しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <レビヤタン>

2021-05-18 | ヨブ記

「そのからだの部分についてわたしは黙ってはいられない。それの力強さと、その体格の見事さについて。」(ヨブ記41:12新改訳)

レビヤタンとはワニか恐竜の類であろう。今日世界各地で発掘された恐竜の骨格が、博物館などに展示されているが、なかには30m以上のものもあり、巨大さに圧倒される。神はそれらを苦も無く創造され、生かし、またほろぼされた。「ヨブよ、お前はアリ一匹造れないのに、レビヤタンを思いのまま飼いならせるのか。陸上の生き物も自由にならない人間が地球の大部分を占める大海と、その中に生息する無数の生ける物を支配できるであろうか。」▼ 前章で既に両手を口に当て、全面降伏したヨブであったが、神は挑戦の手をゆるめず、なおも迫り続ける。こうして彼は自己の極小さを徹底的に知らされ、「正しい自分になぜこうした苦しみが臨んだのか、その理由を示せ」と神に迫った、そのことがどれほど尊大深く、罪深いあり方であったかを悟ったのであった。▼ヨブが砕かれて取った態度と悔い改め、いうまでもなく、それはすべての信仰者の姿になるべきである。ヨブがなぜかくも大きな、前代未聞ともいうべき患難のるつぼに投げ込まれたのか。我々はその理由を最後に来て知らされる。それは彼が自己の小ささ、その価値が鴻毛(こうもう)よりも軽いものであることを徹底的に知ることにあった。逆に言えば、人間の高慢という罪性はそれだけ大きく、固い岩であることを物語っている。神が天地を総動員して襲い掛からねばならないぐらい、人の本質にある高ぶりは高く、深く、固いのである。チリのチリより小さく軽いヨブ、零にひとしいヨブ、そのヨブが神の居ます天に届くぐらい高ぶっていた。実にそこにこそ罪性というものの恐ろしさがある。しかも悲劇はそれがまったくわからない、そして私は正しく潔白だと主張してやまない、そこにある。▼これこそ、現代社会の根源に存在している悲劇の正体にほかならない。たとえば離婚についての男女の争い、二人の人間がどんなに自分が義であるかを主張し、相手がどんなに悪人であるか、口を極めて非難し合う。そこに再現されるのはヨブの世界、まさに一事が万事である。▼神はこの心を砕くため、かけがえなきひとり子を十字架につけられた。何と大きな値を払われたことであろう。人は聖霊に連れられてゴルゴタに来るとき、はじめて「まちがっていたのは私でした。どうか私をゆるしてください」との言葉が口から出る。救いにあずかるとはそれである。