【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「ハート・ロッカー」:築地三丁目バス停付近の会話

2010-03-13 | ★業10系統(新橋~業平橋)

ずいぶん頑丈そうなビルだな。
テロに攻撃された場合でも想定しているのかしら。
しかし、テロって言っても、人間爆弾みたいなテロもあるから、建物を頑丈にしても防ぎきれるとは限らない。
「ハート・ロッカー」に描かれたイラクの状況みたいにね。
アメリカ軍の爆弾処理班の物語なんだけど、相手は得体のしれないイラク人。それだけで恐怖の対象になる。
イラク人は全員が怪しいテロリストに見える。
そんな中に派遣されたのが爆発物処理には一級の腕を持つ男。
でも、人間的には欠陥もあって仲間たちと衝突したりする。
彼らの行動を手持ちカメラが逐一追うんで、圧倒的な迫真感はある。
映像も編集も一流よね。
でも、この手の秀作って、ベトナム戦争のころには数え切れないくらいつくられたような気がする。
「フルメタル・ジャケット」とか「プラトーン」とか「ディア・ハンター」とか「地獄の黙示録」とか「カジュアリティーズ」とか「帰郷」とか、手を変え、品を変え、そうそうたる秀作群がつくられた。
さすがに爆弾処理班を主人公にした映画はなかったかもしれないけど、こういうジャンルの映画の中に位置づけると、「ハート・ロッカー」はイラクを舞台にした同時代性はあるけど、特別、新味のある映画とも思えない。
舞台をイラクの砂漠じゃなくて、ベトナムの密林に置き換えれば、あの当時の映画になる。
ラストの主人公の決断も実はどこかで見たような展開。
こうして同じような悲惨な物語が繰り返されるっていうのは、アメリカという国が泥沼のベトナム戦争から何も学んでいないっていうことかもしれないわね。
むしろ、後退しているかもしれない。
人種のるつぼと言いながら、アジアや中東の民族といかに相対するかっていう学びが足りなさすぎる。
映画の中に出てくる敵も、人間的な側面は一切描かれない。それがアメリカ人から見た敵の姿なんだろうけど。
ついこの前観た第二次世界大戦のフランス映画「海の沈黙」なんてドイツ人将校が、敵なのにとっても人間的に描かれていたけど、同じヨーロッパ人同士だからね。
たしかに、敵の姿がまったく描かれなくなったのは、べトナム戦争あたりからかもしれないな。
でも、あの頃は反戦運動も盛んで、それに呼応するようにベトナム映画もたくさんできたんだろうけど、いまは反戦というより厭戦気分のほうが多くて、イラクを描く映画を積極的に観たいっていう状況にさえ、ないのかもしれないわね。
戦争自体、まだ続いている状態だしな。そういう意味で、こういう映画がアカデミー賞を獲るとは予想もしなかった。
せめてもの、アメリカの良心かしら。
でもなあ、アカデミー賞も最近は、出来はいいけど華のない映画ばかりが選ばれるようになっちゃって、魅力が薄れてきちゃったなあ。
じゃあ、「アバター」が選ばれたほうがよかった?
ああ。なんていうか、けれんみがある。懐の深さがある。アカデミー賞なんて、しょせん、お祭りなんだから、神経症的な映画って似合わないと思うんだけど。
アカデミー賞もお祭りじゃなくなってきたのよ。
お祭り好きも少なくなってきたってことか。
そう。あなたみたいな人は時代に取り残されていくの。
いいのさ。俺は 時代おくれの男になりたい
って、あんたは河島英五か。




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