【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「時をかける少女」:勝どき駅前バス停付近の会話

2010-03-24 | ★業10系統(新橋~業平橋)

開発の進む勝どき界隈にもまだ、こんな時間が止まったような場所が存在するのね。
まるで昭和の風景そのままだな。
あー、あの頃に戻りたい。
って言って、戻っちゃったのが、谷口正晃監督の「時をかける少女」。
戻っちゃったんじゃなくて、2010年の高校生が母親の願いを受けて1970年代に行く話よ、新作の「時をかける少女」は。
その母親っていうのが、オリジナルの「時をかける少女」で未来から来た少年と出会った少女の年食った姿だっていうんだから、なんだからややこしい。
年食ったとは失礼ね。安田成美がおとなになった芳山和子の役を品よく演じているじゃない。
安田成美の娘役が仲里依紗。今回は彼女がタイムリープする。
つまり、オリジナルの「時をかける少女」の続編ってわけ。
なんといっても、開巻直後、仲里依紗が全速力で走るタイトルバックのシーンが素晴らしい。
原田知世が大林宣彦監督版で演じたおしとやかな少女と違って、元気いっぱい、はちきれそうな高校生。
仲里依紗自身が声を担当した細田守監督のアニメーション版「時をかける少女」も元気いっぱいだったけど、今回はそれ以上だ。
それにしても、「時をかける少女」ばかり、何でこんなに何回も映画化されるのかしらね。
そりゃ、タイトルを見りゃわかる。
タイトル?
ああ、「時をかける少女」なんて、映画の題材にぴったりだと思わないか。
どういう意味?
時を“移動”するんじゃない。時を“かける”んだよ。走るんだよ。動くものを写し取るのがそもそもの映画の原点だとすれば、この躍動感こそ、モーション・ピクチャーの真髄だ。
なるほど。
しかもなお、映画は“時間”というものがなければ成り立たない芸術だときてる。“時をかける”少女なんて、これ以上、映画の基本に忠実な題材はない。
だから、仲里依紗が全速力で走っているだけなのに、タイトルバックのシーンが感動的になっちゃったんだ。
細田守版の主人公もやたら走り回ってたし、大林宣彦版は主人公がおとなしいぶん、映画自体がやたら躍動してた。
それを受けての新作。どんな傑作になるんだろうと期待させるに十分の導入よね。
ところがあとが続かない。1970年代にタイムリープしたとたんに、躍動感が停滞してしまう。
そこで出会った大学生が8ミリオタクだったなんて、大林監督なら大喜びしそうな設定なんだけどね。
というか、大林監督なら、この設定をしゃぶり尽くすまで活かしていたんじゃないかなあ。
いままでの映画は、やたら時間を行ったり来たりしてたのに、こんどの映画は、いちど過去に戻ったら、ほとんどそのまんまなんだもんね。時間を旅する原点を忘れてる。
現代の少女が30年前に戻ったらどんなカルチャーショックを受けるのかっていうのがテーマだとしたら、それは「時をかける少女」とは違うような気がする。
そのカルチャーショックも通り一遍の感じがするしね。
時間の合間に漂ってしまった少女の戸惑いや、しょせん違う時間を生きている少年への切ない思いといったものも、期待したほど感じられなかったしなあ。
たしかに、これまでの「時をかける少女」は、時間を巡る躍動感と切なさが一対になってた。仲里依紗が、あまりに陽性すぎたのかしら?
配役としては決して悪くない。もっともっと、飛んだり跳ねたりしてほしかったくらいだ。彼女を見つめる製作者に“時間”という不安定なものに対する自覚がもう少しほしかったっていうことじゃないかな。
最後は、“かける”どころか歩き出しちゃうしね。
時を歩く少女…。
いや、道を歩く少女。
“走るんだ、仲!”という俺の思いも届かなかった。残念。
仲?仲里じゃないの?
違う、違う。名字は、仲。名前が、里依紗。
なんだか、妙に美少女には詳しいのね。
くやしかったら、少女たちに交じってこの手の映画を観るオジサンの気持ちにもなってみろ。
別に、くやしくないし。



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