだ結果、
24時間、オンでいること、つまりスターとしての郷ひろみでいることを選んだんだって
同じことは、たぶん、木村拓哉クンにも言えると思う。
あの人は、相当、「格好良さ」を意識的に創り込んできた結果、
今では、それが素と見分けがつかなくなって、同一化している
あのね、
<ありのまま>が分からなかったらさ、
自分が美しいと思うように、創り込んでいいと思うんだ
素の自分かどうか考えてる間に、
「型」として、「スタイル」として、自分が心から美しいと思うことを、選び続けて身につけて演じていく。
それを徹底的にやれば、
それがあなたの素(す)になるんだ
自分の素が分からないときってのは、
何でも、自分の素にできるチャンスだと思うよ
演じることは誰かを欺くことではないんだ。
自分を見ている自分がいたって悪くない。
むしろ、そのほうが、いいと思う
その視点で、自分の表象に美をもたらすことで、
自分の中の美の可能性にますますアクセスできる
留意すべきとしたら、
「これじゃなきゃ、美しくない!」って束縛から、解放されること
そうすれば、美の可能性は、無限に拡大、膨張して、
あなたは、その世界以外に、身の置き場がなくなるから
昨日紹介した、ビオダンサの元型のワークショップは、
私に、この<意識的な創意>ってのを、教えてくれたよ
スピリチュアルカウンセリングサロン「フォルテネージュ」