私ね、思春期くらいから、
人生、数年ごとに、
世阿弥の「花伝書(風姿花伝)」が妙に気になる時期が巡ってくるの
この前そうなったのが、約8年くらい前のことで、
去年の秋から今にかけても、ことあるごとに浮かんできてる、
あの、「秘すれば花」って言葉
もうかなり、色褪せてきてる、昭和の時代に発行された文庫本を、
また読み返したりしてるよ(笑)
より豊かな表現は、「秘する」ことをも武器にする
<伝えない>んじゃなくて、
<伝える>ために<伝えない>ことをする、そんな秘儀があるんだ
ある心理学のワークショップに参加したとき、
講師は、「愛」という言葉を一度も使わなかったけど、
私には、もうそれしか伝わってこなかった、って経験をしたことがあるの
彼が意図してそうしたとは思えない。
でも、私は、それを確実に受け取ったんだ
表現と体験の矛盾ってのもあるよね
たとえばさ、
大学で、ある女子学生が、
教室の一番前に座って、話している教授を見つめ、熱心にノートを取り、懸命に耳を傾けている・・
彼女は表現者としては最高だけど、
決して教授の話の内容を深く体験してはいないの
アウトプットとインプットは同時に両立し得ないんだ
だから、テレビの突撃!体験レポート なんて、神の偉業だと思うよ
敢えて、<表現しない>ことをすることで、自分の内部に浸透していく何かを、
じっくりゆっくり熟成させるとき、
その純粋なエネルギーの高まりでもって、
そのとき、生成されるものが、芳醇な香りを放つようになって、
思わず外に漂っていくくらいが、そこはかとない趣(おもむき) なのかも知れないね