しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <永遠の完成>

2022-06-25 | ヘブル書

「なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。」(ヘブル10:14新改訳)

一つのささげ物とは、十字架につけられた主ご自身のことで、主は自分から進んで神にのろわれる者となられたのであった。なぜなら「木にかけられた者はみな、のろわれている」(ガラテヤ3:13同)とあるからだ。つまり、キリストは御父に従うことにより、ご自分をのろわれた存在として十字架上に差し出されたのであった。▼しかしここにもう一つ、のろわれたものがある。それはパウロが言う「私のうちに住んでいる罪」(ローマ7:20)、すなわち本章22節の邪悪な良心である。他の表現では「古い人」ともよばれている。そうすると、この二つの事実を突き合わせると、十字架においてキリストと古い人は一つになってのろわれていることになる。これはまるで炎と氷が一つになったようなもので、私たちの常識や理性では決して理解、納得できないものだ。しかし聖書はそれを事実として宣言していることを信じ認めなければならない。パウロは断言している。「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。死んだ者は、罪から解放されているのです」(ローマ6:6,7同)と…。▼これはなんとすばらしい事実であろう。何千年もの間、人間が苦しみ抜いて来た罪の本質、心にまとわりついて、どうしても離れなかった古い人が、キリストの十字架により、取り除かれてしまった。これこそきよめの本質、福音の中心そのもの、まさに喜びのおとずれである。