しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 詩篇104篇 <主の栄光が、とこしえに>

2017-05-01 | 詩篇

赤い花「主の栄光が、とこしえにありますように。主がそのみわざを喜ばれますように。主が地に目を注がれると、地は震え、山々に触れられると、山々は煙を上げます。」(詩篇104:31,32新改訳)

本篇は創造賛歌ともいうべき詩篇で、神の雄大で愛に満ちたみわざが自然界に現れている様を歌ったもの。▼アダムの罪のため、のろわれた状態になったとはいえ、宇宙万物は神の栄光をいたるところに輝かせている。ひとり罪ある人間だけが、霊的盲目のゆえにこれを悟らず、自分がこの世界でもっともすぐれた存在だと思っている。滑稽というしかない。なぜなら、もっともすぐれた存在のはずの人間は、隣人を愛せよという神の仰せすら、満足に行うことができない。健やかなときも病めるときもと誓い合った夫婦が憎み、いがみ合い、時には殺し合う。サルでもヤギでもそんなことはしないのに・・・。偶像を作り拝んではいけないというのに、動物、爬虫類、山川草木、日月星辰、ありとあらゆるものを神に仕立て、手を合わせて拝む。犬や猫が尿をひっかける道端の像や祠までうやうやしく礼拝する。数え上げればきりがない。▼冒頭の聖句は、地震や火山活動さえ、原因が神にあることを示している。現代人は自然界の異変などを、考え出した理論で説明するが、結局はわからないことだらけだ。毎年、どこかで洪水、土砂崩れ、津波、噴火、地震などが発生し、観測網が張り巡らされているのに、死者・行方不明者が出ない例はない。今なお、国内難民の方々が生まれ、仮設住宅がなくなっていない。反対に増えている。これでも人間は万物の霊長なのだろうか。▼真に正しい生き方は、傲慢で尊大ぶった態度を改め、「主の栄光が、とこしえにありますように」と創造主の前にひざまづき、謙遜な礼拝の姿勢をとることにつきるのである。