昨日(4日)のブログの最後にも書いたのだけど、良い映画を観た後は気分が高揚しているのだろう、いつでも映画館を出てからかなりの距離を歩いてしまう。この一点だけをとっても、家で観る映画と映画館で観る映画は別物だ。友人や知り合いには、映画館を凌ぐ視聴環境を整えている者もいるし、自分もまたコアな映画ソフトを手元に揃えることにかけては「普通じゃない」ことを認識しているが、映画を観た後で歩くのと、映画を観た後でレンタル店にソフトを返しに行くのでは、同じ歩くという行為でもかなりの温度差があるのではないだろうか?
こうしたことから考えても(考えなくてもいいけど)、送り手にとって映画が「総合芸術」であるように、受け手にとっても映画は「総合芸術」だと思う。どこで観るかはもちろんだが、その日の体調や気分とか、天候、季節、さらには、過去に観てきた全ての映画がそこに関わってくるから映画は面白いと思うし、映画館通いがやめられない(ホームシアターの可能性については、これとは別の話になる)。
たった今観たばかりの映画を反芻しながらどこまでも歩いている間に、色々なことがとりとめもなく頭をよぎっていくのだが、青臭い正義感や激しい憤りで気持ちが高ぶっているときでも、救いようもない悲しみにただ胸がしめつけられているときでも、いつもと違うのは目に映る景色だ。美しさに、はっとさせられることが多い。
映画館を出たとき夜になっていると、この傾向がいよいよ増していくのだが、景色自体は実は何も変わっていない。変わったのは自分の瞳だ。映画の影響を受けて、今まで目にとまらなかったものが一時的に(持続性がないのが残念だけど)見えるようになったのである。
『グラン・トリノ』は78歳になった俳優クリント・イーストウッドに「あて書き」した脚本を、監督クリント・イーストウッドが演出した作品だ。イーストウッドの監督作品は、キャメラの語り始めが毎回楽しみだが、今回も見事な始まりから冒頭部にかぶってくるエンディングまで、一分の隙もなく痺れさせてくれる。
「真の傑作は賞とは無縁」なものだけれど、あと100年もすれば、イーストウッドが最も優れた監督&俳優の一人に位置づけられることは間違いない。しかも本作は、何度も繰り返すけれど、俳優イーストウッドが歩んできた人生を、監督イーストウッドが渾身の力を込めながらも控えめに、大作『チェンジリング』と次作の力作(ネルソン・マンダラについての映画らしい)の間に、さりげなく世に送り出したものである。さすがに『ローハイド』の頃は知らないけれど、故山田康夫の吹替えでテレビ放映された『荒野の用心棒』や『夕陽のガンマン』シリーズに夢中になり、『ダーティハリー2』以降、リアルタイムで全出演作品&監督作品を観てきた自分にとって、今この作品を観ることができたことは喜び以外の何ものでもない。
全てのシーンの中で一つだけ挙げておくと、主人公のコワルスキー(ポーランド系移民が主役なのも、俳優イーストウッドがアメリカ人俳優でなく、イタリアで成功した外国人としてハリウッドに迎えられたこととかぶる)が、息子に電話をかける短い場面を激賞したい。このシーンを始め、「神」の域に達した監督イーストウッドの演出と、それに答える俳優イーストウッドの演技は、ユーモアとペーソスに満ちた非常に人間くさいものだった。キャスティング(今回、イーストウッドの相手役を務めるモン族の姉弟や老犬デイジーの素晴らしいこと!)の妙に、美術(舞台となる家は何とオープンセット!)や小道具(題名になったグラン・トリノやガレージの工具類)の凝り具合、心にしみる音楽・・・何もかもが素晴らしい。
「遺作」あるいは「遺言」と言ってもよい作品を、公園を散歩するような軽やかな足どりで、世に送り出したクリント・イーストウッド。それこそ家族のように「阿吽の呼吸」で仕事のできる「イーストウッド組」と呼ばれる人々と、コンスタントに仕事を続けてきたからこそ、成し得た集大成の映画と言っても過言ではない。三十年以上も一緒に仕事をしてきた実績は、何よりの財産になったと思う。それゆえ、日本でいえば「後期高齢者」になるイーストウッドだけれど、今後もコンスタントに作品を発表することは可能だし、作品の質も保証されている。
『チェンジリング』と『グラン・トリノ』を観て、円熟期に達したイーストウッドの「さあ、これから」という意気込みまで伝わってきたような気がして、非常に嬉しかった。もしかすると、従来以上の勢いで新作を観られるかもしれない。ただひとつ残念に思ったのは、「『グラン・トリノ』が最後の出演作品になる」と本人が公言していることだった。俳優イーストウッドもまだまだいける。前言を翻して、まだまだ颯爽とスクリーンに登場して欲しい。他の監督の作品でも何でもいいから出るべきだ。
「老人と老犬の出ていない映画なんて、面白くないよな~」
暑くもなく寒くもなく、五月の爽やかな空気を肌に感じながら、世界の美しさを再認識した夜だった。
『グラン・トリノ』の公式HPは・・・アクセスできませんでした(何かプレーヤーをアップデートしなければいけないそうで)。興味ある方はご自分で確かめてね~♪
久しぶりの雨もいいものです。さて、何度か訪ねてくれた人はおわかりでしょうが、副題を決めるのに何度も書き直してしまいました。で、『グラン・トリノ』は彼を一躍有名にした『荒野の用心棒』(64)のあるシーンとかぶるので(その理由はまだ言えない)、この副題にしました。その意味では、『グラン・トリノ』は『ガントレット』(77)のラストと同じなんだなあ~。
変わらずお元気の様子、嬉しいです。
「グラン トリノ」良い映画でしたね。
「ロー・ハイド」は昔々私達毎週欠かさず観ました。良かったです。
頼もしい人と云えば、未だお会いした事は無いのですが、先月の終わりに放送協会のコンベンションに参加された元ボクサーの吉川英治さんに紹介され、平和と正義のため頑張られる彼に友達同士で感動したばかりです。
こちら、もう初夏のような日が続いています。
お体を大切に。
私は相変わらず「馬鹿」やってますが、それもこれも体あってのお話です。健康に過ごせていることを感謝しなくては!
