落ち込んでいるときなどに、試してみて欲しいことがある
題して、
「自分、実況中継~~」
たとえば、
里誉さんが、Aさんから言われた一言にとても落ち込んでいるとする
そこで、里誉さんは自分で自分のことを、昔の古舘伊知郎のように実況中継するのだ
「どうも、いけません、今日の里誉さん、いったい、どうしてしまったというのでしょう。まるで、体の力が抜けてしまったようにげっそりしています。目もうつろで、ボーっとした表情で、何もする気が起きないようですねえ。おそらく、Aさんからの一言が相当、こたえていると思われますが、他人はいろんなことを言うものなのですから、全部気にしていては、身が持たないというものですよねえ。」
余裕があれば、解説の江川さん、掛布さんも登場させる
「どうでしょう、江川さん」
「そうですねえ、里誉さんは、朝から何も食べていないんですよね。昨夜も遅くまで考え込んで眠れなかったようですので、お肌のハリも失われて、せっかくの美貌が台無しですねえ 掛布さんはどう見ますか?」
「まずですねえ、彼女の良さは笑顔なのですから、それがないのは寂しいことですよね。でも、落ち込むことで人間は成長しますから、喜ばしいことですよ。まあ、そのうち、調子を取り戻すでしょう」
さらに、向こう正面の舞の海さんも、お出まし願おう
「こちらから見ておりますとね、Aさんの一言というのは、以前から里誉さんが持っていたコンプレックスを刺激したものと思われるんですよ。他の誰もそんなことを思っていないのに、自分だけがそう思いこんでいる。これが自分との闘いといったものなのでしょうねえ」
ここまですると、
きっと、ふっと力が抜けて、笑ってしまうだろう
そして、落ち込んでいたことと自分との間に、ちょっとした距離ができて、
悩みが少しだけ軽く感じられると思う
何をしているのかと言うと、
自分を客観視する眼を養っているのだ
人は、あまりにも強い感情(たとえば、落胆)を抱えて、それに浸り過ぎているときは、
どうしようもない閉塞感と無力感に襲われるものだ
自分=(イコール)「落胆」という構図が出来上がってしまっていると、
「落胆」という感情に支配され、世界のすべてが「落胆」という色味を帯びて見えてくる
でも、
自分の実況中継をしようとすると、
どうしても自分を客観視せざるを得なくなる
落胆に浸っている自分を外から見つめて、描写する視点が必要になる
自分とその感情の間に空間を作るのだ
そして、自分の様子を語ったり、解説者を登場させることによって、
自分の中に多くの視点があることを実感し、落胆はその中のたったひとつであることが認識できる
決して、「小さなことで、くよくよするな!」と、抑圧して無視するのではなく、
存在は認めるが、それが全部じゃないことを知ること
人は、
落ち込んでいるときでさえ、
それを達観する眼を持っているし、どうしたら良いかという智恵もあるし、乗り越える力も持っている
ただ、あまりにもひとつの感情を凝視し過ぎて、
他にもたくさんの自分がいることが視野に入っていないだけだ
カメラさんに、俯瞰で全体の絵を撮ってもらえば良い
全体を取り戻す視点があれば、そこには神聖で完全な自分がいたことを思い出すだろう
スピリチュアルカウンセリングサロン「フォルテネージュ」