「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。」(Ⅰテモテ2:6新改訳)
ここは簡潔ながら、福音の根幹をなす真理をあらわしたみことばである。▼人が罪を犯すというのは、永遠なる神の御心を破壊する行為である。したがってそれを償おうとすれば永遠の罰を代価として支払わなければならないのは当然であろう。永遠を台無しにしたのだから。▼しかるに人は永遠者ではないから、それができない。コラ人が歌うとおりだ。「兄弟さえも人は贖い出すことができない。自分の身代金を神に払うことはできない。たましいの贖いの代価は高く永久にあきらめなくてはならない。」(詩篇49:7,8同)▼だからここに永遠の神が全き人となる必要が出て来たわけである。すなわち、アダムたちが罪を犯した時点で、神の御子の受肉は必然となった。しかも、その御子が完全な贖いの代価として、十字架に宥めのそなえものとなることも必然であった。これ以上に不思議で感動に満ちたできごとは天にも地にも存在しない。
<ああ驚くべきイエスの愛よ>
①ああ驚くべきイエスの愛よ 罪を消し去るおおみ恵みよ いかなるものも立ち返らば 救い給う主の恵みよ
②ああ驚くべきイエスの愛よ 我をもみ子となし給えり 罪の鎖を打ち砕きて 自由なる身となし給えり
③ああ驚くべきイエスの愛よ 自由なる身となすのみかは 心を変えてあらたになし みそば近く召したもうとは
〔折返し〕
恵みの深さ広さ 測り得るものなし 深さ広さ誰かは測り得る けがれにけがれし身も 恵みにて救わる 尊き御名をたたえよ たたえよ
<新聖歌224 詞:Haldor Lillenas.1885-1959>