『グラン・トリノ』、もう一度観に行くつもりです。
吉川英治さんのブログ「ストレート・トーク」熱いですよね~♪
こちらでは、暑さはひと休みといったところです。Fusakoさんも、お体を大切に。
チェンジリングは見逃してしまったのですが、グラントリノは滑り込みセーフ(近所の映画館は今週で終了)で見ることができました。
私はイーストウッド氏の作品は、ミリオンダラーベイビーくらいからしかちゃんと見ていないのですが、私もイーストウッド氏が100年後には優れた監督&俳優になるだろうというトシさんの意見には賛成です。
あれでは救いがないじゃないか、あれですべてが解決するはずがない。という意見もあるようですが、確かにそうだけれど、なんていうのかウォルトなりの筋を通したんでしょうね。それと、ほんの少ししか(それも亡くなってるし)出てこない奥さんは、ウォルトの苦悩を理解して見守っていたんですねぇ。
戦争体験、人種問題、家族、老い、さまざまな問題が日常の中に描かれていたなあ。と思います。
私もまたイーストウッド主演の次回作を望みます。
グラントリノのラストはガントレットと同じなんですか!機会があったらみてみます!
そうなんですよ~。ご指摘のとおり、不在の人が非常に重要な役割を果たしているのが彼の映画の特徴で、何度見ても新たな発見があります!
公開終了間近ということで、言葉の足りなかった部分について、ここで説明させていただきますね。
ラストについて賛否両論ありますが、イーストウッドは、俳優としてデビューしたときから、一貫して暴力を否定してきました。
マカロニウエスタンは暴力的な描写が「売り」で、『ダーティハリー』も全てを銃で解決する刑事が主人公のように思われていますが、表面的にはそう見えるかもしれませんが、長い年月を経た今、彼のフィルモグラフィーを振り返ると、芯が全くぶれていなかったことがわかって背筋を正しました。
とりわけ、監督デビュー作の『恐怖のメロディ』(『危険な情事』は本作のリメイクです)と第2作の『愛のそよ風』(『ミリオンダラー・ベイビー』で自作をリメイクしました)に彼の「好み」が良く描かれていました。
西部劇に対しても大変な思い入れがあり、『荒野のストレンジャー』『アウトロー』『ペイルライダー』『許されざる者』という四部作を作っていて、『荒野のストレンジャー』と『ペイルライダー』、『アウトロー』と『許されざる者』が、互いの変奏であったり、入れ子になっているなど、四作通して交響曲を聴いているような気持ちになりました。
「暴力」に関しては、最新作になるにつれて大きなテーマになっていき、戦争や死刑といった犯罪以外の暴力行為にも疑問を投げかけています。「人を殺した人間は、二度と元に戻れない」という思いは『許されざる者』あたりから執拗に描かれており、理不尽な「正義」を行使して町をコントールしていた保安官を演じたジーン・ハックマンも、実はこわもての顔に似合わず暴力的なことが大嫌いな俳優です。
『ミリオンダラーベイビー』では、問題になった尊厳死の是非についてよりも(それこそ賛否両論あるでしょうが)「ボクシングが真のスポーツと呼べるのか」疑問を投げかけているような気もしました。
『グラントリノ』のウォルトもまた、自分がふるった鉄拳制裁が、結果として守るべき姉弟にどんなひどい暴力をもたらしてしまったかを考えた上で、彼なりの方法を考えついたのでしょう。KEIKOさんのおっしゃるとおり、筋を通したのだと思います。相手をだましたのではなく、チャンスも与えています。
映画史的には、彼を一躍有名にした『荒野の用心棒』でも、ラストの決闘シーンで彼は弾丸を受けてもんどり倒れます。でも、トレードマークになったポンチョの下に鉄板を仕込んでいたため、敵を倒すことができました。映画主演作の最初と最後(と本人は言っている)にもんどり倒れる演技をしたのも、イーストウッド流の「筋の通し方」だったのか、「遊び心」だったのかもしれません。
『ガントレット』は「こんなことはありえない!」と酷評された作品でした。イーストウッドは映画のラストシーンで、バスの内側に鉄板を張り付け、待ち受ける警官隊の銃列の中を強行突破するのですが、このシーンが『荒野の用心棒』のラストとかぶることに気づいた人は、極めて少数でした。『ガントレット』はアクション映画ですが、中身はたわいもないラブストーリーで、ゆっくり走るバスに浴びせられた何万発とも言われた銃弾は、結婚式を終えた新郎新婦に浴びせるライスシャワーと同じ「祝福」だったのかもしれません。だから、誰も死なない!
以上、長々と失礼しました。イーストウッドについて語り出すと、話が止まらなくて、すみません・・・
機会があったら、色々ごらんになってくださいね~