【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「隣る人」

2012-06-14 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)


施設に暮らす子どもたちとその職員のドキュメンタリー。
幼い女の子が母親の家に一時帰宅するんだけど、泊ってくるかどうか。たったそれだけのことが、とてつもないサスペンスを醸し出す。
母親と女の子の間に微妙な距離感があって、それがスクリーンからビンビン伝わってくる。
それを見守る施設の職員たち。
世界の一大事に立ち会ってしまったような緊張感。
ドキュメンタリーを観る醍醐味っていうのは、こういうところにあるっていう典型のような場面だ。
この先いったいどうなるんだというサスペンスは、平凡な劇映画をはるかに超えている。
扱っているのは、とても小さな世界なのに。
人間を見つめる、ってこういうことよね。事件の大小ではなく、人間の機微を見つめれば映画になる。
この少女、幼いのにふと見せる表情には、おとな顔負けの深さがある。
深いところに抱えている思いっていうのは、おとなとか子どもとか関係ないってことがよくわかる。
そして、もうひとり別の少女にもスポットがあたる。
施設の職員を母親のように慕い、それだけに自分の担当職員が変わることになったときに、この世の終わりのように泣きわめいて抵抗する。
もはや、施設の職員が母親以上の存在になっている。
文字通り、「隣る人」。
だから、引き離されることに全身全霊をこめて抵抗する。
まさしく、“全身全霊”とはこういうときに使う言葉よね。
さらにそれだけではなく、駄々っ子のように泣き叫ぶ女の子をじっと見つめる、もうひとりの女の子をカメラは捕える。
実はこの子が、後半、一時帰宅で母親のもとに泊ってくるかどうかという状況になる少女。
同じような境遇の子を見つめる彼女の胸に到来するものは何かと考えると、胸がかきむしられる思いだ。
って、あなたが胸をかきむしったらエネゴリ君になっちゃうわよ。
ウォホウォホウォホ・・・って、茶化すな。真剣な話をしているんだから。
ええっ。“真剣”なんてことば、まさかあなたのようなちゃらんぽらんな人間の口から出てくると思わなかった。
それぐらい衝撃を受けたってことだ。
なるほど。

「ポテチ」

2012-06-13 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

伊坂幸太郎の小説と中村義洋監督ってほんとに相性がいいんだな。
それに出演は濱田岳という伊坂&中村映画になくてはならないキャラクター。鉄壁の布陣だわ。
今回はなんと!彼が主役。身長も容貌もぱっとしない存在は、今回の物語にぴったりだ。
この原作・監督・出演のゴールデン・スランバーならぬゴールデン・トライアングルが醸し出す伊坂&中村&濱田ワールドって、観ていてほんとうに心地いい。
ゴールデン・スランバーって黄金のまどろみっていう意味だけど、彼らの映画自体ゴールデン・スランバーをもたらすような心地よさに満ちている。
前回の「ゴールデン・スランバー」から一転、今回は空き巣稼業という小じんまりした世界の話で上映時間も68分。
それだけになお一層愛すべき小品に仕上がっている。
「ポテチ」という軽いタイトルどおり、構えは小さくなったけど、あいかわらず会話の妙味や、関係者たちが微妙にずれながら絡んでいく過程や、物語の種明かし具合がいちいち心地いい。
恋人との出会い、親分との間抜けな会話、仕事の先輩の佇まい。
すべてが絶妙に絡み合って、ラストへ落としこまれていくのは、いつも通り。
今回は、そこに母親への思いが加わってくる。
石田えり。彼女の存在が重しのように効いている。
ある意味、彼女が主役でもある。
すべてを知っているような、知っていないような、母親ならではの測りがたい表情が、この地面から足を浮かせたような軽妙な映画を地上につなぎとめる。
しょせんホラ話なんだけどね、っていう映画の世界観を壊すことなく魂を吹き込んだ。
って、ずいぶんオーバーな表現ね。否定はしないけど。
無邪気なような、でも心の内には何かを秘めているような彼女の演技が逆に映画をひきしめたことは事実だ。
なるほど。
サッドヴァケイション」の母親役に匹敵するな。
っていくらなんでも、それは飛躍しすぎでしょう。
ポテチン。

「ロボット 完全版」

2012-06-11 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)


インドの博士が人間型のロボットを完成させたところから起こる事件の数々。 監督はシャンカール、主演はインドのスーパースター、ラジニカーント。
何と言っても、メインストーリーとは関係のないミュージカル・シーンをわざわざマチュピチュでロケするっていう発想が凄い。
さすが、歌と踊りが命のインド映画。
それにしたって、わざわざマチュピチュまで行くか。
だから、そこがインド映画の大胆さというか、パワーというか、たくましさというか、あきれるところというか、脳天気さというか、真似できないところなのよ。
おそらく、現地の観客たちは、こういうシーンになると欣喜雀躍して一緒に歌ったり踊ったりするんだろうな。インド人の中で観てみたい。
一種のライブね。
だから、3時間くらい上映時間がないと納得しない。
でも、日本で最初に公開されたのは、短縮版。この感動的にばかばかしいマチュピチュのシーンをカットしちゃったらしいわよ。
なくてもストーリーはつながる、ってか。まるでテレビの発想じゃないか。
それが、インドと日本の文化の差なのかもね。
インドのほうが上ってことか。
上とか下とかじゃなくて、国民性の違いよ。
おお、国民性の違いにまで話は及んだか。
少なくとも、観客を楽しませることなら、何でもやる。理屈もへったくれない、っていう姿勢は貴重ね。
中盤、火事から助けられた少女があることから悲惨な結末を迎える、なんてほんとはとても深刻な話なのに、映画はもちろんそんなところには頓着しないでどんどん前へ進んでいく。
クライマックスのバトルシーンなんて、これでもか、これでもか、のてんこ盛り。
とんでもない。これでもか、これでもか、これでもか、これでもか、これでもか、これでもか、のてんこ盛りだ。
VFXを徹底的に使いこなしているんだけど、全然洗練されてなくてどこか安っぽい感じがぬぐえない。
あまりの力の入れように、かえってハリウッドに追いつこうとして追いつききれないやるせなさがほの見えたりして、涙さえ出てきそうだ。
インドかんばれ、ってね。
あぁ、三池崇史にインドで撮らせたい。
なんで?
スキヤキ・ウェスタン ジャンゴ」や「ゼブラーマン ゼブラシティの逆襲」の三池崇史だぜ。インドで映画を撮ったら狭い日本じゃ納まりきれないハチャメチャな快作を生むんじゃないか。
快作じゃなくて、怪作でしょ。