しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <この務めに任命して>

2022-04-08 | Ⅰテモテ

「私は、私を強くしてくださる、私たちの主キリスト・イエスに感謝しています。キリストは私を忠実な者と認めて、この務めに任命してくださったからです。」(Ⅰテモテ1:12新改訳)

パウロは決して強い人ではなかった。使徒の働きなどを読むと、彼の激しい性格、妥協しない態度が強く表れている印象を受ける。だがそれは彼の一面であり、本当は神の前における弱さを深く自覚した人であった。▼たとえばエペソ教会への手紙では、福音の奥義を大胆に語れるように祈ってほしい(6:19,20)と要請し、ローマ書では、不信仰な人々から救い出されるため、力を尽くして私のため神に祈って下さいと願っている(15:30~32)。▼これからわかるのは、ほんとうに強い人とは自分の弱さをありのまま認め、「私は神の力によってのみ強くされるのだ」と心から自覚している人だということ。▼宣教生涯において何度も死地をくぐり抜け、奇蹟的な活動を続けたパウロほど自分自身の弱さと無力さを知っていた人はいない。逆にいえば、それが真に強いということだ。私たちも「どうか私のため祈ってください」と率直に祷援を依頼する者になりたい。

我々はしばしば、聖霊に満たされることを、サムソンのようなパワーにあふれることだと想像しがちである。だがパウロの書簡全体を通して浮かび上がる「宣教の巨人」像は、そのようなものではない。祈らずには何もできない、主のあわれみと恵みを抜きにしては自分の存在すら保ち得ない、というひとりのキリスト者の姿である。▼教会の諸問題のため途方に暮れ、しばしば夜も眠れずに嘆願する聖徒、ある時は喜び、ある時は悲しみ、敵の餌食になってしまう信仰者たちに失望して呻き祈る神の器、それが教会歴史上最大の「神の人」であった。御霊のきよめと力に満たされるとは、御子と御父の前でありのままに生きることが真にできる人を指すのではないだろうか。「私を強くしてくださるキリスト・イエスに感謝しています」と心から言うことのできる生涯、それこそがキリスト者生涯のすべてであることを思い、喜びながら歩みたく願うものである。