武蔵国分寺跡北方地区発掘現場。出土品は少なく、縄文以前の人々は後方に見えるマンション群あたりに集落を作っていたと思われる・・・。
(冷凍怪獣ペギラかバラゴンが近くにいるかような)身も凍る寒さの中、武蔵国分寺跡の発掘現場を見学してきました。
今回(2月16日)公開されたのは、「武蔵国分寺跡北方地区」と、「武蔵国分寺金堂跡周辺」の二か所です。こんなに寒いのに、思った以上の人々が見学に来てました(平均年齢にすると、50以上だと思うけど)。寒風吹きすさぶ中、長時間立ちっぱなしで説明してくれた皆様、ありがとうございました。
遺跡の発掘は、地層ごとに行います。掘れば掘るほど過去に遡るタイムマシンと言ってもいいでしょう。現在進行形(3月31日に調査終了)の「北方地区」では、近世・古代・縄文・旧石器の各地層を見ることができました。
縄文以前の人々は、国分寺崖線(清志郎が唄った多摩欄坂から泉帳交差点へ至る崖上=多摩欄坂遺跡)から湧き出る湧水に沿う形で集落を形成していましたが、「北方地区」は集落の南の外れだったようで、石器(矢じりや斧)を作る工場のようなもの以外の、生活していたことを示す遺物は出土しませんでした。当時の人々は、平成7年に発掘された東山道(奈良時代の国道)の西側に集落を作っていたようです。
歩道として保存された東山道武蔵路。北に延び上野国(群馬県太田市)に至る。武蔵国から西へ上り、都(奈良&京都)までを結んでいる。幅12mあって、左右に80cmの側溝を備えていた。11世紀初頭まで使われていた国道。吹きっ晒しで兎に角寒かった・・・。
地層のタイムマシン。左側の溝が近世(江戸)時代のもので、右側の溝が古代(奈良~)時代のもの。用途は不明だが、古代溝は写真で言うと上の方で左側直角に曲がっている。コンクリートの基礎は鉄道学園の体育館の基礎の跡。旧国鉄が所有していた鉄道学園の運動場付近に遺跡が多数あったと考えられている。国鉄解体後の再開発で、今のマンション群が建設される前に大々的な発掘調査が行われた。
(左)旧石器時代の地層から出土した遺跡。このあたりに住居はなかったらしい。
(右)素人の自分にはさっぱりわからないけど、これが1万5千年(第1ブラックバンド)~3万5千年前(第2ブラックバンド)の地層。ナイフ形石器が第1ブラックバンドから出土した。斑鳩では蘇我馬子の宮殿クラスの住居が発掘されました。ロマンを感じます。
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